2023/06/03

グッナイ誰かさん。

5月28日に博多座にてミュージカル「ザ・ミュージック・マン」を見てきました。

初めて見たはずだけど知ってる。そんなストーリーでした。
映画を見たことがあるのか翻案のなにかを見たことがあるのか。
閉塞感漂う田舎町に胡散臭い来訪者が滞在して町の雰囲気が好転するというストーリーに既視感があるのか。
騙る男とお堅い女性のロマンスも最近なんども見ている気がします。

1957年の初演当時「ウエストサイドストーリー」よりも多くの演劇賞を受賞したという作品紹介に期待したのだけど、そっかそうだよね。
胸を抉る社会派バッドエンドより皆が笑顔のハッピーエンドが多くの人に支持されたのね。
純朴で保守的なアメリカの物語に安心したい人たちに。
でもこれをハッピーエンドと思ってよいのか私には疑問でした。

主人公にしつこくつき纏われるヒロインが気の毒だったし、怒ると揶揄されるのもなんだかなだったし。
なにが目的かもわからない男性が娘のまわりをうろついているのを喜ぶ母親とか地獄だなと思いました。娘を早く結婚させたい、男と名の付くものと伴侶にさせたい、それがあるべき姿だと信じているらしくて。

南部が舞台の物語だと娘の親は相手の男性の属性や資産にこだわる印象があったのですが、このヒロインの母親にはそれが微塵もなくて、むしろそれが恐ろしくもありました。慎ましく夫や家族に愛情を尽くし結婚がもたらす苦労を受け容れそこに喜びを見出すのがあるべき姿だと信じているようで。とてもピューリタン的といいますか、アイオワ(中西部)が物語の舞台というのも関係があるのでしょうか。(劇中で母親はアイルランド系だと言っているのでカトリックかもしれないのだけど)。

まだ10歳くらいの少女でさえも自分に相応しい相手を狭い町の中で見繕って行動しているのもなんというかぞわぞわしました。「おやすみなさいを言う相手」がいないかもしれない未来を仮想して嘆いてみたり。
独身の女性は不幸だと小さいうちから刷り込まれているのだなぁ。そしてそんな町なのだなぁと。
それを前提にして見ていかないといけないのかと、物語の最初から気持ちが暗澹としてしまいました。

若い娘の関心事はいつプロポーズされるかで、既婚女性の娯楽は噂話。ヒロインが小説を読むことさえ不品行だと非難されるコミュニティ。
そんな狭くて閉塞感のある町で26歳で未婚のヒロインは変わり者と思われているし噂に尾ひれがついて不適切な過去があるとも囁かれている。
見ているだけで具合が悪くなりそうな世界観。
そういうところに風刺を込めて演出することも可能なのに、ふんわりで終わらせている。ヒロインが「まだ未婚」なことや別のキャラクターの恐妻ぶりで笑いが起きていることからしても、むしろその価値観を受容した上で見せているのだなと思いました。
だからこそ、ヒロインが主人公を受け容れたことがハッピーエンドだと受け止められるのだと思いました。
ヒロインが主体的に主人公に惹かれて愛していく様を描くこともできるはずなのに(途中でベクトルの方向が逆になっていくともっと楽しそうなのに)中途半端な気がして残念でした。

不寛容で閉塞感漂う町を図らずも詐欺師の主人公が変えていくというストーリーなのだけども。
変わったようで変わっていないんじゃないかなと見終わって思いました。
マーチングバンドを手に入れていまは活気づいたけれど価値観はそのままで。
主人公さえも取り込んで、町は元に戻っていきそう。そんな怖さを感じました。
詐欺に遭ったのは私かもとそんなもやもやが残りました。


ハロルド・ヒル教授(坂本昌行)
プレゼン能力が高くて人々に夢を見せるのが巧い。まさに夢を売る男。その夢の対価として相応しい金額ならこれはこれでOKなんじゃない?と思いました。いままで彼が嫌われてきたのは夢が最高潮に達した時にトンヅラ、売り逃げしていたからですよね。それらしい指導者を招聘できていたらこれは成功するビジネスモデルでは。
むしろこんな才能のある彼がこれまで詐欺をやっていたことが気になりました。きっかけとか動機とか。坂本さん演じるヒル教授は根っからの悪人には見えないのでなにか過去がありそうで、それを知りたく思いました。
約10年ぶりに見た坂本昌行さん、肩ひじ張らず自然体で主役なのが素敵。声が良くてセリフが聞きやすくて難しい歌もするっと歌えていまここに生きている人という感じでした。
とても真摯なものを感じさせる方で、この人が悪い人のはずがない絶対トンヅラなんてできるはずがないと思って見ていました。詐欺をしていたのは彼の方なのに、町に残った彼を糾弾する町の人々のほうが邪悪にすら思えた不思議。(彼に肩入れして見ていたからかな)

マリアン・パル―(花乃まりあ)
凛として透明感があって素敵な女性。彼女の価値観や生きる姿勢が周囲に理解されないのが気の毒で胸が痛みました。
詐欺を働く男性と譲れない理想がある女性。そんな2人が相手に何を見出したのかそこがわからず仕舞いだったのが残念だったなぁ。
ヒル教授の正体を暴こうとするカウエルを阻止しようとする場面、それまでのお堅い雰囲気からいきなりコミカルになるところが好きでした。(ちょっとWMWのエマを思い出してしまいニヤケました)
10年前博多座で「銀河英雄伝説」のユリアン役ではじめて知った花乃まりあさんをまた博多座で見ることができてうれしかったです。(あのときの美少年がこんなに素敵なヒロインに)

| | コメント (0)

2023/05/23

幻のヌベラージュ。

5月19日に東京宝塚劇場にて宙組公演「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」を見てきました。
ひと月前に宝塚大劇場で観劇していたので、過大な期待はせずに宝塚を楽しめたらいいなというつもりで臨みました。

バカラの場面など、大劇場公演では散漫に感じた箇所がイキイキとした場面に変わっていてやはり東京公演はいいなぁと思いました。
大勢口の場面が希薄な印象になってしまうのが宙組の悪い伝統だなぁと他の組を見た後など特に思います。
(「High&Low」の時は全くそんなことはなかったのですが)
私は宝塚大劇場での観劇がメインなので東京公演では良くなっているというのも、それはそれでなんだかなぁという気持ちになります。
このスロースターターな組気質が改善されることを切に願っています。

真風さんと潤花さんがパラシュートに乗っている場面は2人のこれまでを思うとやっぱりせつなくて、フィナーレのデュエットダンスは2人のあまりの美しさと輝きに気づいたら涙目になっていました。

演者が放つ刹那の輝きに感動はしたけれど、やはり作品自体はしっくりこないというか、引っ掛かるところがあって気持ちがうまく乗れませんでした。
プロローグの男役たちのスーツのダンスにはテンション爆上がりだったのに、場面が替わりジャマイカでボンドが女の子たちにマティーニとシガレットをもらい「サンキュー、ローズ、リリー」でやっぱりだめだこりゃになりました。
最初から最後まで気持ちのアップダウンが激しい作品でした。

マリンブルーのジャケットに白いパンツの伊出達の真風さんが若大将にしか見えない呪いにかかってしまったのは辛かったです。銀橋の歩き方もあの場面だけなんというかとても昭和で。作品の年代に合っているといえばそうなのかもしれないですが。スタイリッシュはどこに行ったん?と思いました。

デルフィーヌに対するボンドのセリフも
苦手でした。最初のとおりすがりのキスの場面から。どうだ俺は凄いんだぞとずっと言っているみたい。
ヒロインをもっと対等に対話ができる大人の女性に設定できなかったのかなぁ。ボンドが始終器の小さい男に見えて残念でした。

ムラで見た時よりもCIAのフェリックス・ライター役の紫藤りゅうさんの顔つきが変わったなと思いました。強くて正しいと自負する「アメリカの貴族」の末裔という印象。お金にものをいわせてストレートに物事を思い通りに動かす「世界のお坊ちゃま」。いかにも60年代のアメリカのイメージ。

対して瑠風輝さん演じるルネ・マティスが人が好すぎて英米に対して卑屈なのが気になりました。根は良い人でも時にはプライドの高さが垣間見えてほしいし卑屈ではなく皮肉に聞こえるくらいのエスプリがほしいな。
フェリックスの「マテリアル(物質・金)」とマティスの「エスプリ(精神・軽妙洒脱な知性)」の対比が見えてこそ、米仏の2人が配置されている意味があるのではないかと思います。
60年代はフランスにとって苦しい時代だけど人生の価値はお金だけではない、そんな矜持を人々は持っている。
「フランスは貧しいからこそ卑屈になることを拒否する」と戦後ドゴールは言ったそうですが(その高慢な気取り屋ぶりを実利主義者のルーズベルトは鼻で嗤ったとか)、ルネもまた内心に哲学と愛があるフランス人だと思いたいです。

トップコンビと長く組に貢献した組長さんの退団公演ということもあり、随所に過去作を彷彿とさせるセリフがあったり、演じる本人たちの関係性と照らし合わせて感傷的にさせる場面もあったのですが、作品として最も心に響いたのはミシェル役の桜木みなとさんが歌った歌(「夢醒めて」)でした。歌詞の言葉ひとつひとつが沁みました。
潤花さんが歌う「RED BLACK GREEN」も素直に胸にきました。

スメルシュの鷹翔千空さんはやっぱり身のこなしがカッコよくて、登場すると勝手に目が追っていました。
桜木みなとさん、鷹翔千空さん、花菱りずさんの役になりきった芝居が光って見えました。
(若翔りつさんもかなりの芝居巧者なのだけど役が残念すぎて)

ドクトル・ツバイシュタインの場面は東京でもこのままなのかーと残念に思いました。
ナチスに協力したドイツ人科学者が何をしたか、戦後その技術力を目当てに連合国側の米ソが何をしたか、そしてソ連が彼らに何をしたか。彼らの研究が戦後の世界になにをもたらしたか。そんなことが頭を過って。
易々とルシッフルのもとに行けるくらいだからソ連にとってもそれほど重要な人物じゃないよねとも思うし、実際そういう役だったんだけども思想が問題な人物なわけで、コミカルな仕立てにしているのがなおさらでとても無邪気に笑えませんしグロテスクに感じました。

皇帝ゲオルギーは立ち上がるとかも正直いらないよねと思います。ボンドのおじいさん設定も。アナグラムも別にあれでなくても。
退団者への餞の気持ちはわかるのですがよほど巧くやらないと世界観が壊れてしまうなぁと思いました。

イルカはやっぱり謎でした。
人命救助するイルカはいるけどイコール「イルカは人を愛する」とはならないと思うし。個体差だし知能が高い分残酷であったりもするし。なぜ急にジェイムズ・ボンドが夢見る夢子ちゃんみたいになるん?と。
理想をイルカに託してロマンを語っているの? でも私が真風さんのボンドに見たいロマンはそこじゃないんだなぁ。
同調するデルフィーヌもなかなかだなぁというか、ボンドがイルカの話題を出したらすかさず「私の名前はイルカって意味なの」と言い出したのは彼女だったし。そういう意味では2人とも夢見る夢子ちゃんでお似合いなのかも。
いや、ボンドは彼女のことをちゃんとリサーチしてて、名前に因んだイルカの話題を出すとすぐに食いついてくるとわかってやっている作戦に見えたらなるほどね~と思うのだけど、そうは見えない。案外本気ですよね。

真風さんは大人っぽい役が似合うと思われがちだけど、トニーやニコライ、フランツやローレンスなど純粋な青年役が素敵だと私は思っています。
今回のボンドみたいに人生経験の浅い女性をターゲットに見下している感じがする役は苦手だなぁ。おそらく私は小池先生のオリジナル作品の主人公が苦手なんだと思うのだけど、今回のボンドは究極に私が苦手な匂いがするのと真風さんはなぜかその私が苦手なところをより強調しちゃうんだろうなと思います。私に起因する問題だと思いますが。

「アナスタシア」のディミトリはいままで宝塚で見た主人公の中でも屈指で好きです。「神々の土地」のフェリックスも最高だったなぁ。麗しのルイ14世も好きだったし、屈折してたり変人だったりする真風さんの役も純粋な役と同じくらい好きです。
わたし的に、真風さんのラストがこの役なのが遣る瀬無いというのが引っ掛かっているのかなぁ。
もしかしたら私が見たかった真風さんの片鱗を今回の鷹翔千空さんに見出しているから鷹翔さんに釘付けになってしまうのかもしれないなぁ。
(これを書きながら録画していた2016年の宙組「バレンシアの熱い花」を見ているこの瞬間も真風さんのラモンのカッコよさに見惚れていました)

「007」だと期待しなければ、宝塚らしい退団公演だと思えましたし愛のある脚本だなとも感じました。
引っ掛かるところはあるけれど、真風さんが晴れやかに卒業されたらそれがいちばんだし。
と自分を納得させて劇場を出てスマホを開いたら、千秋楽の全世界配信のニュースが。
喜ばしいはずなのに手放しに喜べない。
最後の最後にやってくれるなぁ涙。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2023/05/15

恩恵は次の者へ。

4月17日と21日に博多座にて舞台「キングダム」を見てきました。
すべてが「本気」で目を瞠る舞台でした。

「キングダム」は家族がアニメを見ているのをながらで聴いていたくらいの認識しかありません。
ずっと戦っているなーとかオウキ将軍は面白いしゃべり方をするなーとか途中でこれは秦の始皇帝がモデル?と気づいたり、その程度でした。
勇ましいことを言って命が何個あっても足りなそうとか。
(音声だけでしたので、さいしょのうちは別のアニメと区別がついていなかったかもと思います)
そんな中でもセイの邯鄲脱出のくだりやセイの母親のくだりなどは耳をそばだてた覚えがあります。
仲間のキャラクターが女の子なのを主人公だけが知らなかった話も、いま思えばキングダムだったんだなと思います。

