2023/11/29

ナバール式の構えだな

11月20日に梅田芸術劇場メインホールにて宝塚歌劇花組全国ツアー公演「激情」と「GRAND MIRAGE」を見てきました。

「激情」は2016年に月組全国ツアー公演を地元で観劇した時の印象が強く残っています。
当時はトップスター就任前の月組2番手男役だった珠城りょうさんが主役のホセを務め、トップ娘役の愛希れいかさんがカルメンを演じていました。

今回の花組も2番手男役の永久輝せあさんが主役のホセ役。
現花組トップスター柚香光さんが次回大劇場公演の演目をもって退団を発表されているので、次期花組トップスターは未発表だけど永久輝さんで決定でこの全国ツアーが顔見世的公演ということなのかなあ。
実力、経験ともに永久輝さんはいつトップに就任されても大丈夫だしあとは発表のタイミングの問題かなと思っています。

今回のカルメン役は星空美咲さん。別箱公演や新人公演でのヒロイン役を幾度も務めていてこちらも実力、実績ともに問題なし。
ただ今回にかぎっては、カルメンがカルメンでなくては作品が成立しないけど大丈夫かなぁという心配はありました。

2016年月組版ではカルメンを演じた愛希れいかさんのしなやかで精気溢れるダンス。心を振り絞るような声。どうにもならない葛藤に激しく心が泣いているように聞こえた「カルメンはどこまでも自由なカルメンでいたいんだ!」に心を揺さぶられた記憶がいまも脳裏に刻まれています。
けれどその近代的な葛藤がどうにも私が思い描いていたカルメン像としっくりこなくて・・すごく心を揺さぶられとても共感を覚えたのだけど複雑な思いになった記憶があります。
のちに愛希さんのエリザベートを見てこれだ!と膝を幾度も打ち鳴らしたい衝動に駆られました。いま生きている場所に対する居心地の悪さ、抗ってもどうにもならない無力さに地団駄を踏んで泣いているような愛希さんが演じる女性像に私は心を掴まれるのだとわかりました。
ただそれは私の中ではカルメンではなくエリザベートだったんだなと。

そんなふうにカルメン像にこだわりが強いため、星空さんはどんなカルメンを見せてくれるのかなぁとドキドキしながら観劇しました。

星空さんのカルメンは、最初はとても幼いカルメンだなぁという印象でした。身のくねらせ方やフラメンコは頭の中の愛希カルメンと比べてしまってぎこちない気がしていたのですが、見ているうちにどんどんカルメンとしての生き様に引き込まれていきました。

束縛されるのは嫌。所有物にされて囲い込まれたくない。ホセが勝手に思い描く「彼が心地よい人生」の一部にされたくない。
先の約束なんてできない。いまこの刹那に心が動くものを追いかけたい。
幼さもありながら迷いなくがんがん突き進む、この強さはどこから来るのだろう・・。
星空カルメンの「カルメンはどこまでも自由なカルメンでいたいんだ」にガツンとやられました。

彼女の気持ちを無視して自分のために彼女を縛り付けようとするホセに嫌気がさしているのもエスカミリオに惹かれるのもよくわかりましたし、自分を貫き通して死んでいく自分に納得しているのもよくわかりました。

ホセはポテンシャルは十分にあるのに、それを他人が作った規律の中でしか活かせない、どの集団に属しても有能なのに「自分の外の何か」にしがみついていないと生きていけない「自分が自分の王」にはなれない人なんだなぁと思いました。
カルメンが「あたいはオオカミ、あんたは犬」と言うのが胸にストンと堕ちました。

自由なカルメンに魅せられながらも、彼女を既成の檻の中に閉じ込めないと不安でしようがなくて彼女の芯から目を逸らすホセ。
彼女の本質を潰しても自分の囲いの中に置いて自分が安心したい。結局カルメンにミカエラのように生きることを望んでいる。
根本的な価値観が「ナバール式」なんだろうなぁ。それならミカエラと結婚すればいいのにと思いながら見ていました。
けっきょく「男らしい」という借り物の規範に自分が縛られて「男らしく女を従わせるという幻想」に囚われて自滅したんじゃないかなぁと。

19世紀のパリに生まれ洗練された時代の先端を生きるメリメには、自分にはできない純粋で泥臭い人生を生きたホセへの憧れと共感があるのだろうなぁとも思いました。
現代を生きている私がカルメンに強く惹かれるものがあるように。

そのホセがカルメンを刺殺してから処刑されるまで。
舞台だとほんの刹那ですが、その時の永久輝ホセの瞳がとても印象的でした。
それまでとはまったく違う顔をしていて、ああホセはたどり着いたんだなぁと思いました。
メリメもこのホセの瞳に触発されて小説を書いたんじゃないかと思うほど。
そうかホセがこの境地にたどり着くまでの物語だったのだなぁと勝手に納得してしまいました。
永久輝さん凄いなと。

永久輝さんのホセも星空さんのカルメンも、2人を取り巻く人々もとても解像度が高くてクリアでした。
いままで漠然としていた「カルメン」という物語に一瞬眩しい光が当たって明るく見えたような感覚を覚えました。
書物の中では感じ得なかった19世紀の感触が一瞬掴めたような・・それが現代と交錯した瞬間を私は見たんじゃないかなぁと思いました。

ロマのカルメン、誇り高く勤勉で真面目といわれるバスク人のホセ、そこにブルジョワ青年でフランス人作家のメリメの視点が加わる。
交わるはずのない3人がスペインのセビリアで出遭う。
人物配置が決まった瞬間からもうドラマが起きないわけがないやんという神設定の物語だったのかとあらためて気づきました。

2016年の月組版では、ホセ役の珠城さんとカルメン役の愛希さんが激しく心をぶつけ合っているそばで、ふわふわしたモラトリアム青年のメリメがお花畑の人みたいで正直イラっとしたのを覚えています。
メリメが説明しているようなことは言われなくても珠城さん愛希さんの芝居でわかっているのにいまさら?みたいに。

ところが今回はそう感じませんでした。
脚本は変わっていないはずなのに。演じているのも月組版の時とおなじ凪七瑠海さんなのに。

今回のメリメは小説家だなぁという印象でした。
このホセとカルメンについて受容しリスペクトしながらも異なる文化を生きている人だったように感じました。
ホセ、カルメン、メリメのバランスの違いで見える景色が変わったのかなぁ。

月組版の時は私の気持ちが「ホセ」と「カルメン」に引っ張られて行っていたのかもしれません。それはそれでとても見応えがあってよかったと思います。
今回はメリメの存在を視野に入れることで引きの目線で「ホセとカルメン」を感じることができたのかなと思います。

同じ作品でもこんなに異なった印象や感想になるなんて、やっぱりお芝居は面白いなぁと思います。

「GRAND MIRAGE」は今年大劇場で上演したばかりの岡田敬二先生のロマンチック・レビューの新作の再演。
大劇場公演での観劇では、新作だけど新場面だけど既視感があるのが面白いなーと思った作品でした。

全国ツアー版では少人数になって主演コンビが変わって、どうなるのかなぁと軽めの気持ちで見ていたら、プロローグからうるうるしてしまって結局最後まで涙目のままの観劇になりました。

舞台の上のタカラジェンヌの皆さんが煌めいていて華やかで気品があって・・。それを間近に見るだけでこんなにも心震えるんだと思いました。
「岡田先生のいつものレビュー」なんて軽い気持ちで見てゴメンナサイでした。
「岡田先生のいつものレビュー」・・なんて貴い・・と感動しました。

全身紫陽花色のくすみパステルの夢夢しいスワローテイルにロングドレス。
こんなコスチュームが似合う人たちがこれだけ舞台に揃うってあり得る?
どれだけの努力をしたらこのコスチュームが似合うフェアリーになれるの?
と。

美しさに感動できる体験なんて日常のなかでそうそうあるものではないのに。それをこんなに間近に感じられる幸せに涙しました。

カーテンコールの挨拶で永久輝さんが「皆さまが愛する宝塚、私たちが愛する宝塚を全国に届けてまいります」とおっしゃったことも胸に沁みました。
この幸せな体験がたくさんの方に届きますように。
そして花組の皆さんが健やかに全国を巡られますように。
心から祈っています。

「激情」CAST

ドン・ホセ(永久輝せあ) 
カルメン(星空美咲)
プロスペル・メリメ/ガルシア(凪七瑠海)

フラスキータ(美風舞良)
スニーガ(紫門ゆりや)
エスカミリオ(綺城ひか理)
ダンカイレ(帆純まひろ)
レメンダート(一之瀬航季)
ミカエラ(咲乃深音)
モラレス(侑輝大弥)

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2023/11/20

完璧じゃない生きてくことは(Eres mi amor ―大切な人―)

11月14日付で宝塚歌劇団が発表した調査報告書を読みました。

さまざまなことが千々に思い巡らされ、文字にしようとしてもとてもまとめることができませんが、なにか一つを考えるごとに、これだけの放置状態であのとてつもない舞台をとてつもない数こなしていたんだなぁという驚きが心の中から溢れてきます。

「すみれコード」や「フェアリー」という呼称に代表されるような夢の世界にそぐわないからと「存在しないもの」「無いもの」とされていたもの。
それは彼女たちを守るためのものではなく彼女たちの人間としての尊厳そのものを犠牲にさせることだったとあらためて悟りダメージを受けています。
機関誌や専門チャンネル、お茶会などでの彼女たちの発言から断片的に感じるものはあったのにその本質を見ないようにしていた自分が情けないです。

阪急電鉄本体、そして歌劇団の運営側にとっても、彼女たちが命を燃やして頑張っていることは「勝手にやっていること」という認識だったのだなぁと報告書の文面を追いながら考えました。組織全体として俯瞰的な現状把握もなく意識改革もされず、無理が生じるたびに部分最適を繰り返してきた結果が一般社会の常識とはかけはなれた文化の形成につながり、そのことが彼女たちにますます負荷をかけ今回の出来事につながってしまったのだろうと推測して遣る瀬無い思いに心塞がれています。

世間一般から隔絶され放置された状況であれだけの数のあれだけのクオリティの公演(一つ間違うと危険を伴うパフォーマンス)をこなしていくために形成されたガラパゴス的文化はとうてい1人だけで担えるものではなく現場にいる人びとの途切れぬ協力があってこそのはず。
そこに過ちがあったことは間違いはないと考えますが、支え合うことでなんとか成り立っていたものがなにかをきっかけに崩壊してしまった。
それがなんだったのか。それを審らかにできなくては、この先の安全な公演も無理な気がしてなりません。
もちろんなによりも全構成員の意識改革が最優先だと思います。

罪の意識がなかろうと構成員の誰もが加害者であり被害者であり得たこと。
同時に彼女たちに身勝手な夢を託していたファンもまた加害の一端を担っていたことを認める必要があると思っています。

認めるにはつらいことがたくさんありますが、彼女たちが人として尊重されますよういまは心から願っています。

Eres mi amor ―大切な人―/星組公演「シークレットハンター」

 

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2023/11/12

みんながhappy!

10月31日と11月2日に博多座にて宝塚歌劇星組博多座公演 「ME AND MY GIRL」を見てきました。
この公演は主役のビルと遺言執行人のジョン卿を、専科の水美舞斗さんと星組2番手の暁千星さんが役替わりで演じていました。
10月31日の観劇はソワレで水美舞斗さんビルの千秋楽、11月2日は大千穐楽で暁千星さんがビルを演じていました。

お二方とも初日に比べると余裕綽々。アドリブも満載でした。
11月2日の千秋楽では次回大劇場公演「RRR」のPRがチョイチョイ入っていて期待を膨らませました。
どちらのビルもパーティのレッスンの場面などで小桜ほのかさん演じるディーン公爵夫人マリアに対していく通りものアドリブを仕掛けて思わず公爵夫人も笑いそうになっていました。

暁さんビルは公爵夫人が目を離した隙に机の下にするりと隠れてしまいました。落ち着きのないビルならやりそうです。
急に消えてしまったビルに小桜さんは内心とても焦ったようですが、公爵夫人としてビルを探し心配し叱責していた小桜さんはさすがでした。
小桜さんの公爵夫人は怒っていてもどこか可愛らしいところがあるのですが、急に隠れてしまったビルにプンプンしながらもちゃんと舞台にいたことに内心ほっとしている様子もうかがえてさらにチャーミングさが増していました。
ジョン卿が30年以上愛し続けた理由がよくわかりました。
私も公爵夫人がさらに好きになりました。

この博多座公演でビルの役替わりという世にも稀なものを見ることができましたが、演じる人によってこんなにも印象が変わるのだなぁとあらためて思いました。
多動で落ち着かなくて礼儀知らず、でもその人間的な魅力で人々を巻き込んでしまう水美ビル。
危なっかしくて悪戯っ子、内省的で人々との関わりによって気づきを得て変わっていく暁ビル。
そんな印象をうけました。

「私が考える理想のビル」にしっくり合ったのは水美さんですが、暁さんビルと舞空瞳さんサリーの対はこれはまた「私の理想の一対」で、けっきょくどちらも好き❤というのが結論です。

舞空瞳さんはこの個性の異なる2人のビルとそれぞれに心を通わせて、はつらつと陽気に愉快に登場し、健気でせつない心情を歌にのせ、最後はメイフェアレディに大変身というヒロインのサリーを魅力いっぱいに演じていてとても素敵でした。
泣きそうなのに「笑ってるのさ」と言うときのお芝居などなど、本当に表情ゆたかで見ていて胸がきゅんとしました。

ジェラルド役の天華えまさん、ジャッキー役の極美慎さん、パーチェスター役のひろ香祐さん、ジャスパー卿役の蒼舞咲歩さん・・と役のひとりひとりが予想以上にクオリティの高いパフォーマンスで最高にたのしかったです。

それから輝咲玲央さんが演じたヘザーセットがもうこれぞ英国貴族の邸の執事!という感じがして内心たいへん興奮しました。
口には出さないけれど目がものを言っているところとか。目に映る人物ひとりひとりについて、尊敬、愛情、侮蔑・・等々思うところがあるようだけど、それを匿しつつ慇懃な物腰で余計なことは一切言わないかんじがとてもプロフェッショナルで好き❤と思いました。

そういえば、ふつう支配階級の人は邸の執事のことは敬称なしで姓を呼ぶと思うんですが、ジャッキーは彼を「チャールズ」とファーストネームで呼んでいたのが、なにか意味があるのかなと気になりました。邸の人間ではないから? 世代的なもの? なぞです。
それからアドリブだったのか、誰かが「チャーリー」と呼んでいたようにも思います。
(ミーマイは次々に物語が展開していくので思考を止める暇がなくて記憶が曖昧になります・・汗)

あんまりヘザーセットが好きすぎて彼の周辺、彼の反応だけを見ていたい気持ちも湧きましたが、そんなことは無理!(登場人物ひとりひとりが面白くて目が足りない!)
でも叶うなら「ヘザーセットの一日」とか「ヘザーセットの一週間」とか彼の目線でお邸の人々を見てみたいです。
(スカイステージでやりませんか?)

ところでプログラムによると舞台はメイフェアのヘアフォード家の邸宅ということらしいのだけど、冒頭で招待客がトランクを積んだ車に乗り込んでヘアフォード邸での休日の滞在を楽しみにしていると歌っていたり、彼らが領地内でクリケットやテニスやガーデンパーティをしていたり、ビルが狩りや乗馬をしていること、階下にたくさんの使用人がいること、領地内にパブがあることなど(パブの客がビルのことをご領主様と呼んでいる)を見ると、舞台となるお屋敷「ヘアフォード・ホール」はロンドンの邸宅(タウンハウス)ではなくてロンドンから車で小一時間くらいの郊外のカントリーハウスだと思うんです。
たとえば「ダウントン・アビー」に使用されたハイクレア城みたいな。

上級階級といっても皆が皆、カントリーハウスを所有しているわけではないと思いますし、時代的(1930年代)にもカントリーハウスは手放してロンドンに常住している貴族も多いと思うんですが、ヘアフォード伯爵家は領地とそこに歴史ある屋敷を所有している由緒正しい貴族ということだと思います。

その継嗣が他人のポケットからモノを掏るのが特技というランベス育ちでコクニー訛りの行商人ときては、反発が強いのが本当だと思うんです。
ジョン卿が難色を示すのは当然だし、ジェラルドが繰り返しビルの訛りについて言及し我慢がならないと口にするのもまあそうだろうなぁと思うのです。

ですが、ビルの信じられない無作法さを見ても兄の息子なら伯爵に相応しい紳士になる(血筋が必ずものを言う)と公言する公爵夫人も凄いし、お金持ちの伯爵であれば無作法さは不問にできるジャッキーも凄いと思いました。
2人ともとてつもなく器の大きい寛容な心の持ち主なんじゃ・・? それこそ血筋?