その程度の知識しかないのに観劇しようと思った動機はキャストです。
人からびっくりされるほど若手俳優さんに疎いのですが、信役の三浦宏規さんは「ヘアスプレー」や「千と千尋の神隠し」でお芝居の間が気持ちよくて体の使い方がきれいな人だなぁという印象で、この方が主役なら見応えがあるのではと。
宝塚退団後の華優希さんや美弥るりかさんの活躍も見たいし、早乙女友貴さんも凄そう。
それに山口祐一郎さんの王騎って・・?という興味本位でした。

そんな状態ではありましたが、見たいキャストの日を選んでチケットを申し込みました。
(顔覚えがすこぶる悪いので、初めて見る作品は登場人物把握のためできるだけ知っている役者さんで見たいのです)
その後貸切公演を1公演追加で申し込みをしたのですが、確認するとほぼ同じキャストの回でした。
2回見るなら未知の役者さんでも大丈夫だったなぁ違うキャストも見たかったなぁなんて後の祭りです。

一抹の不安も覚えながらの初見でしたが、皆さんキャラ立ちが凄くて見分けがつかないなんてことはまったくの杞憂でした。
とにかく圧巻のパフォーマンス。登場人物それぞれの立場も状況もよくわかる脚本で集中して見ていたらあっという間に1幕が終わりました。
夥しい情報量なのにわかりやすいのが凄いなと。セリフ1つにも、そのキャラの一貫した思いや個性が織り込まれていて、そうそう信ってこういう人だよね、政ってこういうものを背負った人だよねとあらためて理解することができました。

そしてなにより役者の皆さんの表現力が素晴らしい。
身体表現、声。丁々発止の絶妙な間。舞台上で生きる人々が作り上げる空気に劇場全体が支配され息をのむ観劇体験となりました。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2023/04/30

この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい。

4月9日と11日に福岡市民会館にて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。
9日ソワレはライブビューイングが実施された回、11日ソワレはツアーの大楽でした。
3月29日に梅田芸術劇場メインホールにて一度観劇しているのですが、期待以上のものが見られたので福岡での公演も楽しみにしていました。

梅芸観劇後の感想にも書いたのですが、「バレンシアの熱い花」は2007年版、2016年版を経ての今回の上演でようやく私は見方がわかった気がしています。
そしていままで何に戸惑っていたのかもわかったような気がしました。

物語の舞台やコスチュームは19世紀初頭のスペインに仮託しているけれども精神は極めて日本的な物語だということ。
身分社会に生きる人々の物語であって、それも西洋ではなくて日本のそれのほうが近いこと。
歴史物というよりは昭和の痛快時代劇に近く、そこからエログロを一切抜いて、物語の舞台をナポレオンがフランスに帝政を布いた時代のスペインとし恋愛模様を織り込んだコスチュームプレイとして宝塚作品らしく書かれたのがこの作品なのだと思います。

今回のキャスティングがピタリとはまっていたことと、専科の凪七瑠海さんと星組メンバーが丁寧に表現していたので、時代がかったセリフや歌詞を堪能することができました。

父親の復讐を心に誓いその時機が訪れるまでは『貴族のバカ息子』を装うフェルナンドは大石内蔵助か旗本退屈男を彷彿とさせます。
(これに倣って「旗本退屈男」をヨーロッパの架空の国設定で翻案するのもいいなぁと思いました)
彼が軍隊を辞めてのんびり過ごすことにしたとルカノールに告げる場面で使う「二年越しに肩を凝らせていますので」という言葉がなんとも言えず好きでした。見終わってから心の中で何度も反芻しましたが私には一生使う機会はなさそうです。

軍隊時代にレオン将軍に剣を習ったと言うラモンにフェルナンドが「同門だ」と言ったり、言葉そのものもですし、同門だと『貴族の旦那』も『下町でごろごろしているケチな野郎』も一瞬で距離が縮まる価値観も面白く見ることができました。
このように西洋が舞台なのに作中でちょいちょい出てくる時代劇さながらの表現が違和感ではなくむしろ面白かったのは、演者の呼吸や間合いが作品の世界観に合っていたからだろうと思います。

主演の凪七瑠海さんや組長の美稀千種さんの芝居の呼吸が芝居全体に良い影響を与えている印象でした。時代めいたペースの芝居をラストまで貫けたのが見ていて心地よかったです。
作品に合わせた「臭い芝居」ができる人が何人もいる星組はこのようなタイプの作品に合うのだなと思いました。

主役の呼吸が芝居全体にとって大事。この作品はとくにセリフの持つ尺を堪えきることが大事なんだなと思いました。
凪七瑠海さんのキャリアが十分に活かされていたと思いますし、それでいてすっとした青年らしい若様を演じて違和感のないその個性も役にぴったりだったなぁと思います。

瀬央ゆりあさんも、人情に厚く仲間から愛されている役がよく合っていました。
軽口のように愛を告げ、妹にも好きに憎まれ口を叩かせて。相手に負担をかけないよう気遣うことが習いになっているのかな。両親を早くに亡くすかで小さい頃から周囲に甘えられずさらに自分より幼い妹を庇って生きてきた人なのかなと想像しました。
その妹を守り切れなかった悔しさと憤り、イサベラが傷つきながらも愛する対象が自分ではないせつなさ。言葉ではないものがつたわるラモンでした。背中で泣く(背中でしか泣けない)「瞳の中の宝石」は見ていてせつなかったです。

それからロドリーゴの「この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい」。
2007年の再演の時はその表現が衝撃的で絵面が脳裏に浮かび思わず我に返ってしまうセリフだったのですが、今回はすんなりと入ってきました。
芝居全体のペースにロドリーゴ役の極美慎さんも巧くはまった芝居をしているからだろうなと思いました。
ロドリーゴ役が極美さんと知った時からビジュアルは間違いなくはまるだろうと思いましたが、いかにも昭和のメロドラマパートでもある役なので危惧もしていたのですが、芝居が整うってこんな感じなんだなぁと思いました。
シルヴィア役の水乃ゆりさんとのペアは真しくタカラヅカらしい見栄えで夢中で追って見てしまいました。

この作品の見方がわかるようになったからこそ、深いところ細かいところも楽しむことができたのだなと思います。

そしていまさらながら16年前の再演ではじめてこの作品を見て戸惑ったことが思い起こされます。
再演を熱望されていた作品の30数年ぶりの上演ということで期待をもって観劇した時の。
ストーリーがわからないわけではない、登場人物の気持ちがわからないわけでもない。
でもどう受け取ればいいのかわからないそんな感じだったでしょうか。
(先ごろ半世紀ぶりに再演された「フィレンツェに燃える」を見た時に近い気がします)

今回で身分社会を背景にすることで成り立っている物語だということは飲み込めましたし、その社会を必死に生きている人々を描いた物語なのだとわかったのですが、それでも、というかそれゆえに、いまもなお考えさせられる作品でもあるなぁと思います。

フェルナンドとイサベラがどうして別れなくてはいけないのか、それはわかります。
フェルナンドが自分の社会的責任をまっとうしようとするならそれに相応しい伴侶が必要で、イサベラはそれに該当する身分ではないから。もっと言えば愛人として囲うことすらできないほど身分に隔たりがあるのだと。
むしろ商売女と割り切れば好きな時に好きなだけ逢うことが可能なのでしょうが、そういう相手にはしないことがフェルナンドにとっての誠意、「心から愛した」ということなのだろうと思います。独りよがりだとは思いますが。

別れなくてはいけないとわかっているのなら最初からつきあわなければいいのに、と思わなくもないですが、そうはいかないのが恋愛なのだという恋愛至上主義に基づいた作品なのでしょう。このへんの恋愛倫理観がおそらく書かれた時代と現代とは異なるのかなと思います。
女性にとって恋愛は文字通り「生と死」(生殖と身体的な死そして社会的な死)に直結するものだから、大事に守られている女性はそこへ近づけさせないのが身分社会においては当然で、自由で本能的な恋愛は女性の立場を危うくするものだという認識はフェルナンドにもあると思います。
逆に酒場で働いているイサベラはその囲いのうちには入らず、本能のままに近づいてもかまわない女性だという認識なのでしょう。

イサベラに激しい恋をもとめる歌を歌わせるのは、フェルナンドの免罪符になるようにという作者の意図が働いているためだと思います。
『息づまるような恋をして 死んでもいいわ恋のためなら』
『美味しい言葉なんてほしくないわ』
『黙って見つめて心を揺さぶる そんな激しい情熱がほしいわ』
こんな歌を好んで歌う女性だから、心の底に復讐の炎を燃やすフェルナンドの一時の相手に相応しいのだと。
傷ついても自分から望んだことだからフェルナンドを責められないよねと。

なぜフェルナンドはイサベラに愛を告げる時に許嫁がいることも同時に告げるのだろうというモヤモヤについても考えました。
けっきょくのところ、交際をはじめる前に「この関係は私の都合で一方的に解消するけど、それでいいね?」と言っているのですよね。そこでゴネるなら付き合わない。付き合うならそれでいいということだよねと。
それで双方がいいならこの件は締結なのに、キラキラした言葉で愛を告白しながら、でも自分には許嫁がいてその人は心優しい少女で自分は裏切れないのだ、と付け加えるのは、自分は悪者にはなりたくない、とことん良い人の立場でいたいということなんだなぁと。
ああこれはモラハラの手口だ。だから何年も何年もモヤモヤしていたのだなぁ。
うん、やっぱりフェルナンドは嫌いだ。
16年前はそんなフェルナンドを許容する理由を探して自己矛盾を起こしてしまっていたのだと思います。(だってめちゃくちゃ輝いて見えたから)

それから、心の奥でこの作品に息づく男社会礼賛に反発を感じていたのだということにも気づきました。
「女には口出しをさせない」のが男として恰好が良いという思想が貫かれていることに。
ルカノールの「男なら聞き捨てならない言葉だが昔一度は惚れたあなたのことだ聞かなかったことにしよう」、レオン将軍が孫娘の苦しみを知りながら「だからついでのことにもう少し辛抱させておくのだ」とか。
フェルナンドの「私のイサベラも死んだ」も。

言い淀むレオン将軍に「無理に聞くつもりはありません」と言うセレスティーナ、「じっと待ちます」のマルガリータ、面倒なことになる前に自分から別れを告げに来るイサベラ。
わきまえた女性ばかり。
お爺ちゃんたちの理想郷ですね。

それが初演当時1970年代の一般的な雰囲気だったと記憶しています。
同時に「ベルサイユのばら」等の少女漫画が少女たちの心に新しい自意識を灯した時代でもありました。彼女たちは女性であっても臆さずに真っ向から大貴族や将軍に意見するオスカルに憧れを抱いたのだと思います。
そんなオスカルを時に父ジャルジェ将軍は激しく叱咤しますが、どうしてダメなのか根拠は説明するんですよね。「男として育てる」というのはそういうことだと思います。(ほかの5人の娘たちにはこういう対応はしていないと思います)

宝塚の「ベルばら」はそんな女性たちの支持の理由に気づかず男性社会目線で作られている。初演当時でさえ原作よりも古臭い印象を与えていたのに、再演のたびに手を加えてもなおそのスタンスは変わっておらず、「女のくせに」「女だてらに」等オスカルが男性社会で生きることをなじるセリフや場面のバリエーションは豊富にもかかわらず、オスカルが人間としてもがいていることについては「女にも権利はある」と紋切型の主張で終わらせてしまう。
挙句の果てにオスカルに「あなたの妻と呼ばれたいのです」と言わせてしまう。
身分の上下なく1人の人間としての「アンドレ・グランディエ」の妻にと願ったことを、あたかも男性に従属したいと願っているかのように改悪されていることに憤りを覚えます。
いちばん変えてほしいのはそこなのに。オスカルが言っていることに、彼女が悩んでいることに、上からでも下からでもなく対等に耳を傾けてほしいと思います。
そんな「ベルサイユのばら」なら見たいです。
(話が逸れてしまいました)

「バレンシアの熱い花」は、柴田先生による初演当時の価値観による物語なので、そういうものとして見ることができますし、またそれを見ていろいろ考えたり、好きとも嫌いとも思うのは当然の観劇の感想かなと思います。
反発するところもありつつ、やはり人間観察に優れているし表現力語彙力に惚れ惚れもします。
心に悩ましい爪痕を残すやはり名作なのだろうなと思います。

今回やっと見方がわかり憑き物が落ちたような心地です。
このタイミングで近々、過去の一連の「バレンシアの熱い花」がスカイステージで放送されるとのことで、今の自分にどんなふうに見えるのか楽しみです。

| | コメント (0)

2023/04/15

二度と同じ夢は見れない。

4月6日と7日に宝塚大劇場にて宙組公演「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」を見てきました。

正直唖然としました。
でもトップスターの退団公演ならこんなものなのかもしれません。
小池先生の作品だし世界の「007」ということで期待しすぎていたのかも。
でも甲斐先生&太田先生の音楽でこの盛り上がらなさはどういうこと?とは思います。
音楽だけはいつも裏切らなかったのになぁ。

トンチキなのはいいとしても設定があまりに稚拙だと物語に入り込めないなぁ。
ロマノフの継承に関する部分とマッドサイエンティストのところでうーんとなってしまいました。
(ロマノフ家の帝位継承が指名制??「大公女襲名」??大公女の戴冠式??「大公女陛下」??そもそもツァーリの娘か孫娘に生まれないと大公女にはなれないのじゃないの??と同日観劇した知人に疑問を投げかけたら「考えたら負け」との御達しが)
イルカの歌のロジックも謎でした。
歌唱指導にも使用するくらいなのでいちばん言いたいことなんですよね?
キキちゃん(芹香斗亜さん)どんな気持ちで歌っているのかなぁ。タカラジェンヌは偉大だなぁ。