ジャッキーのような英国の上流階級の娘にとって爵位と財産がある貴族の長男と結婚できるかどうかは人生の最重要課題。
なりふりかまわず「自分のことだけ考えて」行動するのは至極当然で、現代の受験や就活以上に一生を左右するシビアな問題なのですよね。
自分の力を100%発揮して幸福を掴もうと努力する心意気は立派だと思いました。
こんな彼女ならおそらくこの先の世界の変化にもついていけそうな気がします。仕事に就いても成功しそうです。

ビルだって「伯爵家を継ぎ愛するサリーと結婚してハッピーエンド」のその先は・・その領地やお屋敷を維持していくのはかなりの困難になりそうな時代です。
数年後には第二次世界大戦が勃発しますし英国もこの先いろいろな問題が待ち受けているわけで。
などど、ついつい暗いことも考えてしまいますが、ビルならなんでもやれそうだし、職業を持つことにも抵抗がないだろうし。セールスなんてお手の物じゃないかなと思います。
この時代にビルを第14代伯爵として迎えたことはヘアフォード家にとってなにより幸運といえるかもしれないなぁなんて想像しました。

サリーもジャッキーもたくましくて頼りになりそうです。
2人でメイフェアにブティックを共同経営したりしてたらいいなぁ。
あ、たぶんジェラルドは働いていないと思います・・笑。
でも彼は彼でなんとなくそこにいるだけでいいような・・誰かの対話の相手であったり時代を共有する仲間であったり、その存在が関わる人の安らぎになりそうだなと思います。なにより突っ走るジャッキーを引き留めたりは彼にしかできない役割じゃないかなと。

そんなふうに時が経ってもみんながハッピーでいたらいいなぁと想像しています。

2023年の10月に博多座でこの星組公演「ME AND MY GIRL」を見れたことはずっとずっと私の大切な思い出になると思います。

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2023/11/06

夢を見たの

10月25日と26日に宝塚バウホールにて星組公演「My Last Joke -虚構に生きる-」を見てきました。

天飛華音さんの初主演公演で主人公はエドガー・アラン・ポー、詩ちづるさんが彼の妻となるヒロインのヴァージニアを演じていました。
作演出は竹田悠一郎先生。場面ごとの登場人物たちの有様と言葉を追いながら読み解いていくような宝塚バウホールだからこそできる作品で、脚本は役者を得てはじめて命を宿すのだということがわかる公演でした。
手島恭子先生作曲の憂いを帯びた美しい音楽が舞台を包み込み物語世界に刹那の煌めきをつくり出していました。

肉親の縁に薄く愛着に問題を抱え誰とも信頼関係を築けぬまま、亡くなった母を理想化している青年の物語。
天飛さん演じるエドガー・アラン・ポーの印象は幼児性が抜けきれない癇癪持ち。
人としてしてはならないルールををすでに36破っています。とミーマイのディーン公爵夫人マリアの声が聞こえてきました。

相手に罪悪感を抱かせて行動や考えを支配してはいけません。
「離して」と言われたら離さなくてはいけません。
反論できないからといって癇癪を起こして怒鳴ってはいけません。
自死を示唆して恐喝してはいけません。
病に冒され心細がる妻を独りで放っておいてはいけません・・

独善的でどうしようもない人間でした。エドガー・アラン・ポーという人は。

エドガーに取り憑かれ命をすり減らしていくヴァージニアが不憫でなりませんでした。
最初は興味本位で近づいた年上の男性に手懐けられ、その寂しさに引き寄せられ、激しく責め立てられて彼の世界に取り込まれてしまう彼女が。
おそらく女手一つで娘を育てているヴァージニアの母マリアの心中を思うと心が痛みました。
彼女の真っ当な意見にも癇癪を起こし冷静な話もできない男に、まだまだ手許で愛しんでいたい年頃の娘を・・。委ねたくて委ねるのではないでしょう。

初見ではヒロインの母の心情に共鳴してしまい、エドガー・アラン・ポー、とんでもないやつだと思いました。
とはいえ娘の結婚相手を見つけるために観劇しているわけではないのだから、気持ちを新たに見てみようと翌日の観劇に臨みました。

2回目に見たエドガーも、やっぱりどうしようもない人でした。
恐ろしいほど幼くて純真で邪悪。

他人を陥れる企てに躊躇もなく、期待以上の才を発揮して相手を打ちのめしていました。
これには顔も人も好いロングフェローはひとたまりもない。豆鉄砲を食らった鳩みたいに立ち尽くすだけ。

初めて自分の領域に入り込んで来た人類であるヴァージニアを手放すことができず彼女が自分から離れることを恐れるあまりに無理な結婚をする、まるで孤独な冥王のようでした。

彼女を自分の世界に縛り付けておきながら自分の心の暗黒の淵から目を離すことができず現実の彼女を見ることができない。
ヴァージニアを伴侶に得たことでさらに彼の不安は大きくなってしまったみたいです。
喪失が耐えられなくて病に冒されたヴァージニアを抱きしめにも行けない。
ヴァージニアが彼に捧げる真の言葉も彼の耳には届かない。
かわいそうなヴァージニア。

物心ついてからずっとエドガーにとってのリアリティは憎しみや誹りや妬みに満ちた世界に立ち尽くす孤独で、愛とは儚く指の間からすり抜けるもの。
独りで見る夢の中にだけ在るものだったのかもしれません。
幼い頃に築けなかった愛着の関係が彼の人生に影を落としているように思いました。

幼い子どもが向き合うにはあまりに過酷な環境にいたから夢の世界、自分の内的世界に没入したのかもしれません。
夢想の中の母はやさしく儚く彼に微笑み彼に夢を見させる。
思い出を煌めくような言葉で書きつけておくことで自分の世界を作り出し、内的世界を広げて育っていった人なのではないかと思いました。

海原に浮かぶ砂上の机に向かい、ひとりペンを走らせている青年、そんな心の風景が浮かびました。
喪失の怯えに苛まれ続けた彼は、愛する人がこの世のものではなくなってやっと安心して愛せたのかもしれません。

誰しもが抱える心の奥に潜む影に怯えながらも目をそらさず見つめ続けた人だったのかなぁと舞台を見て考えました。
決して誉められはしない人生かもしれないけれど、だからと言って断罪して終わりにはできない。
そんなエドガー・アラン・ポーの魂の断片は、いまも世界のどこかで誰かの心に沁みているのだろうなと思います。

CAST

エドガー・アラン・ポー(天飛華音) 親切な脚本とはいえない分、天飛さんが繊細な芝居で時々の心情を表現しているのが凄いなぁと思いました。エドガーから感じられた幼さと純心は天飛さんに由来するものかもしれないなとも思います。いきなり感情を爆発させるところはびっくりでした。
ヴァージニア・クレム(詩ちづる) 生命力溢れる少女がおとなしい女性になってしまうのがせつなかったです。詩さんの透明感と安心感、すべてを包み込むような歌声が印象に残っています。
ルーファス・W・グリスウォルド(碧海さりお) 自分の感性に絶対的な自信があり創作物に対する見切りも異常に早い編集者。その裏には創作の苦しみを味わった経験と創作を続ける人への妬心もあるのかな。しかしそれゆえに素晴らしい創作物に出遭った時の衝撃も大きくそれを認めざるを得ない葛藤がある複雑な人物を碧海さんは絶妙に演じていました。個人的には「ベアタ・ベアトリクス」でダメダメな主人公を最後まで見捨てない好い人を演じていた碧海さんが真反対の役を演じられていた衝撃が大きかったです。
大鴉(鳳真斗愛) エドガーの心象が具現化したような役。登場が禍事の予兆であったり葛藤するエドガーの影のように踊ったり佇んだりという存在でした。セリフもない役でしたがその存在に自然と目が行き、とくに長い手足で禍々しくも美しく踊る姿には引き込まれて見てしまいました。
フランシス・S・オズグッド(瑠璃花夏) 自らも詩人でありエドガーが書く詩を心から愛しているという役どころ。現実のエドガーと恋愛したりともに暮らしたりすることがどれほど危ういことかを知っているくらい大人なのだと思いました。だからこそヴァージニアが心配なのだろうと思いますし、でもヴァージニアがエドガーの創作の源であることもわかっていて、エドガーの創作を愛しているゆえにエドガーから彼女を引き離すことができないのではないか、だから彼女がヴァージニアに寄り添うのは贖罪の意味もあるのかなと思いました。瑠璃さんの鈴の音のような声がとても心地よかったです。
ナサニエル・P・ウィリス(稀惺かずと) エドガーの同業者で理解者。エドガーとロングフェローとの文学的論争をけしかけたりする曲者でもあり、1840年代の米国文学界を簡単に説明する狂言回し役も担っていましたが、稀惺さんの流暢な説明セリフがとても聞き取りやすくてその口跡のよさ、話を聞かせる技量に驚きました。これからもさらに注目したいと思いました。
ヘンリー・W・ロングフェロー(大希颯) エドガーの同業者で顔も良い育ちも良い人物。グリスウォルドに気に入られて一躍有名人になったけれどもエドガーに一方的に批判されて豆鉄砲を食らった鳩のような顔がまた人の好さと育ちの良さを表していました。エドガーが「大鴉」で成功を収めたときも潔く負けを認め受容するところもまったく嫌味がない好人物に見える大希さんのお芝居がよかったです。

そのほかの演者の皆さんについても、それぞれが自分の役と向き合い作品世界での居方を考えて演じているのがつたわる舞台でした。
この経験はきっと実を結び次の作品につながるはずだと期待しています。
こういう作品を上演できることがバウホールという劇場が存在する意義なのだと思う公演でした。

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2023/10/23

離さないよこの手を‥

10月9日と13日に博多座にて宝塚歌劇星組公演「ME AND MY GIRL」を見てきました。
この公演は、主人公の下町育ちの青年ビルと遺言の執行人である貴族の紳士ジョン卿を、専科の水美舞斗さんと星組2番手の暁千星さんが役替わりで演じるのですが、それぞれの初日を見ることができました。

それぞれの初日

10月9日の正真正銘の初日。
きっと出演者全員が緊張していたことと思います。(開演に先立って理事長の挨拶もありましたし)
けれどそんなことを微塵も感じさせない素晴らしい舞台で、ミーマイってこんなに泣ける作品だったっけ?と驚きでした。

カーテンコールの水美さんの挨拶で、開演前にサリー役の舞空瞳さんと顔を見合わせて泣きそうになっていた話をされて、えっそうだったのかと思いました。
ハットトリックも懐中時計の出し方もとってもスムーズでステップも軽やか、これが初日かと思うくらいだったのに。
でも言われてみると、水美さんは緊張するとテンション高めに陽気になる人なのかも。
それが、じっとしているのが苦手で片時もなにかしていないといられなくて人をからかったり悪戯をしたりと表面上はふざけている(ふざけるしかない)けれど、本当はとても考えていて心優しいビルという人物造形と重なって、物語の本質をわかりやすくしていたのかもと思います。

逆に暁さんは緊張するとおとなしくなるタイプなのかなと思いました。
10月13日の役替わり初日では、さいしょのうちは少々ぎこちなさも感じましたし段取りが大変そうだなとも感じました。でもまっすぐにサリーを愛するビルでした。
敵わない相手にも真正直に打ちのめされて傷ついても一途にサリーを愛する健気なビルが涙を誘いました。
対立する公爵夫人やジョン卿に対しても無意識に甘えているところがあって、それがチャーミングだなぁと思いました。彼らが次第にビルを愛していくのがよくわかりました。
そんな彼に別れを覚悟した公爵夫人が呼び掛けた「ビル」がとても心に沁みました。

わかりやすい演出

以前のヴァージョンと比べて物語がとてもクリアになっているように感じました。(以前のヴァージョンって一体どれやねんですけど)

記憶ですと執事のヘザーセットあたりの英国らしい慇懃なセリフがあったと思いますしビルももっと無礼なことや皮肉を言っていた気がしますが、今回の公演ではそのあたりが控えめになって物語の核心を追いやすく、セリフやナンバーの一つ一つが心に沁みました。
ミュージカルコメディなので笑いも大事なのですが、今回はテーマを人が人に持つ愛にフォーカスしていたのがとても効いていたと思います。

英国の貴族社会の奇妙さや労働階級との対比が滑稽に描かれていることがこの作品の面白さでもありますが、本国では常識でも日本ではあまり知られていない事柄をネタにしたものやサリーたちが話しているコックニーについてなど、日本語で演じるにあたって何を削って何を残すか、どう表現するかは大事かなと思います。

また初演の頃は問題視されなかった差別的なジョークなどはカットが正解だと思いますし、宝塚歌劇は観客がオトナなリアクションを取りづらい演劇でもあることも踏まえての取捨選択も必要かと思います。
再演を重ねるごとにそういった部分が洗練されていくのか、今回は細かなところで引っ掛からずに観劇できました。
(ジャッキーのラスト近くのアレはギリギリかなぁ・・)

そのほかに「ONCE YOU LOSE YOUR HEART」をはじめ、以前から訳詞がおかしいとの指摘がある作品ですのでそこはどうするのかなと思っていましたが、そのままの歌詞で歌われていました。
今回は焦点を人と人との愛情に絞って、それ以外のところに引っ掛かりをつくらない芝居が功を奏したといいますか、各登場人物の心情に心を動かされる作品になっていたので歌詞に違和感を持たずにすみました。
原作に忠実というより歌詞に合わせた宝塚版らしい心のやりとりの作品になっているなと思いました。

ザ・ミュージカル

メインの3人(水美さん、暁さん、舞空さん)が現在の宝塚でも屈指のダンサーであることはもちろん知っていましたが、やはりダンスシーンは期待以上に素晴らしかったです。
また、この3人だけでなくアンサンブルもダンサー揃いなのにびっくりしました。
「街灯によりかかって」でビルの両サイドの男役さんたちのダンス。そのあとの娘役さんたちも加わったダンスシーンはとても素敵で、わぁミュージカルだー!と心躍りました。
主題歌のタップダンス、「ランベス・ウォーク」、「太陽が帽子をかぶってる」、公爵夫人とご先祖様たちの「ヘアフォードの歌」、ビルとジョン卿の「愛が世界を回らせる」どのダンスナンバーも愉しかったです。
ダンスだけではなくて歌も素晴らしくて、お屋敷の階下で使用人たちが歌う「英国紳士(English Gentleman)」のコーラスは気持ちがよかったです。
「ヘアフォードの歌」の公爵夫人マリア役の小桜ほのかさんにも聞きほれました。
総じて歌・ダンスのレベルが高いことも観劇後の満足感の高さにつながっていたと思います。

舞空瞳さんのサリー

舞空瞳さんが演じるサリーは、まず登場でたいへん元気でガサツな下町っ子という風情を前面に出していて、その後の物語の流れにメリハリをつけていてとてもよかったです。
ビルとの阿吽のやりとりに深い愛を感じました。
最初の印象とかちがい、じつは学校でもよく学んでいて、でも自分の境遇もよくわかっていてそれに相応しいふるまいをしている、とても聡明な女性なんだな思いました。
生まれ育った町を受け容れ、その町でビルと一緒に愛を育んで生きていこうと最善を尽くしているところだったのだろうに、いきなりその柱であった愛するビルがかけ離れた世界の人間になってしまった。
愛するビルに最良の人生を送ってもらいたい、そこには自分の居場所はないのだと自覚していく流れがとてもせつなかったです。

キャスト

ビル・スナイブン(水美舞斗/暁千星) 水美舞斗さんのビルは次から次へと思いつくものを口にするような落ち着きのなさがいかにもコメディアンらしいビルだなぁと思いました。するりと懐中時計を差し出すタイミングも絶妙。いつもひとをおちょくって馬耳東風みたいな彼が実は心の奥では傷つき真摯な思いを秘めていることがわかるところのギャップがよかったです。サンドイッチのハムの比喩の身の置きどころないせつなさが無性に沁みました。サリーが幸せでないと彼も幸せでいられない魂の結びつきを感じました。「街灯によりかかって」の後ろ向きのステップがとても洒脱で思わずステキ!と心で叫びました。
暁千星さんのビルは隠し事ができない真正直さが見えるビル。笑顔で振り払いながらもヘアフォード家の人々の言葉が刺さり揺れ動いているのが見えるビルでした。サリーと生家の人々両方のために最善を尽くしたいけれどどうしたら良いのか混乱した彼がせつなさといろんな形の愛を受け取りながらアイデンティティを再構築していく物語に見えました。サリーが笑うと彼も輝くサリーの表情が曇ると彼も曇る合わせ鏡のようなサリーとビル。「街灯によりかって」の幻想のデュエットダンスが夢のような2人でした。

サリー・スミス(舞空瞳) 登場時のインパクトがとても強いサリーでした。それは愛するビルのキャラに合わせたものなのだ、見かけよりずっと聡明な娘なのだとわかると懸命にガサツにふるまっている彼女がいっそう愛おしかったです。
それからフィナーレです。こういうフィナーレを見てみたかった!と思いました。ラインダンスのレディルージュ、そしてデュエットダンスの前のソロダンス、存在感が素晴らしかったです。水美さんとのペアの時のピンクのドレス姿の可愛らしさ、暁さんとペアの時のアイスブルーのドレス姿の気品。うっとりでした。