岡田先生の場合は女豹だけど、小池先生の夢は女子大生なのかなぁ。
大学生、劇作家、社会活動家など知的でお堅い属性の女性を籠絡するの好きだなぁ。
などとストーリーとは関係のないことを考えながら見ていました。
脚本自体、設定を面白がって書いているというか、散りばめられた過去作の欠片に気づいてほしそうに書かれているようでした。
ロマノフとか、マリア皇太后とか、マッドサイエンティストとか、女子大生もそういう欠片の1つかな。
いっそホテルを建てたらよかったのになぁ。
というか007の設定、いる? とかいったら元も子もないか。

でも007、冷戦時代のスパイものの設定が活きている場面が見当たらなかったのも事実。
スパイものなのに全体にまったりしていてスリリングな場面もなかったし、せっかくパリに英米仏のエージェントが集まったのに、英国人らしさ米国人らしさフランス人らしさでクスリとさせるような場面もなくて。
ステレオタイプすぎるのは批判されるかもしれないけど、共通認知を有効に使って知的に表現するのも腕の見せ所なのになぁ。
そういうところがスパイものの面白さだし、そこに1960年代らしさも加わるととても素敵なのに。

スパイものらしい身のこなしが素敵だったのが、スメルシュ役の鷹翔千空さんでした。
ピストルを撃った時の反動がリアルで。良い筋肉の使い方だなぁと惚れ惚れしました。
ジェイムズ・ボンドのこともル・シッフルのことも容易に仕留めてしまえそうなのに、さぁというところ部下を助けに行っちゃうのがツボでした。(良い人♡)

緩急のある芝居で場面を面白くしていたのはミシェル役の桜木みなとさん。過激派の学生と言われるとそうなの?という設定だけど。
それからゲオルギー大公の妃役の花菱りずさん。彼女が大袈裟なくらいに芝居をしてくれたので飽きずに見られたかなと思います。
天彩峰里さんも歌、芝居の巧さが際立っていました。ル・シッフルの横暴さを堪える部下の顔と自分より下の者には鞭を揮って悪女ぶったりしたかと思うとコメディタッチで場面をすすめたり、いろんな顔を見せてさすがでした。

真風涼帆さんはいつもの真風涼帆さんとしてカッコよくて、潤花さんもいつもの潤花さんで華やかで、芹香斗亜さんはいつものチャーミングな悪役で。
役というよりキャリアを踏まえての男役、娘役としての魅力で見せる感じでした。
トップコンビのサヨナラ公演らしくてそれもいいか。それができるのがスターだもんね。(しかし新人公演の主演者にはハードル高そう)

「007」と思わなければ愉しくて、愛のある退団公演ともいえると思います。
舞台の上に出演者が大勢いる場面も多くて、2度目に2階から見た時は壮観で楽しかったです。パラシュートの場面も近く感じるし!
初見では舞台が近かったせいか楽しみ方がわからなかったのかもしれません。せっかく舞台上にいるのに「あなたナニ人?」な人も多くて、そういうところ1人1人が役のバックグラウンドを見せてくれたら退屈せず面白く見られそうです。

そしてなんだかんだと言いながら、真風さんと潤花さんがパラシュートで寄り添いながら歌う場面や、デュエットダンスには涙目になってしまいました。
この愛おしい時間にも限りがあるのだなぁと。
ムラではもう見れないので来月東京公演で1回のみ見納めしてきます。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2023/04/10

愛にすべてを。

3月29日にシアタードラマシティにて宝塚歌劇星組公演「Le Rouge et le Noir ~赤と黒~」をマチソワしてきました。
ドラマシティでの前楽と千穐楽でした。

前日に上階の梅田芸術劇場メインホールで宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を観劇してからのこのフレンチロックオペラ「赤と黒」の観劇は宝塚歌劇の懐の深さを再確認するこのうえない体験となりました。

柴田先生&寺田先生による歌劇と岡田先生&吉﨑先生によるロマンチックレヴューという20世紀の伝統芸能とも呼ぶべき宝塚と、21世紀のまさに今2020年代の進化する宝塚の両方の公演を同じ建物内の上と下で、同じ星組公演で見られたことに興奮しました。

およそ半年前に次の星組の別箱公演が礼真琴さん主演でフレンチロックミュージカルの初演目と知り、これは絶対に見に行きたいと思いました。
2019年のプレお披露目公演「ロックオペラ モーツァルト」、2020年の「ロミオとジュリエット」と礼さんにかかるとフレンチミュージカルのナンバーはとてつもなく輝くということを経験していましたから。
いつか礼さんロナンで「1789」を見てみたいとずっと思っていて、それも次回の大劇場公演で叶うことになったのですが、その前にシアター・ドラマシティで別のフレンチロックミュージカルが見られるなんてと期待が高まりました。

今回は実際の観劇に先立ちライブ配信を見る機会があったのですが、コスパ良くまとめられた脚本でストーリー展開自体ににドキドキ感があるタイプの作品ではなかったため集中して見ることができませんでした。
いちばんの敗因は家族に遠慮して音量を控えていたためだと思うのです。
これは劇場で生の音楽を浴びなくてはと意気込んで劇場に足を運んだのですが、想像を超えるものを体感できました。

ロックコンサートのような音響にぴたりとハマるヴォーカルと巧みな歌唱。このグルーヴ。
そうそうそう。これこれこれ。
これを聴きたかったんだと思いました。
レナーテ夫人とのデュエットの時のリズムの刻み方など最高でした。

レナーテ夫人役の有沙瞳さん、マチルド役の詩ちづるさんも素晴らしかったです。
小説「赤と黒」を読んだのはかなり若い頃だったので、レナーテ夫人に同情はしたけれどマチルドのわがまま娘ぶりには反感を持っていたのだったなぁ。
いまだったら絶対に好きになっていたなぁ。などと思い詩ちづるさんのマチルドから目が離せませんでした。

ストーリー的にはジュリアンの家族や神学校のくだりが割愛されているので、彼の孤独や心の屈折、社会への復讐にもちかい野望などは見えなくなっていて、私のイメージしていたジュリアンとは印象が違うかなと思いました。
この作品で礼さんが演じるジュリアンは内省的で純粋な面が強く出ていました。
赤と黒の意味も、よく言われる勇者(レポレオン)/名誉の赤、聖職者/野心の黒ではなく、彼の内面を象徴するもののようでした。

礼さんは柴田侑宏先生がスタンダールの「赤と黒」を翻案してつくられた「アルジェの男」という作品でも主人公のジュリアンという貧しく荒れた生き方からその才を有力者に引き立てられ野望を抱いて階級社会を駆け上がっていく青年を演じていましたが、この「アルジェの男」の主人公が野心のためには躊躇なく女性の心を利用していたのに対し、今回のジュリアンはレナーテ夫人やマチルドの本心を疑い懊悩するところが新鮮でした。
人を信じられず女性に惹かれるも彼女たちを征服する(愛情の上で優位に立つ)ことで安堵しているところは、孤独な生い立ちを反映しているなぁと思いました。

1曲1曲が長尺のフレンチロックのミュージカルナンバーをクールにエネルギッシュに聴かせるという大仕事をやりながら、ナンバーに尺を取られた分紙芝居のように次々に変わっていく場面と場面を表情や身体表現といった非言語で表現し繋いでいく礼さんの凄さ。
とくに「間」、絶妙な呼吸とセンス、それらを自在にコントロールできる身体能力の高さによって表現される歌、ダンス、芝居に浸る至福を味わいました。
この礼さんに食らいついている星組生も凄い。

物語の終わりにジェロニモがジュリアンの生き様をどう思うかと観客に問いますが、前日に「バレンシアの熱い花」を見ているだけに、それを階級社会と秩序に結び付けて考えずにいられませんでした。

「バレンシアの熱い花」の主人公フェルナンドが終始、階級社会に疑問を抱かず生きているのに対して、ジュリアンは階級社会に生きる人々の欺瞞と腐敗を嫌悪し軽蔑している。それは持たざる者として生まれて異分子として上流社会に生きているからこその視点だと思います。
上流社会の欺瞞と空虚さに辟易とし不満を言い募る令嬢マチルドと共鳴しながらも最終的に彼女ではなかったのは、決定的に相容れないなにかがあったからではと思います。彼を救うためとはいえ目的のためにはお金に糸目をつけない彼女のやり方に遣る瀬無さそうな目をしたジュリアンが印象に残ります。
彼女がジュリアンの無罪を勝ち取ろうとするのは彼女自身の名誉のためでもある。マチルド・ド・ラ・モールの名に懸けてと。それ自体は悪いことではないけれど、ジュリアンを満たすものではなかったということなんだろうなぁ。
すべてを持っていたゆえに欠け落ちたピースを埋めるために行動した者と、持たざるがゆえにすべてを求めた者。

なにも持たないからすべてを手に入れようとした。
地位もお金も名誉も持っていなかったものすべてがその手の中に入る直前に、自分が本当に望んでいたものはレナーテ夫人の愛だったと悟るジュリアン。
彼のために駆け落ちも厭わず彼の無罪を勝ち取るために奔走するマチルドの愛とそれはどうちがうのか、それがわかればジュリアンが欲していたものの正体がわかるのだろうなと思います。

「なんという目で僕を見るんだ」と懊悩するジュリアンが見ていたレナーテ夫人の瞳とはどんなものだったのだろう。そこに答えがある気がしてなりません。
小さきものを見る憐憫か慈愛か、ジュリアンのコンプレックスを大いに刺激しつつも悩ませた目。
彼が望んだ「すべて」とは。自分を愛する者の瞳に映る自分なのかなと。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2023/04/02

この復讐を遂げるまでは私には安らぎはない。

3月28日に梅田芸術劇場メインホールにて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。

専科の凪七瑠海さんが主演、相手役に星組トップ娘役の舞空瞳さん、そして星組選抜メンバーという全国ツアー公演には稀な座組による公演でした。
主演が専科の方であるせいか、ベタベタしていない感じが私には好印象でした。
ロマンティックだけれどもノンセクシャルな雰囲気はオールド宝塚のイメージに通じて。

「バレンシアの熱い花」は2007年の大和悠河さんのトップお披露目公演の演目で、大劇場の初日からつづく全国ツアー公演の千秋楽まで約6か月繰り返し観劇した懐かしい作品です。
あのラストをどう受け取るのが正解なのか、6か月間考え続け、公演が終わっても折に触れ考えていたけれど正解をみつけられないまま、そもそもなぜトップお披露目公演であの演目だったのだろうという思案の迷宮にはまり、その思いを胸にずっと埋めていた作品でした。
 
今回凪七さん(宙組下級生時代の懐かしい呼び方をさせていただくと)かちゃ主演の「バレンシアの熱い花」を観劇して私の中のなにかが成仏した気がしました。

かつてあれほどひっかかっていた箇所が気にならずに見終えたことに自分でもびっくりでした。
観劇直後は黒岩涙香の翻案小説を読んだような感覚に近いかなぁと思いました。西洋の物語の体をしているけれど精神と教養は古の日本人だよねと。

恋しい人の瞳に宿るものを「さらさら落ちる月影に映えてあえかに光る紫のしずく」と表現したりだとか「後朝の薄あかりに甘やかな吐息をもらす恋の花」だとか。後朝なんて平安王朝文学くらいでしか出遭わない言葉にスペインで遭遇するとは。
いやいやスペインであってスペインじゃない。時代も国も架空の、古の日本の中のスペインなんだなぁと思いました。

仇討ちを心に誓い敵も味方も欺いてうつけ者を装い悪所通いをする主人公って大石内蔵助みたいだなぁとも。
男の本懐を理解して身を退く下層階級の女性、主人公を待ち続ける心優しく清らかな許嫁、二夫にまみえずの貞女、道理のわかった御寮人、時代劇なんだなぁこれは。

身分の違いを超えて結ばれることなどありえないし、愛しい人への操を守れなかった女性は生き恥を晒してはいけない、まして何もなかったように彼と添うことはできない、そんなことを微塵も疑わず信じている人びとの物語として今回は見ていました。

かちゃをはじめ星組の皆さんが時代がかった巧芝居を見せてくれていたので、そういう世界観なのだという前提で見ることができたのではと思います。
その世界観の中での登場人物それぞれの行動に整合性を感じましたし、そんなままならない状況で傷つき懸命に生きている彼らの気持ちに沿って見ることができたのではないかなと思います。

そしてあらためて考えてみてこの作品は貴族の若様の成長譚なんだなぁと思いました。
若様が「一人前の男」になるための試練を克服するお話。
試練の1つは父親の精神支配から脱すること、2つ目には色恋を経験すること。
2つのミッションをクリアして戻ってきた彼は「男」として認められ、彼を待ち続けた許嫁と祝福のもと結ばれて二度と降ろすことのできない責任を背負って人生の次のステージへと進む。
――という封建社会での成長譚なのだと思います。

封建社会の中で如何に誠実に生きるか。その中で如何にすれば幸せでいられるか。
柴田作品で描かれるのはつねに封建社会の人間ドラマなんだと思います。

封建社会を描いた物語を見ているのだという視点が欠落してしまうと柴田作品は首をかしげてしまうことになるのだろうと思います。
身分を超えること、男女の立場を踏み越えること、すなわち秩序を乱すことが封建社会においてなによりも罪だということ。そこにドラマが生まれているのだということ。
その前提を踏まえて見る必要があったのだと思いました。
そして半世紀前の初演当時よりもその前提を丁寧に表現しないと現代人の感覚では戸惑いの多い作品だと思います。