ジョン・トレメイン卿(水美舞斗/暁千星) 水美さんは頼りない感じがチャーミング。優しさと包容力を感じるジョン卿でした。ビルに向ける瞳もサリーに向ける瞳も温かくて、この瞳で何十年もマリアをみつめていたんだろうなぁと。
暁さんは予想外にダンディで厳しさもあるジョン卿でした。ロマンティックな物語を紡ぎそうな甘さも魅力的でした。いかにも貴族らしい上品な立ち振る舞いは月城かなとさんを彷彿させるところもあり月組で培ったものが活きているのかなと思いました。
どちらのジョン卿もビルとのブラザーフッドが楽しくて「愛が世界を回らせる」が最高でした。

ディーン公爵夫人マリア(小桜ほのか) 若めの公爵夫人ですが、宝塚版はビルも若いのでその叔母だとしたら40代くらいに見えたらいいのかも。なにより水美さん暁さんのジョン卿ともお似合いですし。小桜さんは声がとてもよくて「フェアフォードの歌」も素晴らしかったです。ビルとのパーティのレッスンで笑いを誘い、彼が出ていく決意をした時にいつも呼んでいる「ウィリアム」ではなく「ビル」と呼び掛けるのが涙を誘いました。ラストのウェディングドレスはチャーミングでとっても素敵でした。

ジャクリーン・カーストン(極美慎) 美しかったです。まずは極美さんにジャッキーをキャスティングしてくださったことに感謝。「美しい」と思うこの気持ちって何なんでしょうか。いつかは答えが出ることなのでしょうか。美しいとはなんぞと自分に問いかけるほど美しかったです。相手によって態度をコロコロと変える抜け目のなさ、でも嫌な女に見えないのは彼女が自分の人生を主体的に生きようと必死なのがわかるからでしょうか。結婚相手を間違えないことはとっても大切ですよね! 綺麗事で自分を誤魔化さないところにも惹かれるのかな。水美さんビルと暁さんビルによっても反応がちがうのも面白かったです。フィナーレのタンゴも眼福。水美さんとのペア、暁さんとのペアそれぞれ見られてラッキーでした。(ウィッグもそれぞれに違ってどちらも素敵でした)
今回は美しい娘役姿を堪能させていただきましたが、存在感や実力も着実に身に着けている極美さんの男役姿も楽しみになりました。

ジェラルド・ボリンブローク(天華えま) 労働は不名誉だと思っているいかにも貴族の子息。オナラブルという儀礼称号保持者なので(以前のヴァージョンだとセリフでそのことに触れていた気がするのだけど今回は言及がなかったような)彼自身に受け継ぐ爵位はないみたいだけど、なにか偶然が重なれば転がり込んでくる可能性も0ではない・・かな。でもほぼ可能性はないのでしょう。だから継嗣が行方不明のヘアフォード家の財産を狙っていたのにビルが現れてしまい目論見は水の泡。そのうえフィアンセまで取られてしまいそうという踏んだり蹴ったりの状況なんだけど、その割には自分から動いてなにかをしようとは思っていなさそうなのがジェラルドという人物の面白さかなぁ。(そもそもヘアフォード家の財産を狙っていたのもジャッキー主導で彼は口車にのせられていただけかも) いかにも英国の貴族社会の一隅にいそうな青年を天華さんがいい塩梅で演じていて面白かったです。
そんな彼が初めて主体的に行動したのが例のアレなんでしょうね。前時代的な価値観が反映されていてやっぱりうーん・・とは思います(ほかに替わる象徴的な行為があればと思うんですけど)。
フィナーレの冒頭で公爵夫人役の小桜ほのかさんと一緒に歌う主題歌が小粋で素敵でした。センスのある人がどんどん起用されるのはいいなぁと思います。

パーチェスター(ひろ香祐) とっても楽しい家付き弁護士さん。彼が歌い踊るとヘアフォードの皆さんも一緒に踊る不思議。弁護士さんも奇妙だけどヘアフォードの皆さんも変わってるなぁと思います。
ひろ香さん良い味出してるなぁと思いました。財産のある貴族にくっついて生きる彼には役に立っているアピールはとっても大事なことなんだろうなぁと思いました。
ところで彼のファーストネームは本当にセドリックなのか問題は解決しているんでしたっけ。あれはビルが勝手に言っていることなのかな?(本国版では役名がハーバート・パーチェスターになっているのがずっと気になっています)

ジャスパー・トリング卿(蒼舞咲歩) 蒼舞さんのジャスパー卿はセリフを発するタイミングが絶妙で独特の可笑しみを醸し出していました。ヘアフォード家に彼がいることの意味は大きいなと。彼の椅子はいつも用意されていて何をするわけでもないけれど若い人たちが自らに問いかけて答えを出していく場に居合わせるそんな存在のよう。相手によって態度を変えるわけでもなく、そもそも相手の属性に気が回っているふうでもない、誰の利害にもならない。それがいいのかなぁ。「泣いているのかね」「泣いてないよ」というサリーとの禅問答みたいなやりとりに毎度涙腺がやられます。

チャールズ・ヘザーセット(輝咲玲央) お屋敷の執事。お屋敷の皆さんが大騒ぎしていても寡黙に端正に佇んでいる様子が素敵でした。以前のヴァージョンだとなにか慇懃なセリフがあったような気がしますが今回はそれもなく由緒あるヘアフォード家を陰で支える頼りになる執事という印象が強かったです。

メインキャストはもちろん助演、アンサンブルキャストの1人1人の力が感じられる公演でした。
今月は宝塚バウホールにておなじ星組の別公演「My Last Joke-虚構に生きる-」も見に行く予定なので、次の「ME AND MY GIRL」観劇は公演日程の終盤になってしまうのですが、どれだけ進化しているか楽しみにしています。

 

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2023/10/10

私たちは正しい扱いをうけると心を動かされがちになるのです

10月9日、博多座に宝塚歌劇星組公演「ME AND MY GIRL」の初日を見に行きました。
開演に先立って歌劇団理事長より急逝された歌劇団生徒への哀悼の意とお客様に心配をおかけしていることについての謝罪、そして今後は出演者の心身に配慮して公演を行っていくこと、その判断のもと博多座公演については予定通りに上演することなどのお話がありました。

歌劇団には二度とこのようなことが起きないように従業者のメンタルヘルス対策にしっかりと取り組んでいただきたいですし、変えるべき体質は変えていただきたいと思います。

それと同時に私たち宝塚ファンの在り方も、団員のメンタルに深く関わっているということを認識して改めるべきことは改める必要があると考えます。
「タカラジェンヌなのに」「娘役なのに」「男役なのに」「下級生なのに」と属性についての過剰な理想を投影して青年期にある彼女たちの個々の人格を否定してはいないか。彼女たちの健全な成長を阻害してはいないかと。

『私たちは正しい扱いをうけると心を動かされがちになるのです』
「ME AND MY GIRL」のサリーの言葉の一つ一つが心に沁みる観劇でした。

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2023/08/13

朝まで歩こう肩を組み。

8月4日東京宝塚劇場にて星組公演「1789」を見てきました。

終演直後自分は成仏したんじゃないかなと思いました。
もしかして私は迦陵頻伽の聲を聞いていたんじゃないかなと。
これが法悦というものなのかな。
自分の語彙では表現できない満足感に脳がバグを起こしておりました。

数日経ち幾分冷静になってきたので感想を書こうとするのですが、やはりなかなか言葉がみつかりません。
刹那刹那に感じた技術的な凄さや舞台の上の1人1人から漲っていたものを表現する言葉を知らない自分にがっかりです。
でも感動を書き残しておきたいのでどうにか書いてみようと思います。

1か月ちょっと前に宝塚大劇場で見たものとは別物だと感じました。
あの時は大好きなナンバーをようやく自分の耳で生で聴けたことに心が震えましたが、今回は1つの作品としての完成度の高さに打ちのめされました。
舞台の上にいる1人1人から漲るものが凄まじかったです。
オケも宝塚大劇場よりもドラマティックで色っぽい印象でした。(音の聞こえ自体は大劇場の方がよかったのですが)

「ロミジュリ」初演を観劇してから13年(私は博多座で観劇)、タカラジェンヌがフレンチロックミュージカルをここまでアーティスティックに上演する日が来ようとは。頭を抱えたあの時には想像もできませんでした。

あの時は宝塚とフレンチロックとの音楽性のあまりの乖離に頭を抱えてしまったのでした。
宝塚には音楽性よりも「宝塚らしいもの」をという思いをいっそう強く抱き、以来宝塚で上演されるフレンチロックミュージカルには食指が動かなかったのですが、礼真琴さんなら・・とロックオペラ「モーツァルト」を見に行き「ロミジュリ」を見に行き、そのたしかな実力と感性に心酔し礼真琴さんの星組で「1789」が上演されることを熱望して、いまここ。
そしてこの満足感たるや。

でもこれはメインキャストだけが巧くてもどうにもならないことだということも実感しました。
この10余年で宝塚歌劇の音楽性が大きく変わったこと。下級生に至るまで1人1人の体にこのリズムが沁み込んでいるんだということをしみじみと感じました。
あの時無謀ともいえる挑戦をし宝塚ファンに衝撃を与えた初演「ロミジュリ」のメンバー・関係者の手探りの努力があってこそのいまなんだなぁということも強く思います。
さらに、宝塚の番手主義とは相容れない群像劇をそのヒエラルキーを崩してまでも上演した、2015年のあの「1789」月組初演があったからこそ。

すべてはあの一歩から。生みの苦しみを経て、綿々と積み重ねられた努力の末に結実した一つの公演がこの「1789」であり、そしてこれから生み出されていく作品なんだなぁと深く思います。

話を今回観劇した「1789」東京公演に戻します。
大劇場の観劇時にはもどかしく思ったところも、今回の観劇ではまったく感じませんでした。
それどころか期待以上のものを体感することができて感激もひとしお。

ラストのロナンのせり上がりも心の準備ができていたので問題なしでした。
座席の位置も関係があったのかもしれません。今回は1階の下手端っこだったので人権宣言をじっくり堪能してからロナンが登場した印象でした。(大劇場では2階最前センターだったので人権宣言が終わるか否かで目に入って来たのが大いに戸惑った原因ではと思います。座席位置大事)

礼真琴さんは私の快感のツボを全部圧していかれました。
こんなふうに歌って聞かせてもらえたらもう思い残すことはござらん・・です。
いえチケットさえあれば何回でも見たいし聞きたいですが。

父親を殺され農地を奪われて衝動的に故郷を飛び出したロナンが、若き革命家たちやともに働く印刷工たち、再会した妹、フェルゼン伯爵らを通じて成長しながら恋をし、憎しみや疑念、葛藤を抱きもがきながら成長していく様が手に取るように伝わり物語世界にどっぷりとはまりました。

「革命の兄弟」のロナンと、デムーランとロベスピエールとのやり取りは1人1人のキャラクターの違い、立ち位置、考え方、受け取り方の違いがよく見えました。
理想主義でロマンティストのデムーラン。懐疑的で原理主義のロベスピエール。

ロナンが「俺にも幸せ求める権利がある」と言えば「当然だ」と肯定するロペスピエール。
ロナンの「やりたい仕事につく権利がある」にはデムーランが「勿論だ」。
さらに「誰が誰を好きになってもかまわない」には前のめりに「その通りだ」と返すデムーランに対して反応薄めのロベスピエール笑。
さらに「自由と平等」でその違いが際立ちます。

ダントンは人情派で寛容、ファシリテーター的なところもある。デムーランとロベスピエールがかなり強烈なのでその努力が不発に終わることもあるみたい・・天華えまさん演じるこの作品のダントンはそんな立ち位置かな。
「パレ・ロワイヤル」はそんな彼がよくわかるナンバーだなぁと思います。
「氏素性なんて関係ない」「学問がなくてもかまわない」――その意味のリアルがわかっているのは実は革命家3人のうちではダントンだけなのではないかなと思いました。
だからソレーヌも彼の言葉に耳を傾けることができたんじゃないかな。
デムーランとロベスピエールがそのことを理解するのはもっと後、ロナンという存在に関わって現実を突きつけられ、その行動力と人々からの信頼を目の当たりにしてからだと思います。

「サ・イラ・モナムール」での恋人との関係も三者三様で面白かったです。
同じ理想を目指していることが大事なデムーランとリュシル。そばにいて共に戦うのが当たり前なダントンとソレーヌ。
危険行動に恋人を連れていく気がないロベスピエール。そもそも志を共有するという気がないのかな。また後顧の憂いは断ちたい人なのかなと。

私が「1789」が好きな理由はやはりこの革命家たちにワクワクさせられるからだと思いました。
革命家それぞれがセンターに立つナンバーが、その大勢のダンスパフォーマンスも含めて心が昂るところ、三者三様の個性がはっきりしてそれぞれに異なったロナンとの絡み方が面白いからなのだということを実感しました。

大劇場で喉を傷めている様子だった極美さんも難なく高音で歌い上げていて最高でした。
「誰のために踊らされているのか」のダンスパフォーマンスは舞台上の全員がいっそう力強くなっていて、見ていてドーパミン的幸福感が凄かったです。依存性が高いナンバーだなと再確認。

暁さんの朗々とした歌声と礼さんとのハモリも最高。
声が安定しているからこそフェイクも効いていて心地よかったです。

大劇場公演では大人しめに感じた有沙瞳さんのマリー・アントワネットも印象がまったく違いました。
1幕では誰よりも華やかで無邪気にチャーミングだったアントワネットが、2幕では動じない威厳を身に纏い質素なドレスを着ても存在感が滲み出ていました。自分自身の人生を自分で選び択る決意に溢れた「神様の裁き」は感動しました。

オランプは居方が難しい役なんだなとあらためて思いました。
猪突猛進でロナンの人生を変えてしまう、無茶ぶりで父親を危険に巻き込んでしまう。一歩間違うと反感をもたれてしまいそうなキャラを舞空瞳さんはいい塩梅で演じているなぁと思いました。
これこそがヒロイン力かなぁと。

東宝版を見ていた時にも思っていましたが、オランプは平民なんだろうかそれとも下級貴族なんだろうかと今回もやはり思いました。
姓にDuがつくので貴族かなと思っていたのですがアルトワ伯がオランプに銃を突き付けられた時に「平民に武器を持たせるとろくなことはない」と言うのがちょっと引っ掛かったり。

お父さんは中尉ということなので、平民から中尉なら出世した方だと思うし平民の中では裕福な部類かなと思うけれど、貴族なら年齢的にも中尉止まりだと名ばかりの底辺の貴族ってことになるなぁと。
いずれにしても娘に王太子の養育係ができるほどの教育を受けさせているのは凄いことだなと思います。
そしてアントワネットは意外とそういう倹しげで教養の高い人が好きですよね。
マリア・テレジアの教育の賜物でしょうか。

「神様の裁き」を歌うアントワネットの背後で戯れるルイ16世と子どもたち。この後のルイ・シャルルの運命を思うと、この愛らしいマリー・テレーズがのちにアルトワ伯以上に怖い人になるのだと思うとなんともやりきれない思いになりました。
(マリー・テレーズにとって母はどんな人だったのだろう・・)

瀬央ゆりあさん演じるアルトワ伯は、大劇場よりさらにクセの強い印象でした。
妖しくてシニカルで。
国王の孫で王太子の弟として生まれ、国王の末弟として育つってどんな感覚だったんだろうと思わず考えてしまいました。
アルトワ伯の人生にとても興味が湧きました。
それから今のこの瀬央ゆりあさんにオスカー・ワイルドの戯曲の主人公を演じてもらいたいなぁと思いました。田渕作品なんて面白そう。
(いやそれって「ザ・ジェントル・ライヤー」やんって思いますが、いまの瀬央さんの「ザ・ジェントル・ライアー」を見てみたいなぁと)

どの登場人物も魅力的で、この作品を上演する星組は幸運だなぁと思いました。
作品を引き寄せるのも実力のうちだなぁとも。

幸せな体験に感謝です。

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2023/07/23

これはチャンス。

6月24日にキャナルシティ劇場にてミュージカル「ファクトリー・ガールズ」を見てきました。

出演者の1人1人が素晴らしくて脚本もナンバーも良くて作品ファンになりました。
いつかまた再演される時があれば見てみたいと思います。
その時自分自身がどう思うかも含めて関心があります。

サラたち女性の工場労働者が言っていることもとても頷けましたし、サラたちのラディカルな思想と行動がこれまで自分が地道に活動してやっと得た賛同者とのあいだに軋轢を生むのではないかと懸念し葛藤するハリエットの気持ちもわかります。

企業や政治家のイメージアップのために女性の自己表現を利用し、しかし根本的には女性差別を利用している経営者と政治家は、サラたちが核心を突きだすとその口を塞ぐために卑劣な画策をはじめる。
彼らが漏らす残酷な本音や彼女たちの葛藤の一つ一つが今日もなおあるあるで膝を打ちたくなりました。

彼女たちよりも上の世代の女性(ラーコム夫人)の存在がまた綿々とつづく問題の根深さを浮き彫りにしていたと思います。
サラたちの思いを理解し背中を押してもいたのに、経営者や政治家に真っ向から立ち向かうとなるととたんに止めさせようと必死になる。そんなことをしたらどんな酷い目に遭わされるか、女性として長く生きた分その結果が容易に想像できてしまうから。惨い現実を身をもって知っているからこその葛藤と行動だと胸が詰りました。

家族からの性的虐待を受けていた女性の描き方にしても1つの典型に囚われず、心を開けず神経症的になる人も逆に性的魅力を利用して上昇していこうとする人も登場するのが凄いなぁと思いました。
本当にエピソードや人物の行動に無駄がなく意味があり効果的に描かれていて心のうちで唸るばかりでした。

舞台が1840年代前半ということにも驚きがありました。
シシィ(エリザベート)はまだバイエルンで父マックス公爵と大道芸人の真似事をして戯れていた頃。
フランスはシャルル10世(アルトワ伯)が1830年の7月革命で退位してブルジョワジーが推すルイ・オルレアンが王位に就いていた7月王政時代。
イタリア統一運動をはじめヨーロッパ各地で1848年革命が起きる前夜で、どこも国情が不安定な時代。

新しい概念が生まれて「民衆」「国民」が主体的に生きる自覚をもった時代だと頭で理解しているつもりでしたが、こうして目の前で肉声でその体温ある身体で感情を込めて表現されてはじめて自分に降りてくるものがあり、その感覚はなんとも言えないものでした。

歴史というと国政やそれに関わった有名な人のことを学ぶことはありますが、そこに生きる人々ことはなかなか考えることはなかったなぁと。
サラたちのように自分の人生を生きて芽生えた疑問に向きあい、行きついた信念を胸にいま在る問題を変えるために立ち上がった人々のこと。その1人ひとりに物語があったのだということを。

長い歴史の中で綿々とつづいてきた不平等さは問題が根深いゆえに彼女たちが起こした行動で一気に覆ったわけではないけれど、サラやサラと一緒に行動した彼女たちの一歩があったからこその今日なのだということ。現代の私たちにはあたりまえに取り除かれている苦しみを受け、抗ってくれた先人がいてくれたからこその今なのだということ(そんな勇敢な彼女たちは舞台となったマサチューセッツ州ローウェルだけではなくて世界のいたるところに居たのだということも)に思いを巡らせてそのことを噛みしめ、いま在る先人からの恩恵を易々と手放すわけにはいかないと思いました。

舞台と同年代にはヨーロッパをジャガイモ疫病菌が襲い、それがアイルランドに悲惨な大飢饉をもたらしたそうです。アイルランドからアメリカへの移民が増加したのもこの頃で。
劇中でも女性たちとともにアイルランド系の労働者が半分の賃金で酷使されていました。そういうことも織り込まれていることにあっと目が覚めるようでした。

ちなみに日本は天保年間。大飢饉から一揆や乱が起き、天保の改革による綱紀粛正と奢侈禁止でエンタメ(芝居小屋や寄席など)が厳しく取り締まられていた時代。
そんなことにも思いを致すとますます大切にしたいものはなにかを、それを守るために進んではいけない道はと考えさせられます。


観劇して感想を書きかけてから数週間経ってしまいいまさら続きを書くのもと躊躇いましたが、いつかまたこの作品を観劇した時に過去の自分が何を思ったかわかるように残しておこうと思いました。

<CAST>

サラ・バグリー(柚希礼音)
ハリエット・ファーリー(ソニン)
アビゲイル(実咲凜音)
ルーシー・ラーコム(清水くるみ)
マーシャ(平野綾)

ベンジャミン・カーティス(水田航生)
シェイマス(寺西拓人)
ヘプサベス(松原凜子)
グレイディーズ(谷口ゆうな)
フローリア(能條愛未)
アボット・ローレンス(原田優一)
ウィリアム・スクーラー(戸井勝海)
ラーコム夫人/オールドルーシー(春風ひとみ)

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2023/07/17

日傘さす人つくる人。

7月7日に宝塚大劇場にて花組公演「鴛鴦歌合戦」と「GRAND MIRAGE!」の初日を見てきました。

6月28日に星組公演「1789」を観劇した後、宝塚ホテルの部屋で何気なくCSを付けていたら、次回大劇場公演のPR番組で柚香光さんが着物の組紋のことなどを朗らかにお話しされていてなんだか楽しそうな作品だなぁと興味が湧いたのですが、「1789」にかまけて花組公演のチケットを手に入れていなかったことに気づいてがっかり。
その話を翌日ヅカ友さんにお話ししたら青天の霹靂のように初日に見に行けることになり(急展開)1週間後の再遠征と相成りました。

今回は諦めていたところからの奇跡のような出来事でしたがまず滅多に起きることではないし、こんな迂闊な人間にもチャンスがあるように観劇できなくなった人が譲りたい相手に譲渡できる公式のシステムがあるといいなぁと思います。

「鴛鴦歌合戦」は昔のオペレッタ映画が元ネタということだけは事前に知っていましたが、それ以外の知識も情報もなく、ただただ「柚香さんが公演について朗らかにお話ししている」という印象だけで観劇しました。
その光景が胸に刺さった訳が観劇してなんとなくですがわかった気がします。

ここ最近観劇した「ファクトリー・ガールズ」や「1789」とは真逆の世界観で、誰も世の中を変えようなんて思っていない!
彼らはユートピアみたいな世界に生きているから。
お米がなくてもヒロインは飢えないし可愛いおべべを着ているし、親のない子は優しい誰かに育んでもらえる。
まさに小柳ワールド。

取り巻きを大勢連れている大店のお嬢さんが恋のライバルで、父親は生活費を使い込んで晴れ着も買えないし、フェティシズム強めなお殿様には好かれてしまうし、なにより好きな礼三さんは態度をはっきりしてくれないし!ヒロインお春ちゃんの日常はなかなか困難。思わずがんばれ~~!と思ってしまう。

いやいや、父親が生活費を使い込んでしまってお米が買えないとか、その父親が奸計に嵌って大金を工面できなければ殿様の妾にされてしまうとか、現実的に考えたらかなり深刻な状況、経済的虐待だし性搾取未遂。がんばれ~とかヘラヘラ言ってる場合じゃないと思うんですけどそこはさらっとノンキな演出に。それこそがこの作品なのかな。

社会を変えなくてもヒロインを困らせている人たちが改心すればそれで解決。(登場人物は皆素直なので気づいたら改心も早い)
経済的な問題も思いもよらぬことで解決。(最初から匂わせているのでわかりやすい)

唯一変わらないのが礼三郎。
金持ちは嫌いだと言って決別を匂わせて彼女に決心させる。
礼三郎に対して自分が変わらないことを証明するために彼女は国家予算に匹敵するものをふいにする。
あれまぁ。(心の声)

この展開は往年の喜劇っぽくて懐かしいけれど。
自分が支配できない女性とは添えないってことか。
と今の世に見るとついそんな感想ももっちゃうかな。
そのお金で世の中に貢献して人々を幸せにすることもできるのだけど、社会的な責任を負うよりもささやかな幸せ、という人なんだよね礼三郎は。
たしかにお殿様の器ではないな。

ツッコミ出すといろいろあることはあるのだけど、見ているひとときは登場人物たちへの愛おしさに涙し、演じる人たちに対する愛しみが溢れて心が癒されました。
役として人として葛藤し魂を振り絞るような舞台に深く感動もしますが、このような演者の魅力を前面に出した「上質な学芸会」を楽しめるのも宝塚の懐の深さだなぁと思いながらほのぼのとした気持ちで帰路につきました。

結論「これはこれであり」。

(・・・がしかし、どのへんが「鴛鴦」で「歌合戦」だったのかな)

<CAST>
浅井礼三郎(柚香光) 涼しい顔をして自分の領域を守って生きている人。そこに皆が憧れて方々から縁談話が持ち込まれるのだと思うけど本人は嫌気がさしていそう。山寺で子どもたちに剣術の指南をしている姿がいちばん清々しくて彼らしくて目に麗しかったです。これを見られるのは山寺の尼さまたちだけなんですよね笑。
客席から登場して振り向いた時の懐から出る手が色っぽくて反則だと思いました。

お春(星風まどか) チェッが可愛い。お父さんがあんなだから生活の苦労を背負って強がって生きているところが愛おしい。時折こぼす少女らしい愚痴もまた可愛いのだけど、お父さんにしろ礼三さんにしろ、自分の世界に没頭するタイプだから一生生活の苦労は絶えなそう。この先も自分のほうを見てくれない礼三さんにやきもきしそうだし・・強くなるしか仕様がないなぁ。
料亭のお嬢さんおとみちゃんが傘を売ってというのに「うちは小売りはしてません!」って突っぱねるのが超絶可愛かったです。その後の2人のやりとりも。

峰沢丹波守(永久輝せあ) 「ぼくは若い殿様~♪」なんて歌いながら登場するお殿様ははじめて見ました笑。大好き。楽しそうに演じている永久輝さん大好き。はちゃめちゃな役なのに塩梅がわかっているのさすがだなぁ。途中からうっすらと悲哀を感じさせるところも巧いなと思いました。
殿様本人は軽い気持ちでもそれを聞いた家来はそれを叶えるために悪知恵を働かせ非道なこともやってしまいかねないので言動には気をつけましょうねと思いました。

秀千代(聖乃あすか) とにかく可愛い弟君。皆に愛される末っ子というかんじ。頭をふるふるふるとさせるところはたまらなく可愛かったです。ちょとした仕草でも客席の目が止まるのはさすがだなぁ。舞台にいると思わず目が行ってしまいます。
どうしてこんなにもやさしい兄おとうとが生まれるのでしょうか。(あの方のお子様だからかなぁ)

道具屋六兵衛(航琉ひびき) みんなに同じものを二つとない一品と売りつけて平気な顔でいるのが笑えました。自分が売りつけておいて買い取る時には偽物扱いで二束三文で平然としているのも。商いとはこんなものだから引っ掛かる方が悪いのだという前提なのですね。
この作品で卒業される航琉さんにたくさん場面があるのが愛を感じました。(宝塚のこういう学芸会っぽい愛情も嫌いじゃないです)

志村狂斎(和海しょう) ヒロインのすべての困りごとの原因をつくっているのはこのお父様だと思います。なのに憎めない役に作っているのは凄いなぁと思いました。
最後まで道具屋さんのこと微塵も疑っていないように演じる方が難しそう笑。
和海さんもこの公演で卒業されるのでラストがこの役でよかったなぁと思いました。(主役の柚香さんより舞台にいた記憶が・・)

麗姫(春妃うらら) ある意味お家騒動の黒幕??(可愛い黒幕だけど) 妄想劇場気味で愛するお殿様と倹しく市井で暮らしても良いって言うあたりは案外本気ですよね。
春妃さんも卒業されるこの公演で天然風味全開の可愛い奥方様の役でよかったなぁと思います。

遠山満右衛門(綺城ひか理) 娘の藤尾の恋心を知ってなんとかしてやりたい親ばか全開のお武家様で礼三郎の義理の叔父。
縁談の話の時に藤尾ちゃんを礼三さんにもっと近づけと唆すのが可笑しくて可愛くて好きでした。

藤尾(美羽愛) 親同士が決めた礼三郎の許嫁。礼三さんのことは憧れの君って感じなのかな。親に言われつづけて自分も礼三が好きという暗示にかかっているのかなとも思う素直で愛らしい武家のお嬢様。
恋煩いの病鉢巻で登場する場面は凛として新しい心境に立ったことを感じさせて印象的でした。(そんな娘に慌てふためくお父様も好き)
ラストでお春ちゃんとおとみちゃんとのわたしたちお友達になりましょうね♡は最高でした。

おとみ(星空美咲) いつも取り巻きを引き連れて登場するのですがそれだけで可笑しい。
お春ちゃんとの日傘を売る売らないの場面はもう1回(というかなんどでも)見たいくらい好きでした。
自分が恵まれていることを知らないで育ったとても素直なお嬢様キャラが愛おしかったです。
お春ちゃん藤尾さんとはしゃいでいる姿を見ると目尻が下がりまくりました。

天風院(美風舞良) 山寺の尼様。蓮京院様にお仕えしながらも礼三郎に見惚れていて夢見る夢子さんな面もあり可愛らしかったです。

蘇芳(紫門ゆりや) お家のことをとっても心配している家臣。お殿様があんなだから時には悪者にも回らなくちゃいけないし気苦労が多そう。愚痴もこぼしたくなりますよね。(わかります)

蓮京院(京三紗) 今回のMVPを差し上げたい。セリフに入る間が素晴らしくて聴き入ってしまいます。礼三郎さん良い男に育って見惚れちゃいますよね。(わかります)

「GRAND MRAGE!」は"ネオ・ロマンチック・レビュー”と銘打ったショーで、岡田先生のロマンチック・レビューとしては22作目だそうです。
新場面もどこか既視感があるかなというかんじです。

プロローグの紫陽花色のコスチュームが花組によく似合って素敵でした。
くすみパステル調が“ネオ”かなぁなんて思いました。

「彷徨える湖」の場面の星風まどかちゃんのダンスに釘付けでした。まどかちゃんのお腹がグランミラージュ!
名曲「SO IN LOVE」を永久輝さんが歌って、柚香さんまどかちゃんが踊るフィナーレのデュエットダンスは最高でした。

どんなに激しく踊ってもコスチュームがセクシーでも、上品さだけは絶対に崩れないのが宝塚らしくて素晴らしいなぁと思いました。
花組は舞台化粧が綺麗な組だなぁというのも再認識しました。

お芝居とともにショーも夢夢しくて明朗で「ザ・宝塚」を浴びたひとときでした。

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2023/07/14

いつか時代が変わったら。

6月28日に宝塚大劇場にて星組公演「1789-バスティーユの恋人たち-」を見てきました。

東宝版「1789」はこれまで見た中でいちばん好きなミュージカル作品と言っても言い過ぎではないくらい好きで、宝塚で上演されるなら礼真琴さん主演で見たいと願っていた作品だったので、星組で上演と知った時には飛び上がるほどうれしかったです。
タカラジェンヌの時間には限りがあり在団中に見たいと願う演目に当たるのは奇跡にも近いことだと思っています。たくさんの人が願ったからこそ実現した上演だと思います。

日本初演の2015年月組公演では大役マリー・アントワネットをトップ娘役の愛希れいかさんが演じ、主人公ロナンの恋人オランプ役は別の娘役さん(早乙女わかばさん、海乃美月さん)がダブルキャストで演じていたので、星組版ではどうなるのだろうと上演決定後は配役をあれこれと想像する日々でした。
 
舞空瞳さんがあの王妃様の超絶豪華なドレスを纏ったらそれはそれは映えるだろうなぁ。でもやっぱり東宝版みたいに礼さんが演じる主人公ロナンの相手役として激動の時代を懸命に生きる“ザ・ヒロイン”なオランプを舞空瞳さんで見たいなぁ。でもどっちも捨てがたいなぁ。
ロナンを苛むペイロール伯爵は専科で礼さんの同期の輝月ゆうまさんだったらいいのになぁなどなど。

じっさいに発表された配役は意外でもあり納得でもありいっそう期待が高まるもので、これはチケットが取れるだけ見たいなぁと浮き立っていたのですが―― 蓋を開ければ当然の超人気公演で手に入ったチケットはたったの1枚・・呆然とするしかありませんでした。

その貴重な1枚もどうなることかと青ざめる事態が。6月2日に初日こそ開けたもののその翌日から出演者体調不良のため公演中止、当面はいつ公演が再開されるのかわからない状況となり、脳裡にはこの2年あまりのコロナ禍で経験した数々の出来事が過り震える日々を送りました。
けっきょく1か月間の公演期間のうちの半分が中止となって公演再開となったのは6月18日の15時半公演から。
もうこれ以上は1公演も止まりませんように千秋楽まですべて公演できますようにと祈り続けて観劇日に漕ぎつけました。

そんな顛末の末の待ちに待った観劇日。
客席に座るもさらに高まる緊張。
(なにしろ昨年は博多座で開演10分前に中止を告げられたトラウマもありますし)

幕が開き主人公の故郷であるボースの農民たちが絵画のように舞台に浮かび上がり、奏でられるイントロダクションに体温が一気に上がる感覚。
軍隊が国王の名の下に農民たちを虐げ礼さん扮するロナンが「肌に刻まれたもの」を歌い始めた瞬間さらに体中の血が沸き立ちそれ以降はひたすら「1789」の世界に圧倒されつづけました。見たかったもの聴きたかったものが目の前に存在する幸せに酔い痴れました。

礼さんロナンの素晴らしさも期待以上でしたが、若き革命家たちデムーラン暁千星さん、ロベスピエール極美慎さん、ダントン天華えまさんが想像以上に見応えがあり気持ちが爆上がりしました。
若きイケメン革命家が歌って踊ってこそ「1789」――1幕から「デムーランの演説」「革命の兄弟」「パレロワイヤル」と畳みかけるように好きなナンバーがつづきここからすでに涙目に。