記憶にある限り柴田作品には根っからの悪女は登場しなくて、むしろ身分社会の中では悪女だと思われる女性の健気さが描かれることが多い気がします。
そこが柴田先生の優しさかなと思います。
けれどどんなにその女性が健気で心映えがよかろうと決して身分を超えて結ばれることはないのです。その先に幸せが見出せないのが柴田先生の思想なのかなとも思います。
唯一主人公とヒロインが身分を超えて結ばれたのは「黒い瞳」かなぁ。あれは女帝エカチェリーナ2世のお墨付きを得るという前代未聞の大技をヒロインがやってのけたからなぁ。
(男女の身分が逆で女性が身分を捨てて結ばれるパターンだと、主人公ではないけれど「悲しみのコルドバ」のメリッサとビセントの例があったのを思い出しました)

どうしても身分の差は越えられない社会に生きている人々なのだということは理解できるのですが、フェルナンドがイサベラに愛を告げる時に許嫁のことを打ち明けるのはどういう了見から来ているのでしょうか。
許嫁を悲しませることはできない(=目的を果たしたら許嫁と結婚する)が、君への思いに偽りはないと言うのは。
自分たちの階級の優位を示して彼女との身分を峻別しているように聞こえるけれど、そういうことなのでしょうか。
許嫁は清らかな心優しい少女だが、君はそうではない。許嫁を悲しませることはできないが、君のことはそう思わない。
君のことは一時の情婦にしかできないが、本気で愛していると。(イサベラの身分なら喜ばしいことのはずだと思っている若様の思考?)
どういう意図をもって言っているのと思ってしまうけれど、つまりそれが身分制度というものなのかと。

ロドリーゴの「私のシルヴィアが死んだ」をうけてのフェルナンドの「私のイサベラも死んだ」は、もうこれ以後は二度と彼女にまみえることはないということを自分に言い聞かせているように聞こえました。
ロドリーゴには聞こえていないのですよね。
フェルナンドとイサベラ、それぞれがそれぞれの居るべき世界に戻り、その2つの場所は此岸と彼岸くらいに隔たりがあるということなのかなと思うのですが、イサベラと同じ身分のラモンとはその後もなんらかのつきあいがありそうなのにと思うと(「また遊びに来てくれ、遠慮するな」とロドリーゴの言葉)釈然としない気持ちも残ります。
男同士の身分の差よりも、男と女の立場の隔たりの方が越えられない世界観なのだなとも思います。

領主に貴族にその部下や使用人、下町のバルに集う人々、軍人に義賊に泥棒さんまで様々な属性のキャラクターが登場し、貴族社会と下町を対比させ、貴族の邸宅やバルや市街のお祭りの場面を配して宝塚歌劇のリソースを最大限に活かす工夫が施された秀作だと思います。
けれど、また喜んで見たい演目ではないなと思います。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2023/03/19

いまのおぬしとたたかうために。

3月18日に博多座にて「巌流島」を見てきました。

理屈っぽいチャンバラという印象でした。
武蔵と小次郎を戦わせるために設定を考え理屈を考えましたというかんじ。
最初から最後までボーイズクラブの理屈だなと。

社会性がなくこだわりの強い人物が主人公という昭和の任侠もののようなテイストで。
親も子も妻も存在せず自分の好きなことだけに打ち込むことができる世界。ある種の理想なのかな。
友か敵かの関係性。ホモソーシャル全開。男の絆バンザイの世界観。
ナルシシズムと自己満足。
そういったものが描かれていると思いました。

キャストのなかで唯一女性の凰稀かなめさんが2役で女性の役を演じていましたが、男たちの思想を肯定するために存在する役でがっかりしました。

セリフと殺陣で劇場空間を支配する横浜流星さんをはじめとする役者さんたちの能力は凄まじいなと思いましたが、それから舞台セットの代わりの映像も面白く全国のいろんなホールを回るのにこれはいいなぁと思いましたが、脚本的にはあまり語りたい舞台ではありませんでした。


<CAST>  (2023/03/20更新)

横浜流星(宮本武蔵)  侍らわぬ者。自己問答に周囲を巻き込む華が見事。リアル武芸者でした。
中村隼人(佐々木小次郎)侍らう者になろうとしてならない道を選んだ人。口跡とイントネーションが歌舞伎の人だなと思いました。スローモーションの殺陣が美しかったです。
猪野広樹(辰蔵) 自らの主を自らで選ぶ人。
荒井敦史(甲子松) どこにいても己が生きるべきスキマをみつける目敏さのある人。
田村心(伊都也) 己の良心に従う人。愛されて育った人なんだろうと思いました。
岐洲匠(英卯之助) 最終的に侍らうことに己の生き方を定めた人。つねに自分の美学を探している人のようでした。
押田岳(捨吉) 愛すべき可愛い人でした。ヒロイン的存在。
宇野結也(水澤伊兵衛) 静かな人かと思ったら実は怖い人でした。
俊藤光利(秋山玄斎/和尚) 俗で荒々しい野武士と仏に仕える和尚の物腰、同じ人とは気づきませんでした。
横山一敏(弥太右衛門/柳生宗矩) 宗矩の言葉に肯けました。
山口馬木也(藤井監物) 大変な食わせ者でした。
凰稀かなめ(おちさ/おくに) 人としての描かれ方がなおざりな気がしました。もっと葛藤を見たかったです。
才川コージ(望月甚太夫/大瀬戸隼人) 凄い跳躍を見た気がします。
武本悠佑(辻風一之進/細川忠利) きれいなお顔に思わず二度見してしまいました。

上川隆也  語り

| | コメント (0)

2023/03/15

よか夢見んしゃい (and all you've got to do is dream)

3月14日に博多座にてミュージカル「DREAMGIRLS」を見てきました。

とにかく聴かせる作品、ハイレベルの歌唱力をもったパフォーマーたちによるパワフルでソウルフルな舞台でした。冒頭からセリフの一声の張りも凄くて思わず笑ってしまい期待が高まりました。
チアフルなステージナンバーからバックステージの言い争いの歌へと自然に、迫力の歌声はそのままで繋がっていくところなど凄かったです。
劇中ナンバーでは「Steppin' To The Bad Side」のノリが好きでした。

ストーリー的にはエピソード不足かなと思いました。それを補うためにか言葉攻めみたいになっている箇所がいくつかあったのが可笑しかったです。
ジミーがドラッグをやっていたというのも告白で初めて知ったし。
エフィの体調不良の理由も見終わってからあれってそうだったの?と。
ディーナがエフィに電話しようとしていたのも知らなかったよーだったし。だからラストでどんな気持ちでエフィと向かい合っているのかドキドキしました。
デビュー前からのメンバー3人の繋がりとか、エフィがディーナと仲違いする理由とか、和解に至るところとかの脚本的書き込みがもっとあると感動的なんだろうなと思うけど、ミュージカルナンバーの披露に重きを置いているので仕方がないのかな。
1幕終演後にお隣の方が涙を流していらして、曰く映画を見ているのでエフィの気持ちを思うと涙が出てしまったとのことでした。

最初のオーディションの時からエフィの歌声がR&Bに向いているパワフルで深みのある声なのがわかって、彼女がセンターなのも彼女がイニシアティブをとるのも(みんなが彼女の顔色をうかがうのも)理解できました。
そういうところからも、セリフよりパフォーマンスで客席を納得させる方向なのかなと。

グループのデビューにあたってカーティスがディーナをセンターにすると決めたという流れの時は、大丈夫かな?と思ったのですが、それまで地味に見えていたディーナなのに、センターで歌うとさすがの真ん中力だったのでたしかにセンターに立つべき人だったよねとそれも納得。
歌うときのふとしたキメとかちょっと腕を動かすだけでも華がありましたし、撮影シーンのスター仕草もさすがでした。個人的には背中の開いたドレスのバックスタイルがたいそう素敵で好きでした。
雰囲気もうちょっとセクシーでもいいのかなぁと思うけれど、ちょっとでも過剰になるとちがうキャラになりそうで作品にも影響してしまうから難しいのかな。

さらに万事控えめで和やかなローレルが唯一感情的に歌うソロナンバーも見せ場でした。
感情を表す声色も自由自在で、彼女が決して数合わせの3人目ではないということがわかる大切な場面だと思いました。

ドリームズのメンバーはもちろん、これだけの実力のあるメンバーが揃ってポップでソウルフルなナンバーを聴かせてくれる贅沢な時間だったなと思います。

物語の舞台は1960年代~70年代のアメリカ。
アフリカ系アメリカ人による音楽はR&Bチャートで上位に入っても全米ヒットチャートには入らない時代。
でもその曲が白人アーティストにカバーされると全米でヒットするなんてザラ。
それが悔しいカーティスは自分たちが作り自分たちが歌ったナンバーが全米チャートに入ることを夢見てディーナたちのガールズ・グループ「ドリームズ」をプロデュースする。
彼よりも前の世代の音楽マネージャーのマーティはそんなことは無理だ、長くやっていればわかるはずだと首を縦に振らない。それくらい根深く骨身に染みていることなんだとわかります。

もちろんいままで通りのやり方では無理で、相手が自分たちの音楽をパクるならその上をいってやるとばかりにあらゆる音楽番組のDJたちに自分たちの曲を流すように促す。
それって買収してるってことですよね。
そもそもディーナたちがオーディションに遅れた時も、ジミーのバックコーラスに着ける時も、カーティスが懐からチップを取り出して意を通していたから、そういうことをやる人なのはわかります。
でもどこまでがOKでどこからがNGなんだろう。やりすぎなかった者が生き残るってことなのかな。

そもそも売れるも売れないもプロデューサー次第ってことか。
運よくやり手のプロデューサーと巡り合えるかがすべての分け目なんだなぁ。
彼女たちはそれにうまく乗せられただけになってない?
意に沿わない者は爪弾きにすればそれでいいの?(不必要にエフィをわからず屋に描いていない?)

子どもっぽさ未熟さを売りにする本邦のアイドル商法にもげんなりするけど、見かけは大人っぽくても中身はまだ未熟な10代の女性に「キミは大人だ」と自己決定権を与えたふりをして大人の意のままに動かすやり方もどうなの?と思いました。(「うたかたの恋」をまだ引き摺ってる)
彼女たちが心に傷を負うのは彼女たちのせい?
舞台は無理やりにでもハッピーエンドにしちゃうけど。
私はこのビジネスのシステムに納得がいかないなぁと思いました。(今の話じゃないのはわかってるんだけど)
成功例の裏には星の数ほどのハッピーで終われない結末もあるのじゃないのと。

エンターテイナーが守られていないと彼らのパフォーマンスを心から愉しむのは難しいと、エンタメを愛する側としてバックヤードものを見るたびに思う昨今です。

さて、この日のカーテンコールで挨拶をする望海風斗さんが、「それでは皆さん――」と切り出し間をおいて「さようなら」で締めたので両側にいるキャストの皆さんがずっこけて、口々に望海さんになにやら。
そこにいる誰もが別の言葉が続くと思っていたので。
望海さん的には、「それでは皆さん」と言ってしまったら後に続く言葉は「さようなら」しかないのではないかと釈明されていましたが、キャストの皆さん的にはほら「ドリームガールズ」らしいやつとか博多らしいやつとかあるでしょうってかんじかな。こそこそとアドバイスされているのですが明確に望海さんに伝わらないみたい。
痺れを切らした?駒田一さんが客席に向かって「皆さんは耳を塞いでいてください」で舞台上で打ち合わせて(見え見えのバレバレですが)、皆さんで「よか夢見んしゃーい!」で幕となりました。

上質で心励まれるひとときをありがとうございました。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2023/03/07

ハプスブルクを頼む。

3月1日に東京宝塚劇場にて花組公演「うたかたの恋」と「ENCHANTEMENT-華麗なる香水(パルファン)」を見てきました。

「うたかたの恋」は小柳奈穂子先生による新演出がとても良いと聞いて楽しみにしていました。
書き加えられた部分によってそれまでふんわりしていた時代背景や状況が顕らかになり、私は夢物語を見る目線ではなく、史劇を見るようなシビアな目線で見ていたようです。
結果としてマイヤーリンク事件の後味の悪さを噛みしめることになりました。

現実との折り合いが悪い大人が、自分は世の中の誰ともちがうと夢想しがちな年ごろの年少者の夢を喰らって利用している様が浮き彫りになったように感じました。
ことに酒場で自暴自棄のルドルフが罪のないマリーを責める様子が、モラ男の典型を見るようで心理的アラートが誘発されたようです。
思い通りにいかないことに腹を立てている甘えたオトナと、見たことのない大人の弱さを直にぶつけられてそれを愛しいと感じ彼を支えられるのは自分しかいないと思い込んでしまった少女の図にぞっとしてしまったのです
(あなたしかいないのではなくて、みんなが手を退いてしまった男なのよ、その男は)

この甘えたでダメな感じが真実に近いルドルフなんだろうなとも思います。
それに対してマリーも現実的な人物に描かれていたなら別の受け取り方ができたのかもしれないのですが、旧時代の夢を一身に背負ったようなマリーだったので、ルドルフ役の柚香光さんが心の機微を繊細に演じるほど、マリー役の星風まどかさんが宝塚ファンが求めるマリー像に近づけるほどいたたまれなさを感じました
その立場、その美貌で夢見るマリーを有頂天にさせたあげくに死出の道連れにする正当性をどうやっても見出せなくて。

従来の「うたかたの恋」を見るとき、私は頭で主人公がおかれた状況や心情を補完しながら見ていたと思います。そうするのは、すでに初演の頃とは見ているこちら側の感覚や価値観が変わっていたからだと思います。
聡明で孤独な皇太子とけなげな少女の悲恋にロマンを感じ、頑迷な父帝や権力に固執する政敵を憎み、母后や伯爵夫人の機知に富んだ会話や人間味あふれる従僕たちのやりとりに人の世の機微を感じてひとときの夢を味わう作品だったのかな、もともとは。
でもいつしか見る側も努力をしないと楽しめなくなっていました。