暁さんはその声量と声の深みに驚きました。かなり下級生の頃から抜擢されていた方だけにその成長ぶりを目の当たりにして感慨深いものがありました。
2幕の「武器をとれ」でセンターで朗々と歌い上げる暁さんを見て彼女がデムーランにキャスティングされた理由に合点がいきました。配役発表されるまでは暁さんがロベスピエールだろうと思っていたのでした。

「武器をとれ」は宝塚では今回はじめて歌われるナンバーですが、その演説によりパリ市民が決起しバスティーユ襲撃へとつながる重要な局面で、壇上から市民を歌(演説)によって盛り上げ扇動する暁さんの堂々とした姿に心が震えました。
ちなみにですが、このデムーランこそ「ベルサイユのばら」のベルナールのモデルとなった人物なんですよね。この「武器をとれ」のシーンもベルばらに描かれていました。東宝版を観劇した時にどこかで見たことがある図だなぁと思ったのも然り。(詩ちづるさん演じる婚約者のリュシルはロザリーということになりますね)

もともと天華さんの実力は信頼しているのですが難しいパートも難なく歌い上げるのは流石、危なっかしい仲間たちに目を配るお兄さんみたいなダントンだなぁと思いました。
そしてたぶんおそらく私は「1789」のロベスピエール役者に心底弱いようで・・。悔しいけれど極美さんのロベスピエールに幾度と撃ち抜かれました。それはもう易々と・・。
2幕最初のロベスピエールの「誰のために踊らされているのか?」は超好きなナンバーなのですが、その日の極美さんは声を潰されているのかフレーズ毎の高音の第一声が全て出ていないようでした。(千秋楽のライブ配信ではすべて音程を下げて歌われていたのでやはり喉を潰されてしまったのかな)東京公演では元の声に戻っているといいなと思います。

有沙瞳さんのマリー・アントワネットはとても大人しめに感じました。
これまで宝塚や東宝で同役を演じた人たちが伝説的なトップ娘役(花總まりさん、愛希れいかさん)であったり華やかなトップスター経験者(凰稀かなめさん、龍真咲さん)だったこともありどうしてもその記憶と比べてしまうのかもしれませんが、有沙さんも「龍の宮物語」や「王家に捧ぐ歌」などで艶やかなプリンセスを演じてきた方なので威風堂々と華やかな王妃像を作って見せてくれるだろうという期待がありました。

初演ではトップ娘役が演じた役だったものが2番手の娘役さんが演じることになって、場面や持ち歌が減り比重が変わっているのだとは思いますが、それでもやっぱりかの「マリー・アントワネット」ですから圧倒的な輝きと存在感を期待します。有沙さんはそれができる役者さんだと思っています。たとえばかつて伶美うららさんはトップ娘役ではなかったけれど無冠でも記憶に残る大輪の花のように存在していましたので有沙さんにも期待せずにいられません。
この公演が最後となる有沙さんの最高の輝きをこの目で見たいです。

ひとりの女性として家族を愛して家族のために生きたいと願う2幕の「神様の裁き」のアリアは素晴らしくてとても心に響きました。そういうマリー・アントワネット像を目指されているのかなと思います。さらに1幕からのギャップを表現して魅了してほしいなぁと贅沢なことを願ってしまいます。
オランプに決心を促す場面もとても好きでした。

瀬央ゆりあさんのアルトワ伯は媚薬を用いて淫蕩に耽るようなタイプではなく冷静に虎視眈々と王座を狙う切れ者に見えました。彼の眼には兄ルイ16世は凡庸で無能な人間に見えているのだろうなと。
王妃の醜聞を利用して兄を失脚させるのが目的でそのためにオランプを見張らせているのであって恋情を抱いているようには見えないアルトワでした。
教会でオランプに媚薬を使おうとするのもオランプに執着があるわけではなく自分にとって邪魔な相手として危害を加えるのが目的かなと。
いずれロンドンから戻ったらいつのまにか王座に就いていそうだなぁと思いました。
これまでのアルトワ像とはタイプが違うけれど居住まいや目線が知的で含みがあって面白かったです。

輝月ゆうまさん演じるペイロール伯爵は鞭を振るったり蹴りを入れたりのタイミングが琴さんとぴったりで本当にロナンを甚振っているようで今回の「1789」の見どころの一つでした。(虐げられる琴さんの反応がとんでもなくリアルで凄すぎて瞠目でした)
大義に忠実で情け容赦ない軍人貴族だなぁと思いました。

ソレーヌ役の小桜ほのかさんはお上手なのは知っていましたけど、こんなに地声で凄味のある歌い方ができるとは。地声から澄んだ声への切り替えも素晴らしくて観劇後も「夜のプリンセス」が頭から離れませんでした。

フェルゼン役の天飛華音さん、ルイ16世とマリー・アントワネットがようやく心通わせる場面でのセリフの入り方が素晴らしかったです。
「しかし御一家が危機に瀕する時あらばこのフェルゼン命に代えてもお守りいたします」
本当に芝居センスのある方だなぁと今後も楽しみです。

オランプ役の舞空瞳さんのヒロイン力はやっぱり素晴らしいなぁと思いました。彼女が登場すると目が勝手に追ってしまいます。
けっこう理不尽なことや辻褄が??な行動もするのですが受け容れて見てしまうのはそのヒロイン力によるものだなぁと。
与えられた役割、職務に一生懸命なオランプの姿が舞空さん自身とも重なってきゅんとしました。

1幕ラストの「声なき言葉」の盛り上がりは宝塚版ならではの感動でしたし、2幕もまた「次の時代を生き抜くんだ」と言い残し息絶えたロナンを囲んで打ちひしがれていた皆が前を向いて高らかに述べる人権宣言は名場面だと思います。そこからのラストナンバー「悲しみの報い」に感動は最高潮――となるはずが、今しがた皆の嘆きの中で息絶えたばかりのロナンがピカピカの白尽くめの衣裳でせり上がりで登場した時だけはえええっと戸惑いました。

あそこはもう少し人の世の遣る瀬無さや、未来への希望にデムーランやソレーヌたちとともに浸っていたかったなぁと思います。
志半ばで彼は逝ってしまったけれど、そんな名もなき人々の願いと行動の積み重ねがいまの世の中の礎を作っているんだと。命を燃やした彼らの願いを踏み躙ろうとする力は今の世も隙あらば頭をもたげようとするけれど、それに負けてはならないのだという強い意思を噛みしめる時間をあと少しだけ持ちたかったなぁ。

キラキラのロナンの登場が早すぎて心が宙ぶらりんのまま享楽的なフィナーレを見たせいか今回のフィナーレは気持ちがいまいち盛り上がらずに終わってしまった気がします。
本編は本当に最後のタイミング以外最高だっただけにちょっと残念かなと思いました。

というものの最高の舞台を見られた満足感たるや凄かったです。
あと1枚だけ東京のチケットが取れたので無事に観劇できることを心の底から祈っています。

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2023/06/03

グッナイ誰かさん。

5月28日に博多座にてミュージカル「ザ・ミュージック・マン」を見てきました。

初めて見たはずだけど知ってる。そんなストーリーでした。
映画を見たことがあるのか翻案のなにかを見たことがあるのか。
閉塞感漂う田舎町に胡散臭い来訪者が滞在して町の雰囲気が好転するというストーリーに既視感があるのか。
騙る男とお堅い女性のロマンスも最近なんども見ている気がします。

1957年の初演当時「ウエストサイドストーリー」よりも多くの演劇賞を受賞したという作品紹介に期待したのだけど、そっかそうだよね。
胸を抉る社会派バッドエンドより皆が笑顔のハッピーエンドが多くの人に支持されたのね。
純朴で保守的なアメリカの物語に安心したい人たちに。
でもこれをハッピーエンドと思ってよいのか私には疑問でした。

主人公にしつこくつき纏われるヒロインが気の毒だったし、怒ると揶揄されるのもなんだかなだったし。
なにが目的かもわからない男性が娘のまわりをうろついているのを喜ぶ母親とか地獄だなと思いました。娘を早く結婚させたい、男と名の付くものと伴侶にさせたい、それがあるべき姿だと信じているらしくて。

南部が舞台の物語だと娘の親は相手の男性の属性や資産にこだわる印象があったのですが、このヒロインの母親にはそれが微塵もなくて、むしろそれが恐ろしくもありました。慎ましく夫や家族に愛情を尽くし結婚がもたらす苦労を受け容れそこに喜びを見出すのがあるべき姿だと信じているようで。とてもピューリタン的といいますか、アイオワ(中西部)が物語の舞台というのも関係があるのでしょうか。(劇中で母親はアイルランド系だと言っているのでカトリックかもしれないのだけど)。

まだ10歳くらいの少女でさえも自分に相応しい相手を狭い町の中で見繕って行動しているのもなんというかぞわぞわしました。「おやすみなさいを言う相手」がいないかもしれない未来を仮想して嘆いてみたり。
独身の女性は不幸だと小さいうちから刷り込まれているのだなぁ。そしてそんな町なのだなぁと。
それを前提にして見ていかないといけないのかと、物語の最初から気持ちが暗澹としてしまいました。

若い娘の関心事はいつプロポーズされるかで、既婚女性の娯楽は噂話。ヒロインが小説を読むことさえ不品行だと非難されるコミュニティ。
そんな狭くて閉塞感のある町で26歳で未婚のヒロインは変わり者と思われているし噂に尾ひれがついて不適切な過去があるとも囁かれている。
見ているだけで具合が悪くなりそうな世界観。
そういうところに風刺を込めて演出することも可能なのに、ふんわりで終わらせている。ヒロインが「まだ未婚」なことや別のキャラクターの恐妻ぶりで笑いが起きていることからしても、むしろその価値観を受容した上で見せているのだなと思いました。
だからこそ、ヒロインが主人公を受け容れたことがハッピーエンドだと受け止められるのだと思いました。
ヒロインが主体的に主人公に惹かれて愛していく様を描くこともできるはずなのに(途中でベクトルの方向が逆になっていくともっと楽しそうなのに)中途半端な気がして残念でした。

不寛容で閉塞感漂う町を図らずも詐欺師の主人公が変えていくというストーリーなのだけども。
変わったようで変わっていないんじゃないかなと見終わって思いました。
マーチングバンドを手に入れていまは活気づいたけれど価値観はそのままで。
主人公さえも取り込んで、町は元に戻っていきそう。そんな怖さを感じました。
詐欺に遭ったのは私かもとそんなもやもやが残りました。


ハロルド・ヒル教授(坂本昌行)
プレゼン能力が高くて人々に夢を見せるのが巧い。まさに夢を売る男。その夢の対価として相応しい金額ならこれはこれでOKなんじゃない?と思いました。いままで彼が嫌われてきたのは夢が最高潮に達した時にトンヅラ、売り逃げしていたからですよね。それらしい指導者を招聘できていたらこれは成功するビジネスモデルでは。
むしろこんな才能のある彼がこれまで詐欺をやっていたことが気になりました。きっかけとか動機とか。坂本さん演じるヒル教授は根っからの悪人には見えないのでなにか過去がありそうで、それを知りたく思いました。
約10年ぶりに見た坂本昌行さん、肩ひじ張らず自然体で主役なのが素敵。声が良くてセリフが聞きやすくて難しい歌もするっと歌えていまここに生きている人という感じでした。
とても真摯なものを感じさせる方で、この人が悪い人のはずがない絶対トンヅラなんてできるはずがないと思って見ていました。詐欺をしていたのは彼の方なのに、町に残った彼を糾弾する町の人々のほうが邪悪にすら思えた不思議。(彼に肩入れして見ていたからかな)

マリアン・パル―(花乃まりあ)
凛として透明感があって素敵な女性。彼女の価値観や生きる姿勢が周囲に理解されないのが気の毒で胸が痛みました。
詐欺を働く男性と譲れない理想がある女性。そんな2人が相手に何を見出したのかそこがわからず仕舞いだったのが残念だったなぁ。
ヒル教授の正体を暴こうとするカウエルを阻止しようとする場面、それまでのお堅い雰囲気からいきなりコミカルになるところが好きでした。(ちょっとWMWのエマを思い出してしまいニヤケました)
10年前博多座で「銀河英雄伝説」のユリアン役ではじめて知った花乃まりあさんをまた博多座で見ることができてうれしかったです。(あのときの美少年がこんなに素敵なヒロインに)

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2023/05/23

幻のヌベラージュ。

5月19日に東京宝塚劇場にて宙組公演「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」を見てきました。
ひと月前に宝塚大劇場で観劇していたので、過大な期待はせずに宝塚を楽しめたらいいなというつもりで臨みました。

バカラの場面など、大劇場公演では散漫に感じた箇所がイキイキとした場面に変わっていてやはり東京公演はいいなぁと思いました。
大勢口の場面が希薄な印象になってしまうのが宙組の悪い伝統だなぁと他の組を見た後など特に思います。
(「High&Low」の時は全くそんなことはなかったのですが)
私は宝塚大劇場での観劇がメインなので東京公演では良くなっているというのも、それはそれでなんだかなぁという気持ちになります。
このスロースターターな組気質が改善されることを切に願っています。

真風さんと潤花さんがパラシュートに乗っている場面は2人のこれまでを思うとやっぱりせつなくて、フィナーレのデュエットダンスは2人のあまりの美しさと輝きに気づいたら涙目になっていました。

演者が放つ刹那の輝きに感動はしたけれど、やはり作品自体はしっくりこないというか、引っ掛かるところがあって気持ちがうまく乗れませんでした。
プロローグの男役たちのスーツのダンスにはテンション爆上がりだったのに、場面が替わりジャマイカでボンドが女の子たちにマティーニとシガレットをもらい「サンキュー、ローズ、リリー」でやっぱりだめだこりゃになりました。
最初から最後まで気持ちのアップダウンが激しい作品でした。

マリンブルーのジャケットに白いパンツの伊出達の真風さんが若大将にしか見えない呪いにかかってしまったのは辛かったです。銀橋の歩き方もあの場面だけなんというかとても昭和で。作品の年代に合っているといえばそうなのかもしれないですが。スタイリッシュはどこに行ったん?と思いました。

デルフィーヌに対するボンドのセリフも
苦手でした。最初のとおりすがりのキスの場面から。どうだ俺は凄いんだぞとずっと言っているみたい。
ヒロインをもっと対等に対話ができる大人の女性に設定できなかったのかなぁ。ボンドが始終器の小さい男に見えて残念でした。

ムラで見た時よりもCIAのフェリックス・ライター役の紫藤りゅうさんの顔つきが変わったなと思いました。強くて正しいと自負する「アメリカの貴族」の末裔という印象。お金にものをいわせてストレートに物事を思い通りに動かす「世界のお坊ちゃま」。いかにも60年代のアメリカのイメージ。

対して瑠風輝さん演じるルネ・マティスが人が好すぎて英米に対して卑屈なのが気になりました。根は良い人でも時にはプライドの高さが垣間見えてほしいし卑屈ではなく皮肉に聞こえるくらいのエスプリがほしいな。
フェリックスの「マテリアル(物質・金)」とマティスの「エスプリ(精神・軽妙洒脱な知性)」の対比が見えてこそ、米仏の2人が配置されている意味があるのではないかと思います。
60年代はフランスにとって苦しい時代だけど人生の価値はお金だけではない、そんな矜持を人々は持っている。
「フランスは貧しいからこそ卑屈になることを拒否する」と戦後ドゴールは言ったそうですが(その高慢な気取り屋ぶりを実利主義者のルーズベルトは鼻で嗤ったとか)、ルネもまた内心に哲学と愛があるフランス人だと思いたいです。

トップコンビと長く組に貢献した組長さんの退団公演ということもあり、随所に過去作を彷彿とさせるセリフがあったり、演じる本人たちの関係性と照らし合わせて感傷的にさせる場面もあったのですが、作品として最も心に響いたのはミシェル役の桜木みなとさんが歌った歌(「夢醒めて」)でした。歌詞の言葉ひとつひとつが沁みました。
潤花さんが歌う「RED BLACK GREEN」も素直に胸にきました。

スメルシュの鷹翔千空さんはやっぱり身のこなしがカッコよくて、登場すると勝手に目が追っていました。
桜木みなとさん、鷹翔千空さん、花菱りずさんの役になりきった芝居が光って見えました。
(若翔りつさんもかなりの芝居巧者なのだけど役が残念すぎて)

ドクトル・ツバイシュタインの場面は東京でもこのままなのかーと残念に思いました。
ナチスに協力したドイツ人科学者が何をしたか、戦後その技術力を目当てに連合国側の米ソが何をしたか、そしてソ連が彼らに何をしたか。彼らの研究が戦後の世界になにをもたらしたか。そんなことが頭を過って。
易々とルシッフルのもとに行けるくらいだからソ連にとってもそれほど重要な人物じゃないよねとも思うし、実際そういう役だったんだけども思想が問題な人物なわけで、コミカルな仕立てにしているのがなおさらでとても無邪気に笑えませんしグロテスクに感じました。

皇帝ゲオルギーは立ち上がるとかも正直いらないよねと思います。ボンドのおじいさん設定も。アナグラムも別にあれでなくても。
退団者への餞の気持ちはわかるのですがよほど巧くやらないと世界観が壊れてしまうなぁと思いました。