時代が進み自分も年齢を重ねたことで、責任ある立場の大人がうら若い女性と情死を選ぶには納得がいく理由がないと受け容れ難くなり。
また同時代を描いた新しい作品での同名のキャラクターの描かれ方に触れることで、父帝がただの頑迷ではなかったのではと考えたり。
機知に富んで見える伯爵夫人のセリフも宮廷の薄暗いところで権力者を相手に女衒のようなことして生き抜く女性ゆえのわきまえた仕草なのだと知るようになると、あの狂言回しが「キッチュ!(まがいものだ!)」とせせら笑ったおとぎ話を無垢な気持ちで見ることは適わなくなってきたのだと思います。

そういうわけで、今回の新演出に期待を抱いて観劇したのですが、こもごも雑念が膨らみ純粋な目線で見ることができなかったのかなぁと思います。
柴田先生が脚本を書かれた時代の価値観や史観が支配する場面、新しく書かれた現在の価値観や史観による場面がパッチワークのように交錯し視点を定めることができないまま見終わってしまった感じです。
さらに同作映画にこんな場面があったなぁと思うとその映画の世界観に私の意識も一瞬飛んだりもして。
物語に浸るより、考察しながら見てしまいました。

「おとぎ話フィルター」が外れてしまったために、いままで気にしないようにしていた部分に気を取られたのもあります。
そもそもなぜジャンはヨハンじゃないのかなぁとか。
クロード・アネの原作がフランス語で書かれたもので名前もフランス式になっていたと思うので、柴田先生もそれに由ったのかなと思いプログラムを見ると、フランツ・フェルディナント大公も「フランソワ・フェルディナンド大公」になっていました。(だから恋人もゾフィーじゃなくてソフィーなのか)
名前の表記は原作にならってフランス名で統一しているのでしょうか。
それで今回の新キャラであるマリーの兄の名前もジョルジュなのかな。観劇時なぜゲオルクじゃないんだろうと疑問に思っていました。(母親がギリシャ系でマルセイユ生まれらしいけど←観劇後に調べてみました)

かと思うと、従来は「ヨゼフ皇帝」と表記されていたフランツ・ヨーゼフが新演出では「フランツ」(ファーストネームのみ)になっていて、これも不思議に思います。
舞台を見るのにどうでもいいことなのかもしれませんが、意味なくそうされている訳ではないと思うのです。その理由がわかれば喉の痞えも取れるのではないかといろいろ考えてしまいます。

こたびの新演出ではフェルディナント大公の恋人ゾフィー・ホテクも新キャラとして登場し、フェルディナント大公が彼女を「召使い」と紹介したのでそれにも、え?となりましたが(実際には彼女はフリードリヒ大公妃の女官をしていたボヘミアの伯爵令嬢だったのだけど)、これは貴賤婚をわかりやすくするために平民に改変したのかなと思いました。
この時代、ルドルフ皇太子を筆頭にハプスブルク家には大勢の大公殿下がいたそうですが、貴賤婚を選ぶ大公が次々増えていくのですよね。
彼らは家憲により王族以外との結婚が許されなかった(貴族もNG)けれど、それでは当時50名以上いたといわれるハプスブルク家の大公たちは結婚のチャンスを逃してしまうし、貴賤婚のたびに皇籍から除籍していては後継者の選定が難航していくのは顕らか。
フェルディナンド大公やジャン・サルヴァドル大公が自由恋愛で伴侶を選ぼうとしているのも時代の必然だなと思います。そんな彼らをルドルフが眩しく羨ましく思うのも肯けました。
これもまたハプスブルク帝国の崩壊を予感させるエピソードだなと思いました。

新演出でとくに好きだったところは、冒頭のプリンスたちのウィンナワルツです。
「うたかたの恋」というとプロローグでルドルフとマリーが歌う深紅の大階段、そしてそれに続く貴公子たちのウィンナワルツが最大の見どころですが、今回はそのウィンナワルツがさらに見応えのある見せ場になっていました。どのプリンスも麗しく、どのプリンスもダンスに長けていて、1人ひとりを眺めてうっとりしたいのに・・やがてこの場面が終わってしまうのを惜しまずにいられませんでした。

シュラット夫人がオフィーリアのアリアを歌う場面もよかったです。フランスオペラ「ハムレット」の音楽はこの作品の世界観にぴったりでした。(その衣装からして彼女は歌唱披露しただけでオフィーリアを演じたわけではないんですよね?)
バレエの場面も素敵でした。美しいものを見ることには価値があるのだとしみじみと感じました。
ザッシェル料理店にはこれまでもおなじみのロシアの歌手マリンカ、プラーター公園のタバーンには新キャラのミッツィと、歌姫に活躍の場があるのもいいなぁと思いました。
ミッツィってあのミッツィ?(ミッツィ・カスパル)と思うと、ルドルフの別の顔を思い起こしてしまい複雑な気持ちになってしまったのも否めませんが。

ルドルフを追い詰める包囲網がわかりやすく描かれたことで、柴田作品独特の「語らない中に語られているもの」が見えなくなってしまった気もします。
なにげないやりとりに込められた意味に気づいた時の面白さが柴田作品の真骨頂だったなぁと。
けれどいまの時代に「語らない中に語る」というようなことをすると、思いもよらない受け取り方をされたりもするので難しい。そういうことが通用しない時代になったんだなぁと思います。

それから柴田作品は、女性は分別をわきまえてどんなときでも微笑みを絶やさずけなげに振る舞いなさいのメッセージも強くて、いまこの時代にそのまま見せられると鼻白んでしまうのも確かです。当時はそのほうが幸せを掴めるという女性たちへの愛を込めたメッセージだったのかもしれませんが。(「バレンシアの熱い花」はどうなるのかいまから心配・・)

思えば、これほど宝塚の今と昔に思いを馳せられる作品もないなぁと思います。
そしてこれからの宝塚は、と思いを遣らずにいられません。


野口先生のショー「ENCHANTEMENT-華麗なる香水(パルファン)」は宝塚を見たぞという満足感に浸れる作品でした。
コスチュームが豪華な舞台は多々あれど、必然性などおかまいなしに次から次へと豪華なコスチュームを着替えて見せることができるのは宝塚しかないのではと思います。まさにそんなショーでした。

私がいちばん心に残ったのは、パリのベル・エポックの場面、盆の上を回る美男美女たちかなぁ。
聖乃あすかさんが凄まじいほどの美女でびっくりしました。
早くもここが私的クライマックス!と思ったところでしたが、次のNYの場面での柚香光さん登場で心が舞い踊りました。
やはり小粋に踊ってこそ花男。
中国の場面は艶やかで、ミュージカルナンバーの場面は洒脱で目にも麗しく軽快な黒燕尾も愉しくて、そしてデュエットダンスにうっとり。(影ソロもよかったです)
芳しいひとときはあっという間に終わってしまいました。

» 続きを読む

| | コメント (0)

2023/02/15

それでも私は命ゆだねる私だけに。

1月26日と30日に博多座にてミュージカル「エリザベート」を見てきました。
初日の数日後に観劇したときに感じた音響効果の違和感も気にならなくなり、千穐楽に向けての凄まじいくらいの熱と構築力に圧倒されました。
さらに1月30日ソワレの前楽と31日大千穐楽はライブ配信で見ることができました。

【26日マチネ】
  愛希シシィ古川トート田代フランツ甲斐ルドルフ涼風ゾフィー黒羽ルキーニ
【30日マチネ】
  花總シシィ井上トート田代フランツ立石ルドルフ涼風ゾフィー黒羽ルキーニ
【30日ソワレ】(配信)
  愛希シシィ井上トート佐藤フランツ立石ルドルフ涼風ゾフィー上山ルキーニ
【31日千穐楽】(配信)
  花總シシィ古川トート田代フランツ甲斐ルドルフ剣ゾフィー黒羽ルキーニ

生で見られなかった剣幸さんのゾフィーと上山竜治さんのルキーニも配信で見ることができました

コロナ禍で拡大、定着した文化ですがありがたいことです。

思い起こしてあらためて今回2022年版「エリザベート」はこれまでとはオケの感じが違っていたなと思います。
間とか余韻とかがあまりなくてサクサクと進んでいく印象。ロジカルでわかりやすい「エリザベート」でした。
これも時代の流れなのかな。

私はちょっとしたスキマの表情とか体の動きなど非言語的なところを楽しみたいので置いていかれそうになり、初見では戸惑っていたように思います。
大ナンバー後の拍手があるところはまだ呼吸の間があるのだけど、それ以外のところで息をつき終わる前に次にいってしまう忙しい感覚がありました。

特に井上トートの時は、ナンバーの中に歌のテクニックがてんこ盛りで体感時間があっという間でした。
ルドルフもあっさり死んでいたなぁと思いますし。
全体を通してこれまでに比べて若い「エリザベート」だったなぁと思います。

サクサクとわかりやすくロジカルになったことでいろいろと考えさせられること、気づかされることもありました。
まさに19世紀から20世紀へ時代が変換するときの軋轢を描いた作品なんだなぁということ。
あの時代の中央ヨーロッパで熾った火種が21世紀のいまも燻っているんだなぁフランツ・ヨーゼフの心労はいかばかりだったろうとか、プロイセンに対抗するためにゾフィーはバイエルン王家に連なる姪との縁組を画策したのだろうになぁとか、帝国主義(父)と自由主義思想(母)の狭間で苦悩しどちらからも見捨てられる皇太子ルドルフの心中とか。(味方と思っている人たちからも駒としか見られていない彼の現実を思うとなおのことつらい)

そして「生きる」ということは「死」に抗い続けるってことなんだなぁと。あらためて思いました。
個人を極めるってことはその「死」を常に意識するってことなんだなぁとも。
意識しているかしないかのちがいだけで、「死」はすぐ隣に佇んでいるものなんだなぁとも。こんな時代だからこそ強く感じた気がします。
(「死」に抗えないいのちがいかにたやすく消えてしまうかと思いを馳せて)

愛希れいかさんのシシィはナチュラルな人物造形が好きでした。
少女時代、
15歳のというちょっと難しいお年頃な感じも、一度自分を全否定された人が自尊心を取り戻し有頂天で慢心してる姿も愛おしい。
その慢心もひとときのものだと思うと抱きしめたくなるようなシシィでした。
「愛と死の輪舞」や「最後のダンス」ではトートやトートダンサーズとの重力がないかのような緩やかな、本当に糸で操られているかのようなモーションに釘付けになりました。(まさに「人形のように踊らされた私」ー)
腰かけようとしてルキーニに悪戯で椅子を引かれてしまう場面のあの姿勢から優雅に戻れるのも驚異的で大好きな瞬間でした。
一瞬たりとも目を離したくないシシィでしたが、ほかの方も見たいのでそれはとうぜん無理で。これはディスクを購入するしかないのか?と思案中です。

花總まりさんは永遠に宝塚らしいお姫様なんだなぁと思いました。
とてもわかりやすいお芝居と神々しさ。体が自由自在に少女から凛とした大人へそして老年期へと大きくも小さくも見える。
1幕ラストの振り返ったドレス姿は圧巻で。知っていたけど記憶をはるかに超えてそこに存在していました。
配信で見た大千穐楽、2幕は空間そのものが神がかっているように感じられました。万感の思いを込めた「私が踊る時」、モニター越しに見ている私もなぜか目に涙が溢れてきました。言葉では表せないなにかが伝わってくるのを感じました。
死(トート)が1人の人間に魅入られて予測不能に陥ってしまうことって本当にあるんだと。それを実感するシシィでした。
この素晴らしい役者が演じる素晴らしい役を見納めすることができて本当に幸せです。この記憶は永遠にとどめておきたいです。

古川雄大さんはこんな「死」が傍らにいたら思わず引き込まれてしまうなぁと思うトート閣下でした。怖いけれど魅惑的。正直に言うとシシィが羨ましいです。
古川トートと愛希シシィの「愛と死の輪舞」は夢見ていたそのもののような「愛と死の輪舞」でした。
「最後のダンス」はロックスターのようで心躍りました。
千穐楽の配信でどのシーンか忘れましたが凄いジャンプを決めているのを見て思わず変な声が出てしまいました。幻を見たのかと。
全編を通じて動機はシシィへの愛、そしてシシィとの同化なんじゃないかなと感じさせるトート閣下だなと思いました。

井上芳雄さんのトートは、プリミティブな思考がかたちを成したモノのようでした。
シシィを見て興味をもった瞬間が鮮やかにわかりましたが、アプローチ間違ってるよ~💦と思う、相手を怖がらせているのに、反応されるのがただただ嬉しいみたいな。コミュニケーションというものを知らない無知でイノセントな子供みたいなトート閣下でした。
前楽の配信では愛希シシィに全力で嫌がられているのがツボにはまってしまいました。
「死」という忌み嫌われるもの、しかしいつしか人が受け入れざるを得ないもの体現しているような。
シシィを追い詰めて追い詰めて、自分の腕の中でシシィの命が消える瞬間に愛というものを悟るみたいなちょっと悲しさを感じさせるトート閣下だったように思います。

ルドルフはお2人とも「エリザベート」で初めて見る役者さんでした。
立石俊樹さんのルドルフ
は夢見がちで高い理想にたどり着けなかった結果、現実に見切りをつけて、理想と心中するルドルフだなぁと思いました。
初見の古川トートとの時は、最後まで夢を見せてくれるトートに自分をゆだねて死出を選んだように見えました。その陶酔感が「うたかたの恋」のルドルフに近いなぁと。
チケット購入時はシシィとトートの組み合わせに頭がいっぱいでルドルフとの組み合わせを考えていなかったのですが、あとになって古川トートと立石ルドルフの組み合わせをもう1回見たかったなぁと思いました。
30日は井上トートとの組み合わせだったのですが、追い詰められ感が凄かったです。
「闇が広がる」でさんざん揺さぶりをかけられその気にさせられて、トートを信頼してからのあの失意はつらいなぁと思いました。

甲斐翔真さんのルドルフは、初見であの少年ルドルフがこんなに育って・・!と思ったのですが、次に見た時にはさらに大きく育っている印象でした。
鍛えた胸板から響く声が凄くて、井上トートとの「闇が広がる」はこんな元気な「闇広」は聞いたことがない!と新鮮でした。
古川トートとの組み合わせでは、死を寄せ付けない生命力を感じました。
そんな有望な皇太子がトートの画策により自由主義者たちの企てにまんまとはまっていくさまに、有能ゆえに正攻法しか知らない純粋さが徒となったのかなぁと。
そしてたとえ有能であっても時代の流れを押し返すことはできない厳しい現実を見せられたようでした。

ルキーニのお2人も「エリザベート」で初めて見る役者さんでした。
黒羽真璃央さんのキャスティングにはじめは驚きましたが、最初の観劇でお若いながら実力も備わっていて抜擢もなるほどなぁと思いました。
それから1週間を経ての観劇で、あれ?この間とは別のルキーニ?と見違えたほど濃い印象になっていてびっくりしました。表情、声色、仕草等々芝居の情報量が凄いことに。
コーラスの中での歌い方にもセンスを感じました。ルキーニにしては奇麗に歌いすぎるのかもと思わなくはないけれど好きだなぁと。
髭をつけてメイクを濃くして汚れた感じを出してもどこかスタイリッシュに見えるのも持ち味かな。
狂言回しのセンスがある人だなぁと、と同時に違う役でも見てみたいなと思いました。

上山竜治さんは配信でのみ見ることができたのですが、下卑たことろを強く出したルキーニで「偉そうなやつ」を憎んでいる生い立ちの納得感がありました。
作品全体を骨太に見せるルキーニで、黒羽さんとはまったくちがうこの個性もいいなぁと思いました。

若い時から貫禄のある佐藤隆紀さんのフランツ・ヨーゼフ。
年を重ねていくごとにどんどん立派な皇帝になっていき、他民族国家の国父として内政や外交問題に懸命に立ち向かっているのだろうなと思いました。
その歌声が真面目さと懐の深さを物語っているようでした。
そんな立派な人物でも家庭を治めることは難しいことなんだなぁとも。
家族の1人ひとりが強烈だものなぁ。とくに奥方と母上がだけど。
「夜のボート」もしみじみと聴き入りました。美しく歌声が重なるほどに悲しくなるなぁと。

田代万里生さんのフランツは歌ももちろん素晴らしいですが、芝居がとても好みでした。
若き皇帝時代の「却下!」が凄く好き。ちょっとした可笑しみを醸し出すところもお上手だなぁと。
シシィへの深い愛を感じさせるフランツ・ヨーゼフで、それが妻に届かないのが悲しくなりました。
ちがうのよ、エリザベートはそういう人ではないのよと。そういう彼女を愛してしまったがゆえの悲劇の皇帝だなぁと。むしろそういう彼女だから愛したのかなぁと思うとせつないです。

「宮廷でただ1人の男」という形容がピッタリの香寿たつきさんゾフィー。ブレのない信念と厳格さが際立っていました。
そうやって自分を律し威厳を保つことで息子を守り皇帝に育てあげた人なんだろうなぁ。
本当は息子や孫を溺愛したいけれど心を殺して厳しく接しようと努めているように見えた涼風真世さんのゾフィー。時折見せるお茶目さが好きでした。
息子からも愛され強い絆で結ばれて
いるという自信が支えの人のようだっただけに、息子から決別を言い渡された時のショックは計り知れず心が痛みました。
正しく間違いのない皇太后様に見えた剣幸さんのゾフィー。人生を懸けて守ってきた君主制、ハプスブルク帝国の崩壊、そして一族の非業の最期をその目で見ずにすんだことは幸せだったのかもと。
配信のみでしたが、感情的に芝居をしなくても伝わる威厳や悲しみが素晴らしいなぁと思いました。

原田慎一郎さんのマックス公爵はおしゃれで自由人で娘が憧れるパパだなぁと思いました。
そしてお声がとても良い。歌も抜群にお上手で素敵でした。コルフ島でのシシィとのナンバーが毎回楽しみでした。

未来優希さんのルドヴィカ、陽気で一生懸命に家族のために頑張っているお母さんという雰囲気でした。
美人で優秀で皇太后にまで上り詰めた姉との差を縮めようと頑張っている側面もあるのかなぁ。
家政に全く無関心な夫に困りながら対応しているのも、私の親世代の母親たち(高度成長期)とダブって滑稽味と痛々しさを感じて親近感を覚えました。
そして打って変わって発散するマダム・ヴォルフの迫力のある歌声は毎回聞いていて楽しかったです。

秋園美緒さんのリヒテンシュタイン公爵夫人は気品があって仕事ができて憧れです。あの皇太后とあの皇后のあいだで忠節を崩さず働けるなんて只者ではないです。
彼女が歌う「皇后の務め」大好きです。どこをとっても非の打ち所がない秋園リヒテンシュタイン様のファンです。
以前のプログラムには伯爵夫人と表記されていましたが、いつの間にか公爵夫人になっているんですね。
リヒテンシュタイン公妃が女官をするとも思えないし、おそらく女官長エステルハージ伯爵夫人(リヒテンシュタイン侯女マリア・ゾフィー・ヨーゼファ)のことかなぁと思うので、伯爵夫人が正しいのではと思います。(ちなみに現在の国名はリヒテンシュタイン公国だけどリヒテンシュタイン家は侯爵が正しいらしいです)
リヒテンシュタイン家にしてもエステルハージ家にしても名門には違いないので、高位の女性であることはまちがいないと思います。
生家にちなんで「リヒテンシュタイン」とこの作品では呼ばれているのかなと。

いつにもましてストーリーがクリアに見えたからが、役者さんたちがいくつもの役を演じられているのに気づいてそれも面白かったです。
貴族の夫人や令嬢だった人が娼婦を演じていたり、大司教様だった方がカフェで弾けていたり笑。
千穐楽にはそんな役者の方々にも愛着が湧いていました。
他の作品に出演されていたら注目したいと思いますし、また皆さんがこの「エリザベート」にそろっているのを見られたらいいなぁと心から思っています。

自分の年齢や境遇等々で見方や目線が変わっているのも面白くて、何度見ても飽きることがないのも凄いなぁと思います。できれば生涯見続けたい作品です。
次はいつ見ることができるでしょうか。

 

Img_8416

Img_8427

| | コメント (0)

2023/01/19

私を返して。

1月14日と17日に博多座にてミュージカル「エリザベート」を見てきました。

【14日(マチネ)】
  花總シシィ古川トート佐藤フランツ立石ルドルフ香寿ゾフィー黒羽ルキーニ
【17日(ソワレ)】
  花總シシィ井上トート田代フランツ甲斐ルドルフ香寿ゾフィー黒羽ルキーニ

直近だと2019年に帝劇で見ているのですが、今回のバージョンはすごくすっきりわかりやすく演出されているように感じました。
そのぶん、個人的に心地よかったノイズも消えてしまったような、なにか隙間が埋まりきっていない印象ももちました。
なんといえばいいのかわかりませんが、90年代的なもの、ベルリンの壁崩壊後のヨーロッパ的なものが感じられなくなった感。
脚本もわかりやすくなっていた印象で、この作品に限らず「言葉通り」が主流になっているのかなぁと。

オケやコーラスの重厚さが以前ほど感じられない気がしたのですが、コロナ禍と関係があったりするのでしょうか。減員? それとも座席位置や私の側に起因する問題でそう感じたのでしょうか。
逆にエコーが強すぎるのが違和感で、トートの声をマイクが拾いきれていないようなもったいない感じもありました。

14日の初見時、トート閣下のご登場シーンで頭上からワイヤーで降臨されるのを見てふと昨年見た「薔薇とサムライ」の天海祐希さんが脳裏に浮かんでしまったばっかりに、よからぬスイッチが入ってしまったのがわたし的敗因のような気もします。
物語に没頭しきれずどこか退いたところから見ていたかもしれません。
真っ白だった頃の私を返して・・涙。

また観劇できるはずなので、それまでに自分を調整しておかなくては。
このご時世、貴重な1公演1公演のはずなのに・・。

花總まりさんのシシィは愛らしい少女から大人の女性へそして晩年への変化が、わかってはいるつもりだったのですが、以前にも増して見事であらためて驚かされました。
予想を超えていました。
印象としてはとてもポジティブで自分を曝け出すことができるシシィでした。

古川雄大さんは2019年に見たときとはかなり雰囲気が変わって存在感のあるトートになっていました。
低血圧そうに(青い血を流すらしいから血圧はあるんですよね?)悠然として物事に無頓着そうなのにシシィにだけは執着するのが「愛と死の輪舞」って感じで、作品世界に漂う空気が凝って具現化したようなトート閣下だなぁと思いました。
小さなルドルフからさりげなくピストルを受け取り懐にしまうまでの一連、のちに成長したルドルフにそのピストルを渡すところなどのメタな小道具使いに見惚れてしまいました。ついふらふらとついて行ってしまいそうになるトート閣下でした。

佐藤隆紀さんのフランツ、そっかシシィってファザコンだったよねと。優し気なところに惹かれたのかな。
シシィの部屋の前の歌、いい声。あれでも扉を開けないシシィなのですね。
棘のない声といいますか包み込むような誰ともケンカしない声だなぁ。
夜のボートは劇中でもいちばんの感動ポイントでした。

立石俊樹さん、悲劇を待っているルドルフといいますか。このルドルフ、自分が悲劇が似合うことを知っているなと思いました。
追い詰められてイキイキしていると言ったら変ですが、悲嘆に浸っているなぁと。古川トートとの耽美な闇広ご馳走様でした♡

香寿たつきさんのゾフィーは正しくて厳しくて怖い印象。それが息子や孫のためだと心の底から信じているんですよねぇ。
強くなくては生きていられない場所で彼らは生きていくのだから。
安定の力強い歌声の頼もしいゾフィー様でした。

ルキーニの黒羽真璃央さん、ルキーニといえばベテランの役者さんの印象があったのでキャリアも年齢もお若い方がキャスティングされたことに最初は驚きでした。
実際に舞台で見て違和感もまったくなく演じこなしていることにも驚きを覚えましたが、考えたら実在のルキーニも犯行時は25歳だったのですよね。
無政府主義を信奉し、「偉そうなやつ」を暗殺して自分を誇示したかったのだろう若者の役を年齢が近い役者が演じるのは自然かも。その言動の支離滅裂さも、教え込まれたことを一途に情熱的に信奉し誰かを情熱的に憎むことができるのも若さゆえともいえるかもと納得でした。
そう仕向けられていることに気づかず万能感に浸っている感じも。彼は誰かに利用されたのかも・・?と思える余地があるのも。(この作品の世界観だとトート閣下がその黒幕ですが)
強烈なアクセントで狂気を印象付けるというよりは、若さゆえの万能感と自己陶酔と操られやすさを印象付けるルキーニだったかなと思います。


17日は、トート、フランツ、ルドルフが14日とは異なるキャストでした。

井上芳雄さんのトートは、アグレッシブに仕掛けてくる印象でかなり怖かったです。自分から矢面に立つトートだなと。
ルドルフを失って弱気になったシシィに「死なせて」と言われて傷ついたような顔をしていたのが印象的でした。愛されていないことがショックなのかな。強いシシィを求めているからかな。子どものようにイノセントで自分が望むままに行動するトート閣下なのかなと思いました。
井上トートは歌も楽しみだったのですが、エコーが効きすぎていてマイクが拾っていない声もあった気がしてそれがもったいないなぁと思いました。

田代万里生さんのフランツはトートへの対抗心が強いなぁというのがいちばんの印象です。シシィは私のものだ感が凄い。
彼女を裏切ったことをめちゃくちゃ後悔してそうだし、そのことで母をとても恨んでいそうだし、帰ってこないシシィのことをずっと思っていそう。
その割には息子にきつくて、そんなところは母に似ている気がするし。下手をすると息子にも嫉妬しそうなくらいだなぁと思いました。
こんなにシシィを愛しているのに拒まれてしまう「夜のボート」は胸が痛かったです。彼に脇目もふらずトートの胸に飛び込んでいくんだなぁシシィは・・涙。

甲斐翔真さんのルドルフは、めっちゃ育っとるやん!って思いました。こんなに大きくなって・・と。
ゾフィー様の言いつけを守って鍛錬したのかな~ 彼なりに一生懸命に国を思って行動しているよねと思いました。そんなところはゾフィー様の孫だなぁと。
井上トートの声をかき消さんばかりの音量の闇広がめちゃくちゃツボりました。こんな闇広(闇が広がる)ははじめて。勢いで突き進んでなにかよくわからないうちに勢いで自滅してしまうルドルフ。正義感が強かったのよねと思いました。
次は古川トートと甲斐ルドルフで見る予定なのですが、ちゃんと噛み合うのかどうなってしまうのか、いまから不安なような楽しみなような笑。

革命家の皆さんも一新で、背の高い方たちばかりでびっくりでした。
こうやってどんどん受け継がれていくんだなぁ。
博多座でアムネリス(宙組「王家に捧ぐ歌」)だった彩花まりさんが今回はヴィンディッシュ嬢で頑張っている姿を見れてうれしかったです。
おなじく元宙組だった華妃まいあさんの姿も退団後はじめて見ることができました。相変わらずスタイル良いなぁと。宙組で活躍していた彼女たちがまたエリザベートの世界で息づいている姿を見ることができて感無量です。
スタイルが良いといえば美麗さんのマデレーネも妖艶で素晴らしかったです。

次の観劇予定は1週間後なのですが、なにやら凄まじい寒波に見舞われるみたいで・・・。
大雪にさえならなければ大丈夫なはずなので、無事に観劇が叶いますように。
そして千秋楽まで止まることなく上演されますように。心の底から祈っています。

Img_8395

Img_8368

| | コメント (0)

2023/01/16

Song For You.