イルカはやっぱり謎でした。
人命救助するイルカはいるけどイコール「イルカは人を愛する」とはならないと思うし。個体差だし知能が高い分残酷であったりもするし。なぜ急にジェイムズ・ボンドが夢見る夢子ちゃんみたいになるん?と。
理想をイルカに託してロマンを語っているの? でも私が真風さんのボンドに見たいロマンはそこじゃないんだなぁ。
同調するデルフィーヌもなかなかだなぁというか、ボンドがイルカの話題を出したらすかさず「私の名前はイルカって意味なの」と言い出したのは彼女だったし。そういう意味では2人とも夢見る夢子ちゃんでお似合いなのかも。
いや、ボンドは彼女のことをちゃんとリサーチしてて、名前に因んだイルカの話題を出すとすぐに食いついてくるとわかってやっている作戦に見えたらなるほどね~と思うのだけど、そうは見えない。案外本気ですよね。

真風さんは大人っぽい役が似合うと思われがちだけど、トニーやニコライ、フランツやローレンスなど純粋な青年役が素敵だと私は思っています。
今回のボンドみたいに人生経験の浅い女性をターゲットに見下している感じがする役は苦手だなぁ。おそらく私は小池先生のオリジナル作品の主人公が苦手なんだと思うのだけど、今回のボンドは究極に私が苦手な匂いがするのと真風さんはなぜかその私が苦手なところをより強調しちゃうんだろうなと思います。私に起因する問題だと思いますが。

「アナスタシア」のディミトリはいままで宝塚で見た主人公の中でも屈指で好きです。「神々の土地」のフェリックスも最高だったなぁ。麗しのルイ14世も好きだったし、屈折してたり変人だったりする真風さんの役も純粋な役と同じくらい好きです。
わたし的に、真風さんのラストがこの役なのが遣る瀬無いというのが引っ掛かっているのかなぁ。
もしかしたら私が見たかった真風さんの片鱗を今回の鷹翔千空さんに見出しているから鷹翔さんに釘付けになってしまうのかもしれないなぁ。
(これを書きながら録画していた2016年の宙組「バレンシアの熱い花」を見ているこの瞬間も真風さんのラモンのカッコよさに見惚れていました)

「007」だと期待しなければ、宝塚らしい退団公演だと思えましたし愛のある脚本だなとも感じました。
引っ掛かるところはあるけれど、真風さんが晴れやかに卒業されたらそれがいちばんだし。
と自分を納得させて劇場を出てスマホを開いたら、千秋楽の全世界配信のニュースが。
喜ばしいはずなのに手放しに喜べない。
最後の最後にやってくれるなぁ涙。

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2023/05/15

恩恵は次の者へ。

4月17日と21日に博多座にて舞台「キングダム」を見てきました。
すべてが「本気」で目を瞠る舞台でした。

「キングダム」は家族がアニメを見ているのをながらで聴いていたくらいの認識しかありません。
ずっと戦っているなーとかオウキ将軍は面白いしゃべり方をするなーとか途中でこれは秦の始皇帝がモデル?と気づいたり、その程度でした。
勇ましいことを言って命が何個あっても足りなそうとか。
(音声だけでしたので、さいしょのうちは別のアニメと区別がついていなかったかもと思います)
そんな中でもセイの邯鄲脱出のくだりやセイの母親のくだりなどは耳をそばだてた覚えがあります。
仲間のキャラクターが女の子なのを主人公だけが知らなかった話も、いま思えばキングダムだったんだなと思います。

その程度の知識しかないのに観劇しようと思った動機はキャストです。
人からびっくりされるほど若手俳優さんに疎いのですが、信役の三浦宏規さんは「ヘアスプレー」や「千と千尋の神隠し」でお芝居の間が気持ちよくて体の使い方がきれいな人だなぁという印象で、この方が主役なら見応えがあるのではと。
宝塚退団後の華優希さんや美弥るりかさんの活躍も見たいし、早乙女友貴さんも凄そう。
それに山口祐一郎さんの王騎って・・?という興味本位でした。

そんな状態ではありましたが、見たいキャストの日を選んでチケットを申し込みました。
(顔覚えがすこぶる悪いので、初めて見る作品は登場人物把握のためできるだけ知っている役者さんで見たいのです)
その後貸切公演を1公演追加で申し込みをしたのですが、確認するとほぼ同じキャストの回でした。
2回見るなら未知の役者さんでも大丈夫だったなぁ違うキャストも見たかったなぁなんて後の祭りです。

一抹の不安も覚えながらの初見でしたが、皆さんキャラ立ちが凄くて見分けがつかないなんてことはまったくの杞憂でした。
とにかく圧巻のパフォーマンス。登場人物それぞれの立場も状況もよくわかる脚本で集中して見ていたらあっという間に1幕が終わりました。
夥しい情報量なのにわかりやすいのが凄いなと。セリフ1つにも、そのキャラの一貫した思いや個性が織り込まれていて、そうそう信ってこういう人だよね、政ってこういうものを背負った人だよねとあらためて理解することができました。

そしてなにより役者の皆さんの表現力が素晴らしい。
身体表現、声。丁々発止の絶妙な間。舞台上で生きる人々が作り上げる空気に劇場全体が支配され息をのむ観劇体験となりました。

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2023/04/30

この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい。

4月9日と11日に福岡市民会館にて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。
9日ソワレはライブビューイングが実施された回、11日ソワレはツアーの大楽でした。
3月29日に梅田芸術劇場メインホールにて一度観劇しているのですが、期待以上のものが見られたので福岡での公演も楽しみにしていました。

梅芸観劇後の感想にも書いたのですが、「バレンシアの熱い花」は2007年版、2016年版を経ての今回の上演でようやく私は見方がわかった気がしています。
そしていままで何に戸惑っていたのかもわかったような気がしました。

物語の舞台やコスチュームは19世紀初頭のスペインに仮託しているけれども精神は極めて日本的な物語だということ。
身分社会に生きる人々の物語であって、それも西洋ではなくて日本のそれのほうが近いこと。
歴史物というよりは昭和の痛快時代劇に近く、そこからエログロを一切抜いて、物語の舞台をナポレオンがフランスに帝政を布いた時代のスペインとし恋愛模様を織り込んだコスチュームプレイとして宝塚作品らしく書かれたのがこの作品なのだと思います。

今回のキャスティングがピタリとはまっていたことと、専科の凪七瑠海さんと星組メンバーが丁寧に表現していたので、時代がかったセリフや歌詞を堪能することができました。

父親の復讐を心に誓いその時機が訪れるまでは『貴族のバカ息子』を装うフェルナンドは大石内蔵助か旗本退屈男を彷彿とさせます。
(これに倣って「旗本退屈男」をヨーロッパの架空の国設定で翻案するのもいいなぁと思いました)
彼が軍隊を辞めてのんびり過ごすことにしたとルカノールに告げる場面で使う「二年越しに肩を凝らせていますので」という言葉がなんとも言えず好きでした。見終わってから心の中で何度も反芻しましたが私には一生使う機会はなさそうです。

軍隊時代にレオン将軍に剣を習ったと言うラモンにフェルナンドが「同門だ」と言ったり、言葉そのものもですし、同門だと『貴族の旦那』も『下町でごろごろしているケチな野郎』も一瞬で距離が縮まる価値観も面白く見ることができました。
このように西洋が舞台なのに作中でちょいちょい出てくる時代劇さながらの表現が違和感ではなくむしろ面白かったのは、演者の呼吸や間合いが作品の世界観に合っていたからだろうと思います。

主演の凪七瑠海さんや組長の美稀千種さんの芝居の呼吸が芝居全体に良い影響を与えている印象でした。時代めいたペースの芝居をラストまで貫けたのが見ていて心地よかったです。
作品に合わせた「臭い芝居」ができる人が何人もいる星組はこのようなタイプの作品に合うのだなと思いました。

主役の呼吸が芝居全体にとって大事。この作品はとくにセリフの持つ尺を堪えきることが大事なんだなと思いました。
凪七瑠海さんのキャリアが十分に活かされていたと思いますし、それでいてすっとした青年らしい若様を演じて違和感のないその個性も役にぴったりだったなぁと思います。

瀬央ゆりあさんも、人情に厚く仲間から愛されている役がよく合っていました。
軽口のように愛を告げ、妹にも好きに憎まれ口を叩かせて。相手に負担をかけないよう気遣うことが習いになっているのかな。両親を早くに亡くすかで小さい頃から周囲に甘えられずさらに自分より幼い妹を庇って生きてきた人なのかなと想像しました。
その妹を守り切れなかった悔しさと憤り、イサベラが傷つきながらも愛する対象が自分ではないせつなさ。言葉ではないものがつたわるラモンでした。背中で泣く(背中でしか泣けない)「瞳の中の宝石」は見ていてせつなかったです。

それからロドリーゴの「この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい」。
2007年の再演の時はその表現が衝撃的で絵面が脳裏に浮かび思わず我に返ってしまうセリフだったのですが、今回はすんなりと入ってきました。
芝居全体のペースにロドリーゴ役の極美慎さんも巧くはまった芝居をしているからだろうなと思いました。
ロドリーゴ役が極美さんと知った時からビジュアルは間違いなくはまるだろうと思いましたが、いかにも昭和のメロドラマパートでもある役なので危惧もしていたのですが、芝居が整うってこんな感じなんだなぁと思いました。
シルヴィア役の水乃ゆりさんとのペアは真しくタカラヅカらしい見栄えで夢中で追って見てしまいました。

この作品の見方がわかるようになったからこそ、深いところ細かいところも楽しむことができたのだなと思います。

そしていまさらながら16年前の再演ではじめてこの作品を見て戸惑ったことが思い起こされます。
再演を熱望されていた作品の30数年ぶりの上演ということで期待をもって観劇した時の。
ストーリーがわからないわけではない、登場人物の気持ちがわからないわけでもない。
でもどう受け取ればいいのかわからないそんな感じだったでしょうか。
(先ごろ半世紀ぶりに再演された「フィレンツェに燃える」を見た時に近い気がします)

今回で身分社会を背景にすることで成り立っている物語だということは飲み込めましたし、その社会を必死に生きている人々を描いた物語なのだとわかったのですが、それでも、というかそれゆえに、いまもなお考えさせられる作品でもあるなぁと思います。

フェルナンドとイサベラがどうして別れなくてはいけないのか、それはわかります。
フェルナンドが自分の社会的責任をまっとうしようとするならそれに相応しい伴侶が必要で、イサベラはそれに該当する身分ではないから。もっと言えば愛人として囲うことすらできないほど身分に隔たりがあるのだと。
むしろ商売女と割り切れば好きな時に好きなだけ逢うことが可能なのでしょうが、そういう相手にはしないことがフェルナンドにとっての誠意、「心から愛した」ということなのだろうと思います。独りよがりだとは思いますが。

別れなくてはいけないとわかっているのなら最初からつきあわなければいいのに、と思わなくもないですが、そうはいかないのが恋愛なのだという恋愛至上主義に基づいた作品なのでしょう。このへんの恋愛倫理観がおそらく書かれた時代と現代とは異なるのかなと思います。
女性にとって恋愛は文字通り「生と死」(生殖と身体的な死そして社会的な死)に直結するものだから、大事に守られている女性はそこへ近づけさせないのが身分社会においては当然で、自由で本能的な恋愛は女性の立場を危うくするものだという認識はフェルナンドにもあると思います。
逆に酒場で働いているイサベラはその囲いのうちには入らず、本能のままに近づいてもかまわない女性だという認識なのでしょう。

イサベラに激しい恋をもとめる歌を歌わせるのは、フェルナンドの免罪符になるようにという作者の意図が働いているためだと思います。
『息づまるような恋をして 死んでもいいわ恋のためなら』
『美味しい言葉なんてほしくないわ』
『黙って見つめて心を揺さぶる そんな激しい情熱がほしいわ』
こんな歌を好んで歌う女性だから、心の底に復讐の炎を燃やすフェルナンドの一時の相手に相応しいのだと。
傷ついても自分から望んだことだからフェルナンドを責められないよねと。

なぜフェルナンドはイサベラに愛を告げる時に許嫁がいることも同時に告げるのだろうというモヤモヤについても考えました。
けっきょくのところ、交際をはじめる前に「この関係は私の都合で一方的に解消するけど、それでいいね?」と言っているのですよね。そこでゴネるなら付き合わない。付き合うならそれでいいということだよねと。
それで双方がいいならこの件は締結なのに、キラキラした言葉で愛を告白しながら、でも自分には許嫁がいてその人は心優しい少女で自分は裏切れないのだ、と付け加えるのは、自分は悪者にはなりたくない、とことん良い人の立場でいたいということなんだなぁと。
ああこれはモラハラの手口だ。だから何年も何年もモヤモヤしていたのだなぁ。
うん、やっぱりフェルナンドは嫌いだ。
16年前はそんなフェルナンドを許容する理由を探して自己矛盾を起こしてしまっていたのだと思います。(だってめちゃくちゃ輝いて見えたから)

それから、心の奥でこの作品に息づく男社会礼賛に反発を感じていたのだということにも気づきました。
「女には口出しをさせない」のが男として恰好が良いという思想が貫かれていることに。
ルカノールの「男なら聞き捨てならない言葉だが昔一度は惚れたあなたのことだ聞かなかったことにしよう」、レオン将軍が孫娘の苦しみを知りながら「だからついでのことにもう少し辛抱させておくのだ」とか。
フェルナンドの「私のイサベラも死んだ」も。

言い淀むレオン将軍に「無理に聞くつもりはありません」と言うセレスティーナ、「じっと待ちます」のマルガリータ、面倒なことになる前に自分から別れを告げに来るイサベラ。
わきまえた女性ばかり。
お爺ちゃんたちの理想郷ですね。

それが初演当時1970年代の一般的な雰囲気だったと記憶しています。
同時に「ベルサイユのばら」等の少女漫画が少女たちの心に新しい自意識を灯した時代でもありました。彼女たちは女性であっても臆さずに真っ向から大貴族や将軍に意見するオスカルに憧れを抱いたのだと思います。
そんなオスカルを時に父ジャルジェ将軍は激しく叱咤しますが、どうしてダメなのか根拠は説明するんですよね。「男として育てる」というのはそういうことだと思います。(ほかの5人の娘たちにはこういう対応はしていないと思います)

宝塚の「ベルばら」はそんな女性たちの支持の理由に気づかず男性社会目線で作られている。初演当時でさえ原作よりも古臭い印象を与えていたのに、再演のたびに手を加えてもなおそのスタンスは変わっておらず、「女のくせに」「女だてらに」等オスカルが男性社会で生きることをなじるセリフや場面のバリエーションは豊富にもかかわらず、オスカルが人間としてもがいていることについては「女にも権利はある」と紋切型の主張で終わらせてしまう。
挙句の果てにオスカルに「あなたの妻と呼ばれたいのです」と言わせてしまう。
身分の上下なく1人の人間としての「アンドレ・グランディエ」の妻にと願ったことを、あたかも男性に従属したいと願っているかのように改悪されていることに憤りを覚えます。
いちばん変えてほしいのはそこなのに。オスカルが言っていることに、彼女が悩んでいることに、上からでも下からでもなく対等に耳を傾けてほしいと思います。
そんな「ベルサイユのばら」なら見たいです。
(話が逸れてしまいました)

「バレンシアの熱い花」は、柴田先生による初演当時の価値観による物語なので、そういうものとして見ることができますし、またそれを見ていろいろ考えたり、好きとも嫌いとも思うのは当然の観劇の感想かなと思います。
反発するところもありつつ、やはり人間観察に優れているし表現力語彙力に惚れ惚れもします。
心に悩ましい爪痕を残すやはり名作なのだろうなと思います。

今回やっと見方がわかり憑き物が落ちたような心地です。
このタイミングで近々、過去の一連の「バレンシアの熱い花」がスカイステージで放送されるとのことで、今の自分にどんなふうに見えるのか楽しみです。

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2023/04/15

二度と同じ夢は見れない。

4月6日と7日に宝塚大劇場にて宙組公演「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」を見てきました。

正直唖然としました。
でもトップスターの退団公演ならこんなものなのかもしれません。
小池先生の作品だし世界の「007」ということで期待しすぎていたのかも。
でも甲斐先生&太田先生の音楽でこの盛り上がらなさはどういうこと?とは思います。
音楽だけはいつも裏切らなかったのになぁ。

トンチキなのはいいとしても設定があまりに稚拙だと物語に入り込めないなぁ。
ロマノフの継承に関する部分とマッドサイエンティストのところでうーんとなってしまいました。
(ロマノフ家の帝位継承が指名制??「大公女襲名」??大公女の戴冠式??「大公女陛下」??そもそもツァーリの娘か孫娘に生まれないと大公女にはなれないのじゃないの??と同日観劇した知人に疑問を投げかけたら「考えたら負け」との御達しが)
イルカの歌のロジックも謎でした。
歌唱指導にも使用するくらいなのでいちばん言いたいことなんですよね?
キキちゃん(芹香斗亜さん)どんな気持ちで歌っているのかなぁ。タカラジェンヌは偉大だなぁ。