2022年は宝塚の脆弱な部分が可視化されてしまったなと感じた年でした。

未成年の少女たちを集めて独特の価値観の中で育成する危うさ。
そして脚本力の弱さ。
どちらも人材の育成に関わることかと思います。

人こそ宝。
タカラジェンヌをはじめそこに働く人々が時代に沿った素養を培い更新していける場所でありますように。

大勢の人が本気で一つのことに向き合っていれば、衝突することもあれば反りが合わないと感じることもあると思います。一所懸命であればこそ。
その中で最良の解を見つけながら歩んで行っているであろう人たちを信じています。

たとえば、厳しさは愛情ととらえてストイックに上を目指している人にとっては当たり前のことや逆に許せないことがあると思いますが、けれどそうとらえる人ばかりではないはずで、それぞれにとっての当たり前や許せないことがあるのだということ。
いろんな考え方や価値観が存在する上で、各々が相手を尊重し信じて、力を合わせて一つのものを作りあげ、バトンをつないで新しい時代の宝塚を作って見せくれることが宝塚ファンとして私の願いです。

それから、コミュニケーション力のある人、発信力のある人の言葉や言動から憶測されたことのみが真実のように語り継がれて、そうでなかった人がずっと悪い印象のままなのも悲しいです。

劇団には時代に即して団員1人ひとりを守ってほしいと思います。
夢が見られなくなったらもうそれは宝塚じゃなくなってしまうから。

持ち場を与えられた各々がつねに良いパフォーマンスができる場所でありますように。

| | コメント (0)

2022/12/14

夜明け色に咲いた愛の物語を。

12月12日と13日に宝塚大劇場にて星組公演「ディミトリ~曙光に散る、紫の花~」「JAGUAR BEAT-ジャガービート-」を見てきました。
13日は千秋楽でした。

「ディミトリ」は、この1か月のあいだに個々の役を演じる人たちがそれぞれの解を見つけ出しそれを目指して深めていったんだなぁと感動する出来栄えでした。
時に涙したり見蕩れたりもしましたが芝居が正解を導き出すほどに、どうしても興が醒めてしまう部分が残りもやもやしました。

終演後ファン友さんに思いをぶつけて気づかせてもらったのですが(・・恐縮)、どうやら私は一段と生田先生には厳しいみたいです。
どうしてかな?と考えたところ、目にとまった(耳にとまった)ディテールで期待を膨らませた結果、・・期待外れで勝手にプンスカしているみたいです。

意図したものの回収が拙いのか、そもそもどうする気もないものなのか、それすらもわからないものに期待しては裏切られているような。
そういうことが何作も続いているかんじです。
それに勝手に憤っているみたいです。
相対評価は高いのですが、ここに至るまでの私憤が混ざって絶対評価になると辛口になってしまうようです。

もっと高い所に行けそうなのにと思うと口惜しさに地団駄を踏みたくなるのです。
いつもは封をしているけど、そのもっと高い所の作品を心の底では求めているんだなぁと思います。

それを一瞬見せてくれそうな気がしてしまうんですよね。生田先生のもったいぶった言い回しや演出は。

だいぶ話が飛んでしまいますが、劇場も舞台装置もとても豪華でそれに携わる人々も演じるタカラジェンヌたちも並々ならぬ努力で舞台を作っているのだから、それに相応しく脚本も一級品であってほしいなというのが心の奥にあります。
繰り返し再演できるような、また見たくなるようなオリジナル作品を作り上げることが宝塚歌劇の未来には必要なのではないかなと思います。
そのためには、これはという作品はブラッシュアップして再演していくこともあってもいいのじゃないかなと思います。再度、時間とお金をかけて人的にも劇団の総力をあげて元の脚本を磨き上げていくことも。
「ディミトリ」をそのようにして何年か後にまた見せてもらえたらなぁと思います。

そしてまさに見てきたばかりの「ディミトリ」についてですが。
まず礼真琴さんが演じたディミトリはこんなに簡単に描いて終わる人物じゃないだろうになぁと思います。
この役を演じるのはとても難しかっただろうなぁと思いました。
彼という人物を主役として描くなら、もっと深いところ触れてもよさそうなのになと思います。

幼くして異教の国に人質に出された少年の寄る辺なき心。
人質にされた国の王女に救いを見出しのちに彼女の王配となるも、その出自によって宮廷中から疎まれる身で自分の居場所を定めるまで。
たった1人の味方であり彼の人生の意味そのものであった愛する妻=女王の許しがたい裏切り(不貞)からの幽閉の身となったこと。
そして王配としては憎むべき敵国の帝王に命を助けられ、彼の慈悲と寵愛を受けて生かされる立場となり愛する国が蹂躙されるさまをその傍らで見る思い。
その恩義ある帝王を、自分を裏切り苦境におとしめた女王への愛のために命を捨てても裏切る決意にいたること。
オーストリア皇后やフランス王妃に劣らないドラマティックな人生の物語が見れそうなんですが。

この不安定な立場の中で彼がアイデンティティをどう形成していったかを見たかったなぁと思います。
ヒロインにとって都合の良い夫、ヒロインに都合の良いおとぎ話で終わってしまったのがもったいないなぁと思います。

ルスダンは、それが夫の命を奪うことになっても、それが自分自身の心を抉ることになっても、女王としての決断を重んじた。ジョージアの女王であることが彼女にとって自分の生きる意味にまでなっていた。
ディミトリは、ルーム・セルジュークの王子でもディミトリでもなく、ジョージアの王配だという言葉に満足して息絶える。
これは対称なのか非対称か、微妙に思えます。そうともとれるし、ちがうともとれる。
そこももやもやが残るところだったなぁと思います。

ディミトリのおかげでルスダンは背負うものが軽くなったよ、よりは、ディミトリの死を背負ってルスダンはその後の人生を苦しみながらも果敢に生きて死の時を迎えた、のほうが私は好きです。
原作にあった「狐の手袋」のエピソードにいちばん心が震えたのもそれかなと思います。

うまく言えないのですが、「ディミトリ」と「曙光に散る、紫の花」の中間ぐらいの物語を見たいなと思います。

| | コメント (0)

2022/12/06

明日を待つこの思い。

12月3日と4日に福岡市民会館にて、宝塚歌劇月組公演「ブラック・ジャック 危険な賭け」「FULL SWING!」を見てきました。

「ブラック・ジャック 危険な賭け」は、マサツカ作品あるあるで、主題歌や挿入歌がとても良くて歌詞を噛みしめて聞きたいと思う作品でした。
主題歌は良いけれど主人公がなんか腹立つなぁと思うのもあるあるで、とはいうものの男役さんのカッコよさに誤魔化されてしまうのもまたあるあるなのですが、今回は誤魔化されたわ~♡とならずに終わってしまって、あら。でした。

話の筋は通っていて演出もうまいなぁと思うところもあるし月組生の芝居は流石だなぁと感心しましたが、純粋にこれ面白いかな?となりました。
クスリとさせる芝居も織り込まれていて、そういうところは笑いましたし、これは芝居の呼吸がよいからできるんだなぁとも思いましたけど。

ブラック・ジャックの思想も主張も嫌いじゃなかったのだけど、なんでこんなに偉そうなんだろうなぁと思いました。
漫画のブラック・ジャックってこんなだったかな。
どちらかというとマサツカ作品の嫌なところが表に出ていた気がします。
そしてそれをカバーする何かも足りなかったなと。
真面目すぎなのかな。愛せる隙がないというか。

私はマサツカ作品の頭ごなしに相手に「馬鹿かおまえは!」と怒鳴りつける主人公が好きになれないのです。
威張るなら大病院の院長とかマフィアのボスにでも怒鳴ればいいのに。
反権力の無頼漢を気取った男性の中のセクシズムが露骨だったのも嫌だなぁと思ってしまいました。
そういうところが信頼できるキャラに見えなくて詰みました。

言い返してくる女性には、その自尊心をへし折って悔い改めさせたらいい気持ちになるのかなぁ。「おれが最高のオペというものを見せてやる」は失笑。
「今夜のことは忘れないと思います」と平伏させるのは何が狙いなのかな。
逆に自己肯定感が低く自分を卑下する女性がお好きなんだろうなぁと思いました。そんな女性を気遣い励ます自分が好きなのかなと。
ブラック・ジャックではない別の誰かが透けて見えてしらけてしまいました。

そこまで偉そうにしておきながらピノコに自分をケアさせるのもなんだかなぁと思いました。
ピノコもまた「愛される幼妻」のロールモデルをなぞっているんですよね。訳あってそうやって自分の居場所をみつけているキャラクターなんだけど、それを舞台で生身の女性が幼児語で演じるといたたまれない気分になりました。

ラストに女王を登場させるのも権威にちゃっかり擦り寄っているように見えて、組織に長くいる人はさすがだなと思ってしまいました。
(007ならああいうのも気が利いていると思えるけれど)

そういう一つ一つが支障になってしまって、世界観に入りきれなかったのかなと思います。

人の世に対する諦観のようなものがあればこそ、生きること生かすことに必死で、不可能なことに抗い挑む人。それがブラック・ジャックだと思うのだけど。
生き方そのものが弱きものを痛めつける世の中へのレジスタンス。抵抗なんだと。
でもこの作品のブラック・ジャックはそうは見えませんでした。

芝居の技術は5組の中でも一番かなぁと思うのに、何か巻き込まれるものがなかったなぁと思います。
硬い印象を受けたというか人間的な魅力が見えたらなぁ。

と思ったら、カーテンコールのご当地出身者の紹介やトップスターの月城かなとさんの挨拶が面白くてチャーミングで、なんとしたこと!と。
福岡出身者は今回美海そらさんお1人ということもあり、しっかりネタを仕込んで笑わせにくるのが流石「芝居の月組生」でした。
3日の夜公演は、博多弁のピノコを披露。4日の夜公演はライブ配信の回だったのですが、可愛い博多弁でご挨拶中に突然ピノコ宛てに電話が鳴ってピノコの小芝居も入れたりとひとり芝居状態で楽しませてもらいました。なかなか度胸のあるチャレンジャーだし可愛いし、お名前しっかり覚えました。

月城さんは月城さんで、3日の夜は組長の光月るうさんから「月組のお天気お兄さん月城かなとが——」とふられると耳元のイヤホンを探る仕草から入って「こちら福岡市民会館、明日のお天気は—— 」とお天気中継をはじめて、翌日のお天気や気温を淀みなく話し出して(ちゃんと仕込んでいたのですよね)会場が一気に和みました。
これまでいくども全国ツアーでのトップさんのご挨拶を聞いてきましたが、こんなの初めてじゃないかな笑。客席は一気に月城さんを好きになったと思います。
お芝居自体も演じている人々を愛せる演目だったらなぁと思ったりも。


「FULL SWING!」は、大劇場公演は見ることができなくて配信を見たのですが、月組らしいジャズの演目で全国ツアー版を楽しみにしていました。
三木先生で月組といえば「ジャズマニア」が好きだったので、ちょっと懐かしくもあり今のタカラジェンヌさんたちのリズム感に感心したりしながら楽しみました。
夢奈瑠音さんの「ジャズマニア」からのラインダンスは爆上がりました。

ジャズのビートを楽しんでいるうちにあっという間に終わってしまったショーでしたが、なかでも風間柚乃さんの活躍が印象的でした。
去年のバウ公演でもジャズを歌ってらっしゃったのが素敵だったので、また風間さんが歌うジャズが聞きたいなぁと思っていたので望みが叶いました。

礼華はるくんが公演を通して3番手ポジションにいたのもびっくりでした。「親孝行そうないい息子さん」と言いたくなる下級生だったのに、いつのまにかスターさんなんだなぁと感慨深かったです。

それから月組といえば私のイチオシ結愛かれんちゃん♡ 今回も表情豊かで素敵でした。
そしてデリシューの初舞台ロケットで気になっていた一輝翔琉さんを発見。月組配属だったんですね。やはり私の目線泥棒でずっと追いかけて見てしまいました。

ここのところ大人っぽいといいますか渋めの演目が多い月組ですが、来年は下級生の1人ひとりまで目が留まるような派手な演目が来たらいいなぁと思います。
芝居の月組なのは承知なのだけど、明るいショー作品を期待します。

| | コメント (0)

2022/12/02

Just Look at Me!