岡田先生の場合は女豹だけど、小池先生の夢は女子大生なのかなぁ。
大学生、劇作家、社会活動家など知的でお堅い属性の女性を籠絡するの好きだなぁ。
などとストーリーとは関係のないことを考えながら見ていました。
脚本自体、設定を面白がって書いているというか、散りばめられた過去作の欠片に気づいてほしそうに書かれているようでした。
ロマノフとか、マリア皇太后とか、マッドサイエンティストとか、女子大生もそういう欠片の1つかな。
いっそホテルを建てたらよかったのになぁ。
というか007の設定、いる? とかいったら元も子もないか。

でも007、冷戦時代のスパイものの設定が活きている場面が見当たらなかったのも事実。
スパイものなのに全体にまったりしていてスリリングな場面もなかったし、せっかくパリに英米仏のエージェントが集まったのに、英国人らしさ米国人らしさフランス人らしさでクスリとさせるような場面もなくて。
ステレオタイプすぎるのは批判されるかもしれないけど、共通認知を有効に使って知的に表現するのも腕の見せ所なのになぁ。
そういうところがスパイものの面白さだし、そこに1960年代らしさも加わるととても素敵なのに。

スパイものらしい身のこなしが素敵だったのが、スメルシュ役の鷹翔千空さんでした。
ピストルを撃った時の反動がリアルで。良い筋肉の使い方だなぁと惚れ惚れしました。
ジェイムズ・ボンドのこともル・シッフルのことも容易に仕留めてしまえそうなのに、さぁというところ部下を助けに行っちゃうのがツボでした。(良い人♡)

緩急のある芝居で場面を面白くしていたのはミシェル役の桜木みなとさん。過激派の学生と言われるとそうなの?という設定だけど。
それからゲオルギー大公の妃役の花菱りずさん。彼女が大袈裟なくらいに芝居をしてくれたので飽きずに見られたかなと思います。
天彩峰里さんも歌、芝居の巧さが際立っていました。ル・シッフルの横暴さを堪える部下の顔と自分より下の者には鞭を揮って悪女ぶったりしたかと思うとコメディタッチで場面をすすめたり、いろんな顔を見せてさすがでした。

真風涼帆さんはいつもの真風涼帆さんとしてカッコよくて、潤花さんもいつもの潤花さんで華やかで、芹香斗亜さんはいつものチャーミングな悪役で。
役というよりキャリアを踏まえての男役、娘役としての魅力で見せる感じでした。
トップコンビのサヨナラ公演らしくてそれもいいか。それができるのがスターだもんね。(しかし新人公演の主演者にはハードル高そう)

「007」と思わなければ愉しくて、愛のある退団公演ともいえると思います。
舞台の上に出演者が大勢いる場面も多くて、2度目に2階から見た時は壮観で楽しかったです。パラシュートの場面も近く感じるし!
初見では舞台が近かったせいか楽しみ方がわからなかったのかもしれません。せっかく舞台上にいるのに「あなたナニ人?」な人も多くて、そういうところ1人1人が役のバックグラウンドを見せてくれたら退屈せず面白く見られそうです。

そしてなんだかんだと言いながら、真風さんと潤花さんがパラシュートで寄り添いながら歌う場面や、デュエットダンスには涙目になってしまいました。
この愛おしい時間にも限りがあるのだなぁと。
ムラではもう見れないので来月東京公演で1回のみ見納めしてきます。

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2023/04/10

愛にすべてを。

3月29日にシアタードラマシティにて宝塚歌劇星組公演「Le Rouge et le Noir ~赤と黒~」をマチソワしてきました。
ドラマシティでの前楽と千穐楽でした。

前日に上階の梅田芸術劇場メインホールで宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を観劇してからのこのフレンチロックオペラ「赤と黒」の観劇は宝塚歌劇の懐の深さを再確認するこのうえない体験となりました。

柴田先生&寺田先生による歌劇と岡田先生&吉﨑先生によるロマンチックレヴューという20世紀の伝統芸能とも呼ぶべき宝塚と、21世紀のまさに今2020年代の進化する宝塚の両方の公演を同じ建物内の上と下で、同じ星組公演で見られたことに興奮しました。

およそ半年前に次の星組の別箱公演が礼真琴さん主演でフレンチロックミュージカルの初演目と知り、これは絶対に見に行きたいと思いました。
2019年のプレお披露目公演「ロックオペラ モーツァルト」、2020年の「ロミオとジュリエット」と礼さんにかかるとフレンチミュージカルのナンバーはとてつもなく輝くということを経験していましたから。
いつか礼さんロナンで「1789」を見てみたいとずっと思っていて、それも次回の大劇場公演で叶うことになったのですが、その前にシアター・ドラマシティで別のフレンチロックミュージカルが見られるなんてと期待が高まりました。

今回は実際の観劇に先立ちライブ配信を見る機会があったのですが、コスパ良くまとめられた脚本でストーリー展開自体ににドキドキ感があるタイプの作品ではなかったため集中して見ることができませんでした。
いちばんの敗因は家族に遠慮して音量を控えていたためだと思うのです。
これは劇場で生の音楽を浴びなくてはと意気込んで劇場に足を運んだのですが、想像を超えるものを体感できました。

ロックコンサートのような音響にぴたりとハマるヴォーカルと巧みな歌唱。このグルーヴ。
そうそうそう。これこれこれ。
これを聴きたかったんだと思いました。
レナーテ夫人とのデュエットの時のリズムの刻み方など最高でした。

レナーテ夫人役の有沙瞳さん、マチルド役の詩ちづるさんも素晴らしかったです。
小説「赤と黒」を読んだのはかなり若い頃だったので、レナーテ夫人に同情はしたけれどマチルドのわがまま娘ぶりには反感を持っていたのだったなぁ。
いまだったら絶対に好きになっていたなぁ。などと思い詩ちづるさんのマチルドから目が離せませんでした。

ストーリー的にはジュリアンの家族や神学校のくだりが割愛されているので、彼の孤独や心の屈折、社会への復讐にもちかい野望などは見えなくなっていて、私のイメージしていたジュリアンとは印象が違うかなと思いました。
この作品で礼さんが演じるジュリアンは内省的で純粋な面が強く出ていました。
赤と黒の意味も、よく言われる勇者(レポレオン)/名誉の赤、聖職者/野心の黒ではなく、彼の内面を象徴するもののようでした。

礼さんは柴田侑宏先生がスタンダールの「赤と黒」を翻案してつくられた「アルジェの男」という作品でも主人公のジュリアンという貧しく荒れた生き方からその才を有力者に引き立てられ野望を抱いて階級社会を駆け上がっていく青年を演じていましたが、この「アルジェの男」の主人公が野心のためには躊躇なく女性の心を利用していたのに対し、今回のジュリアンはレナーテ夫人やマチルドの本心を疑い懊悩するところが新鮮でした。
人を信じられず女性に惹かれるも彼女たちを征服する(愛情の上で優位に立つ)ことで安堵しているところは、孤独な生い立ちを反映しているなぁと思いました。

1曲1曲が長尺のフレンチロックのミュージカルナンバーをクールにエネルギッシュに聴かせるという大仕事をやりながら、ナンバーに尺を取られた分紙芝居のように次々に変わっていく場面と場面を表情や身体表現といった非言語で表現し繋いでいく礼さんの凄さ。
とくに「間」、絶妙な呼吸とセンス、それらを自在にコントロールできる身体能力の高さによって表現される歌、ダンス、芝居に浸る至福を味わいました。
この礼さんに食らいついている星組生も凄い。

物語の終わりにジェロニモがジュリアンの生き様をどう思うかと観客に問いますが、前日に「バレンシアの熱い花」を見ているだけに、それを階級社会と秩序に結び付けて考えずにいられませんでした。

「バレンシアの熱い花」の主人公フェルナンドが終始、階級社会に疑問を抱かず生きているのに対して、ジュリアンは階級社会に生きる人々の欺瞞と腐敗を嫌悪し軽蔑している。それは持たざる者として生まれて異分子として上流社会に生きているからこその視点だと思います。
上流社会の欺瞞と空虚さに辟易とし不満を言い募る令嬢マチルドと共鳴しながらも最終的に彼女ではなかったのは、決定的に相容れないなにかがあったからではと思います。彼を救うためとはいえ目的のためにはお金に糸目をつけない彼女のやり方に遣る瀬無さそうな目をしたジュリアンが印象に残ります。
彼女がジュリアンの無罪を勝ち取ろうとするのは彼女自身の名誉のためでもある。マチルド・ド・ラ・モールの名に懸けてと。それ自体は悪いことではないけれど、ジュリアンを満たすものではなかったということなんだろうなぁ。
すべてを持っていたゆえに欠け落ちたピースを埋めるために行動した者と、持たざるがゆえにすべてを求めた者。

なにも持たないからすべてを手に入れようとした。
地位もお金も名誉も持っていなかったものすべてがその手の中に入る直前に、自分が本当に望んでいたものはレナーテ夫人の愛だったと悟るジュリアン。
彼のために駆け落ちも厭わず彼の無罪を勝ち取るために奔走するマチルドの愛とそれはどうちがうのか、それがわかればジュリアンが欲していたものの正体がわかるのだろうなと思います。

「なんという目で僕を見るんだ」と懊悩するジュリアンが見ていたレナーテ夫人の瞳とはどんなものだったのだろう。そこに答えがある気がしてなりません。
小さきものを見る憐憫か慈愛か、ジュリアンのコンプレックスを大いに刺激しつつも悩ませた目。
彼が望んだ「すべて」とは。自分を愛する者の瞳に映る自分なのかなと。

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2023/04/02

この復讐を遂げるまでは私には安らぎはない。

3月28日に梅田芸術劇場メインホールにて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。

専科の凪七瑠海さんが主演、相手役に星組トップ娘役の舞空瞳さん、そして星組選抜メンバーという全国ツアー公演には稀な座組による公演でした。
主演が専科の方であるせいか、ベタベタしていない感じが私には好印象でした。
ロマンティックだけれどもノンセクシャルな雰囲気はオールド宝塚のイメージに通じて。

「バレンシアの熱い花」は2007年の大和悠河さんのトップお披露目公演の演目で、大劇場の初日からつづく全国ツアー公演の千秋楽まで約6か月繰り返し観劇した懐かしい作品です。
あのラストをどう受け取るのが正解なのか、6か月間考え続け、公演が終わっても折に触れ考えていたけれど正解をみつけられないまま、そもそもなぜトップお披露目公演であの演目だったのだろうという思案の迷宮にはまり、その思いを胸にずっと埋めていた作品でした。
 
今回凪七さん(宙組下級生時代の懐かしい呼び方をさせていただくと)かちゃ主演の「バレンシアの熱い花」を観劇して私の中のなにかが成仏した気がしました。

かつてあれほどひっかかっていた箇所が気にならずに見終えたことに自分でもびっくりでした。
観劇直後は黒岩涙香の翻案小説を読んだような感覚に近いかなぁと思いました。西洋の物語の体をしているけれど精神と教養は古の日本人だよねと。

恋しい人の瞳に宿るものを「さらさら落ちる月影に映えてあえかに光る紫のしずく」と表現したりだとか「後朝の薄あかりに甘やかな吐息をもらす恋の花」だとか。後朝なんて平安王朝文学くらいでしか出遭わない言葉にスペインで遭遇するとは。
いやいやスペインであってスペインじゃない。時代も国も架空の、古の日本の中のスペインなんだなぁと思いました。

仇討ちを心に誓い敵も味方も欺いてうつけ者を装い悪所通いをする主人公って大石内蔵助みたいだなぁとも。
男の本懐を理解して身を退く下層階級の女性、主人公を待ち続ける心優しく清らかな許嫁、二夫にまみえずの貞女、道理のわかった御寮人、時代劇なんだなぁこれは。

身分の違いを超えて結ばれることなどありえないし、愛しい人への操を守れなかった女性は生き恥を晒してはいけない、まして何もなかったように彼と添うことはできない、そんなことを微塵も疑わず信じている人びとの物語として今回は見ていました。

かちゃをはじめ星組の皆さんが時代がかった巧芝居を見せてくれていたので、そういう世界観なのだという前提で見ることができたのではと思います。
その世界観の中での登場人物それぞれの行動に整合性を感じましたし、そんなままならない状況で傷つき懸命に生きている彼らの気持ちに沿って見ることができたのではないかなと思います。

そしてあらためて考えてみてこの作品は貴族の若様の成長譚なんだなぁと思いました。
若様が「一人前の男」になるための試練を克服するお話。
試練の1つは父親の精神支配から脱すること、2つ目には色恋を経験すること。
2つのミッションをクリアして戻ってきた彼は「男」として認められ、彼を待ち続けた許嫁と祝福のもと結ばれて二度と降ろすことのできない責任を背負って人生の次のステージへと進む。
――という封建社会での成長譚なのだと思います。

封建社会の中で如何に誠実に生きるか。その中で如何にすれば幸せでいられるか。
柴田作品で描かれるのはつねに封建社会の人間ドラマなんだと思います。

封建社会を描いた物語を見ているのだという視点が欠落してしまうと柴田作品は首をかしげてしまうことになるのだろうと思います。
身分を超えること、男女の立場を踏み越えること、すなわち秩序を乱すことが封建社会においてなによりも罪だということ。そこにドラマが生まれているのだということ。
その前提を踏まえて見る必要があったのだと思いました。
そして半世紀前の初演当時よりもその前提を丁寧に表現しないと現代人の感覚では戸惑いの多い作品だと思います。

記憶にある限り柴田作品には根っからの悪女は登場しなくて、むしろ身分社会の中では悪女だと思われる女性の健気さが描かれることが多い気がします。
そこが柴田先生の優しさかなと思います。
けれどどんなにその女性が健気で心映えがよかろうと決して身分を超えて結ばれることはないのです。その先に幸せが見出せないのが柴田先生の思想なのかなとも思います。
唯一主人公とヒロインが身分を超えて結ばれたのは「黒い瞳」かなぁ。あれは女帝エカチェリーナ2世のお墨付きを得るという前代未聞の大技をヒロインがやってのけたからなぁ。
(男女の身分が逆で女性が身分を捨てて結ばれるパターンだと、主人公ではないけれど「悲しみのコルドバ」のメリッサとビセントの例があったのを思い出しました)

どうしても身分の差は越えられない社会に生きている人々なのだということは理解できるのですが、フェルナンドがイサベラに愛を告げる時に許嫁のことを打ち明けるのはどういう了見から来ているのでしょうか。
許嫁を悲しませることはできない(=目的を果たしたら許嫁と結婚する)が、君への思いに偽りはないと言うのは。
自分たちの階級の優位を示して彼女との身分を峻別しているように聞こえるけれど、そういうことなのでしょうか。
許嫁は清らかな心優しい少女だが、君はそうではない。許嫁を悲しませることはできないが、君のことはそう思わない。
君のことは一時の情婦にしかできないが、本気で愛していると。(イサベラの身分なら喜ばしいことのはずだと思っている若様の思考?)
どういう意図をもって言っているのと思ってしまうけれど、つまりそれが身分制度というものなのかと。

ロドリーゴの「私のシルヴィアが死んだ」をうけてのフェルナンドの「私のイサベラも死んだ」は、もうこれ以後は二度と彼女にまみえることはないということを自分に言い聞かせているように聞こえました。
ロドリーゴには聞こえていないのですよね。
フェルナンドとイサベラ、それぞれがそれぞれの居るべき世界に戻り、その2つの場所は此岸と彼岸くらいに隔たりがあるということなのかなと思うのですが、イサベラと同じ身分のラモンとはその後もなんらかのつきあいがありそうなのにと思うと(「また遊びに来てくれ、遠慮するな」とロドリーゴの言葉)釈然としない気持ちも残ります。
男同士の身分の差よりも、男と女の立場の隔たりの方が越えられない世界観なのだなとも思います。

領主に貴族にその部下や使用人、下町のバルに集う人々、軍人に義賊に泥棒さんまで様々な属性のキャラクターが登場し、貴族社会と下町を対比させ、貴族の邸宅やバルや市街のお祭りの場面を配して宝塚歌劇のリソースを最大限に活かす工夫が施された秀作だと思います。
けれど、また喜んで見たい演目ではないなと思います。

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2023/03/19

いまのおぬしとたたかうために。

3月18日に博多座にて「巌流島」を見てきました。

理屈っぽいチャンバラという印象でした。
武蔵と小次郎を戦わせるために設定を考え理屈を考えましたというかんじ。
最初から最後までボーイズクラブの理屈だなと。

社会性がなくこだわりの強い人物が主人公という昭和の任侠もののようなテイストで。
親も子も妻も存在せず自分の好きなことだけに打ち込むことができる世界。ある種の理想なのかな。
友か敵かの関係性。ホモソーシャル全開。男の絆バンザイの世界観。
ナルシシズムと自己満足。
そういったものが描かれていると思いました。

キャストのなかで唯一女性の凰稀かなめさんが2役で女性の役を演じていましたが、男たちの思想を肯定するために存在する役でがっかりしました。

セリフと殺陣で劇場空間を支配する横浜流星さんをはじめとする役者さんたちの能力は凄まじいなと思いましたが、それから舞台セットの代わりの映像も面白く全国のいろんなホールを回るのにこれはいいなぁと思いましたが、脚本的にはあまり語りたい舞台ではありませんでした。


<CAST>  (2023/03/20更新)

横浜流星(宮本武蔵)  侍らわぬ者。自己問答に周囲を巻き込む華が見事。リアル武芸者でした。
中村隼人(佐々木小次郎)侍らう者になろうとしてならない道を選んだ人。口跡とイントネーションが歌舞伎の人だなと思いました。スローモーションの殺陣が美しかったです。
猪野広樹(辰蔵) 自らの主を自らで選ぶ人。
荒井敦史(甲子松) どこにいても己が生きるべきスキマをみつける目敏さのある人。
田村心(伊都也) 己の良心に従う人。愛されて育った人なんだろうと思いました。
岐洲匠(英卯之助) 最終的に侍らうことに己の生き方を定めた人。つねに自分の美学を探している人のようでした。
押田岳(捨吉) 愛すべき可愛い人でした。ヒロイン的存在。
宇野結也(水澤伊兵衛) 静かな人かと思ったら実は怖い人でした。
俊藤光利(秋山玄斎/和尚) 俗で荒々しい野武士と仏に仕える和尚の物腰、同じ人とは気づきませんでした。
横山一敏(弥太右衛門/柳生宗矩) 宗矩の言葉に肯けました。
山口馬木也(藤井監物) 大変な食わせ者でした。
凰稀かなめ(おちさ/おくに) 人としての描かれ方がなおざりな気がしました。もっと葛藤を見たかったです。
才川コージ(望月甚太夫/大瀬戸隼人) 凄い跳躍を見た気がします。
武本悠佑(辻風一之進/細川忠利) きれいなお顔に思わず二度見してしまいました。

上川隆也  語り

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2023/03/15

よか夢見んしゃい (and all you've got to do is dream)

3月14日に博多座にてミュージカル「DREAMGIRLS」を見てきました。

とにかく聴かせる作品、ハイレベルの歌唱力をもったパフォーマーたちによるパワフルでソウルフルな舞台でした。冒頭からセリフの一声の張りも凄くて思わず笑ってしまい期待が高まりました。
チアフルなステージナンバーからバックステージの言い争いの歌へと自然に、迫力の歌声はそのままで繋がっていくところなど凄かったです。
劇中ナンバーでは「Steppin' To The Bad Side」のノリが好きでした。

ストーリー的にはエピソード不足かなと思いました。それを補うためにか言葉攻めみたいになっている箇所がいくつかあったのが可笑しかったです。
ジミーがドラッグをやっていたというのも告白で初めて知ったし。
エフィの体調不良の理由も見終わってからあれってそうだったの?と。
ディーナがエフィに電話しようとしていたのも知らなかったよーだったし。だからラストでどんな気持ちでエフィと向かい合っているのかドキドキしました。
デビュー前からのメンバー3人の繋がりとか、エフィがディーナと仲違いする理由とか、和解に至るところとかの脚本的書き込みがもっとあると感動的なんだろうなと思うけど、ミュージカルナンバーの披露に重きを置いているので仕方がないのかな。
1幕終演後にお隣の方が涙を流していらして、曰く映画を見ているのでエフィの気持ちを思うと涙が出てしまったとのことでした。

最初のオーディションの時からエフィの歌声がR&Bに向いているパワフルで深みのある声なのがわかって、彼女がセンターなのも彼女がイニシアティブをとるのも(みんなが彼女の顔色をうかがうのも)理解できました。
そういうところからも、セリフよりパフォーマンスで客席を納得させる方向なのかなと。

グループのデビューにあたってカーティスがディーナをセンターにすると決めたという流れの時は、大丈夫かな?と思ったのですが、それまで地味に見えていたディーナなのに、センターで歌うとさすがの真ん中力だったのでたしかにセンターに立つべき人だったよねとそれも納得。
歌うときのふとしたキメとかちょっと腕を動かすだけでも華がありましたし、撮影シーンのスター仕草もさすがでした。個人的には背中の開いたドレスのバックスタイルがたいそう素敵で好きでした。
雰囲気もうちょっとセクシーでもいいのかなぁと思うけれど、ちょっとでも過剰になるとちがうキャラになりそうで作品にも影響してしまうから難しいのかな。

さらに万事控えめで和やかなローレルが唯一感情的に歌うソロナンバーも見せ場でした。
感情を表す声色も自由自在で、彼女が決して数合わせの3人目ではないということがわかる大切な場面だと思いました。

ドリームズのメンバーはもちろん、これだけの実力のあるメンバーが揃ってポップでソウルフルなナンバーを聴かせてくれる贅沢な時間だったなと思います。

物語の舞台は1960年代~70年代のアメリカ。
アフリカ系アメリカ人による音楽はR&Bチャートで上位に入っても全米ヒットチャートには入らない時代。
でもその曲が白人アーティストにカバーされると全米でヒットするなんてザラ。
それが悔しいカーティスは自分たちが作り自分たちが歌ったナンバーが全米チャートに入ることを夢見てディーナたちのガールズ・グループ「ドリームズ」をプロデュースする。
彼よりも前の世代の音楽マネージャーのマーティはそんなことは無理だ、長くやっていればわかるはずだと首を縦に振らない。それくらい根深く骨身に染みていることなんだとわかります。

もちろんいままで通りのやり方では無理で、相手が自分たちの音楽をパクるならその上をいってやるとばかりにあらゆる音楽番組のDJたちに自分たちの曲を流すように促す。
それって買収してるってことですよね。
そもそもディーナたちがオーディションに遅れた時も、ジミーのバックコーラスに着ける時も、カーティスが懐からチップを取り出して意を通していたから、そういうことをやる人なのはわかります。
でもどこまでがOKでどこからがNGなんだろう。やりすぎなかった者が生き残るってことなのかな。

そもそも売れるも売れないもプロデューサー次第ってことか。
運よくやり手のプロデューサーと巡り合えるかがすべての分け目なんだなぁ。
彼女たちはそれにうまく乗せられただけになってない?
意に沿わない者は爪弾きにすればそれでいいの?(不必要にエフィをわからず屋に描いていない?)

子どもっぽさ未熟さを売りにする本邦のアイドル商法にもげんなりするけど、見かけは大人っぽくても中身はまだ未熟な10代の女性に「キミは大人だ」と自己決定権を与えたふりをして大人の意のままに動かすやり方もどうなの?と思いました。(「うたかたの恋」をまだ引き摺ってる)
彼女たちが心に傷を負うのは彼女たちのせい?
舞台は無理やりにでもハッピーエンドにしちゃうけど。
私はこのビジネスのシステムに納得がいかないなぁと思いました。(今の話じゃないのはわかってるんだけど)
成功例の裏には星の数ほどのハッピーで終われない結末もあるのじゃないのと。

エンターテイナーが守られていないと彼らのパフォーマンスを心から愉しむのは難しいと、エンタメを愛する側としてバックヤードものを見るたびに思う昨今です。

さて、この日のカーテンコールで挨拶をする望海風斗さんが、「それでは皆さん――」と切り出し間をおいて「さようなら」で締めたので両側にいるキャストの皆さんがずっこけて、口々に望海さんになにやら。
そこにいる誰もが別の言葉が続くと思っていたので。
望海さん的には、「それでは皆さん」と言ってしまったら後に続く言葉は「さようなら」しかないのではないかと釈明されていましたが、キャストの皆さん的にはほら「ドリームガールズ」らしいやつとか博多らしいやつとかあるでしょうってかんじかな。こそこそとアドバイスされているのですが明確に望海さんに伝わらないみたい。
痺れを切らした?駒田一さんが客席に向かって「皆さんは耳を塞いでいてください」で舞台上で打ち合わせて(見え見えのバレバレですが)、皆さんで「よか夢見んしゃーい!」で幕となりました。

上質で心励まれるひとときをありがとうございました。

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2023/03/07

ハプスブルクを頼む。

3月1日に東京宝塚劇場にて花組公演「うたかたの恋」と「ENCHANTEMENT-華麗なる香水(パルファン)」を見てきました。

「うたかたの恋」は小柳奈穂子先生による新演出がとても良いと聞いて楽しみにしていました。
書き加えられた部分によってそれまでふんわりしていた時代背景や状況が顕らかになり、私は夢物語を見る目線ではなく、史劇を見るようなシビアな目線で見ていたようです。
結果としてマイヤーリンク事件の後味の悪さを噛みしめることになりました。

現実との折り合いが悪い大人が、自分は世の中の誰ともちがうと夢想しがちな年ごろの年少者の夢を喰らって利用している様が浮き彫りになったように感じました。
ことに酒場で自暴自棄のルドルフが罪のないマリーを責める様子が、モラ男の典型を見るようで心理的アラートが誘発されたようです。
思い通りにいかないことに腹を立てている甘えたオトナと、見たことのない大人の弱さを直にぶつけられてそれを愛しいと感じ彼を支えられるのは自分しかいないと思い込んでしまった少女の図にぞっとしてしまったのです
(あなたしかいないのではなくて、みんなが手を退いてしまった男なのよ、その男は)

この甘えたでダメな感じが真実に近いルドルフなんだろうなとも思います。
それに対してマリーも現実的な人物に描かれていたなら別の受け取り方ができたのかもしれないのですが、旧時代の夢を一身に背負ったようなマリーだったので、ルドルフ役の柚香光さんが心の機微を繊細に演じるほど、マリー役の星風まどかさんが宝塚ファンが求めるマリー像に近づけるほどいたたまれなさを感じました
その立場、その美貌で夢見るマリーを有頂天にさせたあげくに死出の道連れにする正当性をどうやっても見出せなくて。

従来の「うたかたの恋」を見るとき、私は頭で主人公がおかれた状況や心情を補完しながら見ていたと思います。そうするのは、すでに初演の頃とは見ているこちら側の感覚や価値観が変わっていたからだと思います。
聡明で孤独な皇太子とけなげな少女の悲恋にロマンを感じ、頑迷な父帝や権力に固執する政敵を憎み、母后や伯爵夫人の機知に富んだ会話や人間味あふれる従僕たちのやりとりに人の世の機微を感じてひとときの夢を味わう作品だったのかな、もともとは。
でもいつしか見る側も努力をしないと楽しめなくなっていました。

時代が進み自分も年齢を重ねたことで、責任ある立場の大人がうら若い女性と情死を選ぶには納得がいく理由がないと受け容れ難くなり。
また同時代を描いた新しい作品での同名のキャラクターの描かれ方に触れることで、父帝がただの頑迷ではなかったのではと考えたり。
機知に富んで見える伯爵夫人のセリフも宮廷の薄暗いところで権力者を相手に女衒のようなことして生き抜く女性ゆえのわきまえた仕草なのだと知るようになると、あの狂言回しが「キッチュ!(まがいものだ!)」とせせら笑ったおとぎ話を無垢な気持ちで見ることは適わなくなってきたのだと思います。

そういうわけで、今回の新演出に期待を抱いて観劇したのですが、こもごも雑念が膨らみ純粋な目線で見ることができなかったのかなぁと思います。
柴田先生が脚本を書かれた時代の価値観や史観が支配する場面、新しく書かれた現在の価値観や史観による場面がパッチワークのように交錯し視点を定めることができないまま見終わってしまった感じです。
さらに同作映画にこんな場面があったなぁと思うとその映画の世界観に私の意識も一瞬飛んだりもして。
物語に浸るより、考察しながら見てしまいました。

「おとぎ話フィルター」が外れてしまったために、いままで気にしないようにしていた部分に気を取られたのもあります。
そもそもなぜジャンはヨハンじゃないのかなぁとか。
クロード・アネの原作がフランス語で書かれたもので名前もフランス式になっていたと思うので、柴田先生もそれに由ったのかなと思いプログラムを見ると、フランツ・フェルディナント大公も「フランソワ・フェルディナンド大公」になっていました。(だから恋人もゾフィーじゃなくてソフィーなのか)
名前の表記は原作にならってフランス名で統一しているのでしょうか。
それで今回の新キャラであるマリーの兄の名前もジョルジュなのかな。観劇時なぜゲオルクじゃないんだろうと疑問に思っていました。(母親がギリシャ系でマルセイユ生まれらしいけど←観劇後に調べてみました)

かと思うと、従来は「ヨゼフ皇帝」と表記されていたフランツ・ヨーゼフが新演出では「フランツ」(ファーストネームのみ)になっていて、これも不思議に思います。
舞台を見るのにどうでもいいことなのかもしれませんが、意味なくそうされている訳ではないと思うのです。その理由がわかれば喉の痞えも取れるのではないかといろいろ考えてしまいます。

こたびの新演出ではフェルディナント大公の恋人ゾフィー・ホテクも新キャラとして登場し、フェルディナント大公が彼女を「召使い」と紹介したのでそれにも、え?となりましたが(実際には彼女はフリードリヒ大公妃の女官をしていたボヘミアの伯爵令嬢だったのだけど)、これは貴賤婚をわかりやすくするために平民に改変したのかなと思いました。
この時代、ルドルフ皇太子を筆頭にハプスブルク家には大勢の大公殿下がいたそうですが、貴賤婚を選ぶ大公が次々増えていくのですよね。
彼らは家憲により王族以外との結婚が許されなかった(貴族もNG)けれど、それでは当時50名以上いたといわれるハプスブルク家の大公たちは結婚のチャンスを逃してしまうし、貴賤婚のたびに皇籍から除籍していては後継者の選定が難航していくのは顕らか。
フェルディナンド大公やジャン・サルヴァドル大公が自由恋愛で伴侶を選ぼうとしているのも時代の必然だなと思います。そんな彼らをルドルフが眩しく羨ましく思うのも肯けました。
これもまたハプスブルク帝国の崩壊を予感させるエピソードだなと思いました。

新演出でとくに好きだったところは、冒頭のプリンスたちのウィンナワルツです。
「うたかたの恋」というとプロローグでルドルフとマリーが歌う深紅の大階段、そしてそれに続く貴公子たちのウィンナワルツが最大の見どころですが、今回はそのウィンナワルツがさらに見応えのある見せ場になっていました。どのプリンスも麗しく、どのプリンスもダンスに長けていて、1人ひとりを眺めてうっとりしたいのに・・やがてこの場面が終わってしまうのを惜しまずにいられませんでした。

シュラット夫人がオフィーリアのアリアを歌う場面もよかったです。フランスオペラ「ハムレット」の音楽はこの作品の世界観にぴったりでした。(その衣装からして彼女は歌唱披露しただけでオフィーリアを演じたわけではないんですよね?)
バレエの場面も素敵でした。美しいものを見ることには価値があるのだとしみじみと感じました。
ザッシェル料理店にはこれまでもおなじみのロシアの歌手マリンカ、プラーター公園のタバーンには新キャラのミッツィと、歌姫に活躍の場があるのもいいなぁと思いました。
ミッツィってあのミッツィ?(ミッツィ・カスパル)と思うと、ルドルフの別の顔を思い起こしてしまい複雑な気持ちになってしまったのも否めませんが。

ルドルフを追い詰める包囲網がわかりやすく描かれたことで、柴田作品独特の「語らない中に語られているもの」が見えなくなってしまった気もします。
なにげないやりとりに込められた意味に気づいた時の面白さが柴田作品の真骨頂だったなぁと。
けれどいまの時代に「語らない中に語る」というようなことをすると、思いもよらない受け取り方をされたりもするので難しい。そういうことが通用しない時代になったんだなぁと思います。

それから柴田作品は、女性は分別をわきまえてどんなときでも微笑みを絶やさずけなげに振る舞いなさいのメッセージも強くて、いまこの時代にそのまま見せられると鼻白んでしまうのも確かです。当時はそのほうが幸せを掴めるという女性たちへの愛を込めたメッセージだったのかもしれませんが。(「バレンシアの熱い花」はどうなるのかいまから心配・・)

思えば、これほど宝塚の今と昔に思いを馳せられる作品もないなぁと思います。
そしてこれからの宝塚は、と思いを遣らずにいられません。


野口先生のショー「ENCHANTEMENT-華麗なる香水(パルファン)」は宝塚を見たぞという満足感に浸れる作品でした。
コスチュームが豪華な舞台は多々あれど、必然性などおかまいなしに次から次へと豪華なコスチュームを着替えて見せることができるのは宝塚しかないのではと思います。まさにそんなショーでした。

私がいちばん心に残ったのは、パリのベル・エポックの場面、盆の上を回る美男美女たちかなぁ。
聖乃あすかさんが凄まじいほどの美女でびっくりしました。
早くもここが私的クライマックス!と思ったところでしたが、次のNYの場面での柚香光さん登場で心が舞い踊りました。
やはり小粋に踊ってこそ花男。
中国の場面は艶やかで、ミュージカルナンバーの場面は洒脱で目にも麗しく軽快な黒燕尾も愉しくて、そしてデュエットダンスにうっとり。(影ソロもよかったです)
芳しいひとときはあっという間に終わってしまいました。

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