11月23日にキャナルシティ劇場にて行われた「望海風斗20th Anniversary ドラマティックコンサート Look at Me」に行ってきました。

望海さんのコンサートは去年に引き続き2度目、そして今年望海さんの舞台を見るのは、博多座ガイズ&ドールズに続いて2回目です。
またまた福岡に来てくださって本当にありがとうございますと思います。
今回のコンサートも大満足でした。

今回の構成は、企画した音楽番組が打ち切りになってしまった演出家のヒカリさん(望海さん)が、本当にやりたかったショーをイメージしてみたという筋立てで趣向の異なるいろいろなナンバーを披露するというかんじ。どんなジャンルも歌える望海さんならではでした。

初っ端からブロードウェイミュージカルの名曲を歌いこなす望海さん凄かったです。
そのナンバーが使われたミュージカルそのものは、いまの時代に見るとついていけなかったりもするのだけど、やっぱり名曲は名曲。それを望海さんが歌って聴かせてくれることが至福でした。
私は望海さんの声も好きなんだけど、リズム感がすごく好きなんだなと思いました。
気持ちよく風を切り波に乗っているような全身で楽しめる音楽と歌声が最高。
「All That Jazz」「Luck Be A Lady」は痺れました。やっぱりカッコイイ望海さんが好き。

続いては懐かしい邦楽のナンバーをリディスカバリーするコーナー。
前回のコンサートでも思ったのですが、望海さんは歌で言葉を伝える力が素晴らしいなと。
聞き慣れたナンバーなのに、こんなことを歌っていたんだとしみじみ歌詞の世界観に浸りました。
「薔薇より美しい」ってこんな情景と心情を歌っていたんだ、「ビューティフルネーム」ってこんなにグルーヴな名曲だったんだと。
すでに東京公演をなんども見ていた望海さんファンのオトモダチが「アヤコが嫁に行ってしまう・・」と涙目でしょぼしょぼしていた理由がわかった「秋桜」。リアルな情景まで浮かんでしまって、ひととき沁みますね、これは。応援を続けてきた人にはたまらない、いろんな思い出がよみがえるのではないでしょうか。
と勝手に想像して私もしょぼしょぼしました。

それからこれまで望海さんが公演で歌ってきたナンバーのコーナー。
こんなロックな「最後のダンス」が聴きたかった!とあがりまくり。
コーナーの1曲だからドレスにフィンガーウェーブにシンプルなパールのヘアアクセサリーで男前に歌っていたのも印象的で、素敵イイイィ♡と心で悲鳴を上げていました。
今回はコーナーごとにヘアスタイルもコスチュームも印象がまったく違うのもいろんな魅力や夢を見ることができて素敵でした。
「最後のダンス」に感動して思わず夢見てしまったのですが、望海さんの歌唱で力強い「私だけに」を聴いてみたいなぁと。宝塚版とも東宝版ともちがう「私だけに」を。できればドイツ語で。
思いっきり「Nein!」と拒絶してほしいなぁ。

そしてそして、今回めちゃびっくりしたのが「パレードに雨を降らせないで」(Don't Rain On My Parade)。
まさか望海さんの歌声で聴けるとは。この曲とっても難しくないですか? 日本語で歌詞をつけられないタイプの曲だと思うし英語で歌うのも難しい曲だと思っていたので、こんなふうにコンサートで生で聴けるとは思ってもいなくてえっ?この曲?とびっくりして、でもさらに望海さんのヴォーカルもすごくドライブ感があってマグナムのシャンパンシャワーを浴びたような気分を味わいました。
望海さん最高です。祝20周年!
望海さんの歌も、バンドの演奏も、ダンスも。全てが上質でよき時間を過ごせたなぁと大満足です。
来年は「DREAM GIRLS」博多座公演もあるし、これからの望海さんのご活躍をさらに楽しみにしています。


四方山ですが、望海さんファンの方から「なんでもいいのでペンライトを持ってきてね」と言われていたのですが、家にあったのが唯一マカシャン(例のデリシューのマカロン型ペインライト)だったので、「なんでも?」と思いつつアンコールで皆さんがペンライトを振っている時に恐る恐る振っていたのがバレてしまったみたいで望海さんから軽く指摘が・・(ほかにもマカシャンの仲間がいらしたのかな)。緑系のライトが多い中でピンクがいかんかったかなぁ。。

| | コメント (0)

2022/11/29

マジ!マジ!マジック!

11月17日と18日に宝塚大劇場にて星組公演「ディミトリ~曙光に散る、紫の花~」「JAGUAR BEAT-ジャガービート-」を見てきました。

「JAGUAR BEAT」は外連味たっぷり、齋藤吉正先生ワールドてんこ盛りのショーでした。
ゴージャスなコスチュームがスタイルの良い星組生にはまって眼福。
サウンドエフェクトが強めで目眩く色彩の洪水。情報量が多くて目がぐるぐるしました。

猫耳の可愛い娘役さんたちがいたんだけど、どの場面だったっけ?
お顔を確認しようと思ったのに、かっこいい人たちにも気を取られているあいだにうたかたのように消えてしまいました。

キラッキラにキュートな舞空瞳さんに目を奪われ、胡散臭く発光してる瀬央ゆりあさんに思わずのけ反りそうになったり、超絶スタイルの極美慎さんの笑顔にクラクラしたり、美人な女豹の天華えまさんに釘付けになったり、なんかいっぱいキラキラの組子出た~!あっあそこに朝水りょうさん♡などと目まぐるしく視線を動かしているといつの間にか礼真琴さんが登場してて、え?こんなことってある?
ふつうトップさんの登場には拍手があるんじゃなかったっけ??
みたいな場面もあったりして、なんというか見知らぬ街のイルミネーションの眩惑と喧騒のクリスマスマーケットで迷子になってしまったようなそんな感覚に陥りました。

2回観劇したのに記憶がぐちゃぐちゃで、どの記憶がどの場面だったかさっぱりわからない状態です。
具体的な記憶より印象が勝る感じといいますか、わたし的には舞空瞳さん、瀬央さん、極美さんが最高に素敵に見えたショーでした。
舞空さんメインにしたダンシングショーを見てみたいなぁなんて思ったり。

前回「グランカンタンテ」を見て宝塚らしいショーに感動したのですが、今回の「JAGUAR BEAT」も真反対だけどこれもまた宝塚らしいショーだったと思います。
ただ「グランカンタンテ」みたいなショーが見られると思って客席にいたので、初見はショーのスピードに脳みそがついていけてなかったです。
翌日2回目を見るときにはちゃんと覚えていようと思ったのに、やっぱり無理でした。

ちょっと残念に思ったのは、音をいじりすぎて礼真琴さんの伸びのある歌声を堪能できなかったこと。
ジャガーの咆哮をかぶせるよりも、礼さんの歌声そのものをもっと聞きたかったなぁと思うけれど、作品的に無理な発声をしそうなので(無理をするとどんなシャウトでも出せそうな礼さんなので)、歌いまくるであろう次回作の「赤と黒」や「1789」までその伸びやかな歌声は温存してもらったほうがいいかなと思いました。

さらに言うと「グランカンタンテ」に大満足だったものの、礼さん以外の星組生の活躍をもっと見たいなぁとも思っていた私には、この「JAGUAR BEAT」はそこの部分が満たされているのが嬉しく楽しかったです。
あっちが満たされればこっちが足りない・・といろいろわがままな要求ばかりですね。

この作品で星組大劇場のショーデビューとなる暁千星さんの印象は「真面目だなぁ」でした。
月組の時よりも高く飛び跳ね踊り動きまわっている印象もあり、たくさん活躍できそう。
新しい環境に慣れてさらにこのマーリンという役割の悪の余裕と色気が増すのを楽しみにしています。

どの場面だったか、暁さんの手下のような役をしていた水乃ゆりさんの柄タイツの脚に目が釘付けになり頭がバグを起こしそうになりました。
マレーネ・ディートリッヒみたいな水乃ゆりちゃんが見たいなぁ。そう思いませんか齋藤先生。
悪い暁さんの隣には大輪の牡丹のような娘役さんが合うなぁと絶賛"ありゆり”推しになりました。

クラブみたいな場面で、パニエたっぷりミニドレスの舞空瞳ちゃんにも頭が爆発しそうになりました。可愛さ∞。「満天星大夜總会」のHANACHANG(花總まりさん)を彷彿しました。
この場面の後方でボーイ役の極美慎さんと水乃ゆりちゃんからも目が離せなくなって、どこを見ていいか困ったのでした。舞空瞳ちゃんと瀬央さんの勝負の行方も気になるのに!
瀬央さん、暁さん、極美さん、綺城ひか理さん、天華えまさんの五色のスタイル戦隊みたいなコスチューム場面も爆上がりました。
ほかにも猫耳、車いす、迷彩のミリタリーコスチューム等々、齋藤先生の趣味嗜好がてんこ盛りだなぁと思いました。
終演幕に映し出される礼さんの「See you!」も笑。

なんだかんだ訳がわからなくなりながら夢中で見終わったショーでした。
さらに進化した舞台を、また見に行きたいです。

| | コメント (0)

2022/11/23

君と生きた夢を。

11月17日と18日に宝塚大劇場にて星組公演「ディミトリ~曙光に散る、紫の花~」「JAGUAR BEAT-ジャガービート-」を見てきました。

「ディミトリ」は、冒頭の物乞い(美稀千種さん)とリラの精たち(小桜ほのかさん、瑠璃花夏さん、詩ちづるさんほか)の場面から、愛ゆえの別れを語るバテシバ(有沙瞳さん)の場面までがとても秀逸で美しく盛り上がって、これは名作の予感!と期待したのですが、だんだんと尻すぼみに。
幕が下りた時には、スン・・(虚無)となっていました。
なぜこんなに盛り上がらなかったのだろう。題材はとてもいいのに。

翌日の2回目の観劇は、筋はわかっていたので登場人物の気持ちを自分なりに補完しながら見たせいかとても感動したのですが、よくよく考えたらこれってほぼ私の脳内劇場だったのかもしれません。
ネタはよいので、想像の翼はどんどん拡げられます。
美しい姿と属性をつかって勝手に夢を見られる。
盛り上がるであろう場面はやらずに、さほどでもない場面をセリフにしていくのはなぜだろう。
ゆえに見たいことは想像するしかなかったというのが正解かな。

それから初日があけて間もない頃にありがちな、役者個々の技量の差が顕著に出てしまっているのも大きかったように感じます。
導入の場面は力量のある人たちが魅了してくるのに対して、それを受けての場面に出てくる人たちがまだ役を掴めていないようなのも、何を描こうとしているのか行方不明にしていた要因かと思います。
ルスダン(舞空瞳さん)、ジャラルッディーン(瀬央ゆりあさん)、アヴァク(暁千星さん)に頑張ってもらわないとこの作品は面白くならないと思います。
足りない情報は芝居で埋めてもらうしかない。
そして物語が転じるきっかけを担うミヘイル(極美慎さん)にもなんとか役の肉付けを頑張っていただいて大きな見どころにしてほしいです。
せっかくのヒロインと絡む役ですから、これを美味しくしない手はないでしょう。

気になったところを上げると。

賢者(物乞い)が見掛け倒しだったなぁと思います。
もっと効果的に語り部&進行の役割を担えただろうに。
異教の国々との境目に位置するキリスト教国ジョージアの地理的、歴史的状況を紐解いて語らせてもよかったのでは。
モンゴルやホラズム朝の脅威がいかほどのものかわかるように。
冒頭の誰もいない土地は、いつのどこなのだろう。
王都トビリシならば、ジャラルッディーンに占領された後は再びジョージアが奪還して、ルスダンも王宮に戻った描写でラストシーンになっているので、舞台では描かれていないそれよりもっと後の再びモンゴルに攻められて灰燼となったトビリシでしょうか。
だとしたら、それを描くことに意味があるのでしょうか。ラストと繋がらないのに。
踏み出しと着地がちぐはぐな心地悪さが残りました。

それからルスダンが暴君に見えたこと。
とってつけたような名づけのシーンは何を見せたかったのか。横暴な王女とそれを許す母女王?
わざわざ挿入するならどうしてその名にしたのか、名付けたルスダンに好感を抱けるような理由がほしい。放置しないで。
異教の国に人質として送られた少年の心許なさを見せてほしかったし、彼がルスダンに惹かれる理由を見せてほしかったな。
男女を逆にしたら、古来から使い古された話だなぁと思いました。
異教の国から連れて来られて、暴君以外に寄る辺のないヒロインがすれ違いの末に愛に殉じたことで最終的に認められるという。
DV男をDV女に変換しただけに見えないように願いたい。

ジャラルッディーンの登場はもっとカッコよく演出できなかったのかな。
牢獄の登場も間が抜けたように感じたし。
もはやこれまでかという危機一髪で登場し、手負いのディミトリを抱き起すようなシーンが見たかったなと思います。ジャラルッディーンの下に身を置く以外に道はないディミトリの境遇が推し量れるように。
そしてトビリシを破壊するジャラルッディーンの下に身を寄せる自分をディミトリがどう思っているかも大事なところだと思うんだけどなぁ。
主人公は何をするか以上に何を感じるか、それを観客に届けられるかが大事だと思います。

モンゴルももっと猛々しく脅威として演出してほしかったです。
ジャラルッディーンのホラズム朝を滅ぼしジョージアまでも侵攻しようとするモンゴル。
国土を失ったジャラルッディーンがジョージアを狙うこととなった元凶であるモンゴルの脅威を。

アヴァクが手下にする指令も漠然としすぎだなぁと思いました。
ディミトリの暗殺も彼の指令だと印象づくように描けばラストのルスダンとのやりとりが感動の場面になるのにもったいないなと思いました。

再会のシーンも盛り上がりに欠けたなぁ。
別れた時とは何もかもが変わっている2人を見たかったです。なにより少女時代とは別人のようになったルスダンを。
相容れない関係になったディミトリにすがりつく娘の姿は泣ける場面になるはずなのに。幼子を挟んだ2人の姿も。

もったいなさすぎていろいろ言いたくなってしまい、ついには勝手に想像して脳内劇場に浸ってしまうこの感じは、「白夜の誓い」と同じだなぁと思いました。
来月も見る機会があるので、不足していた情報量が芝居の力で埋められていたらいいなと思います。

| | コメント (0)

2022/11/11

これで災難もなかったとおんなじだす。

11月4日と5日に宝塚バウホールにて花組のバウ・ワークショップ「殉情」を見てきました。

今回見たのは、一之瀬航季さん主演のバージョンでした。
前回帆純まひろさん主演バージョンを見て、かなり宝塚ナイズされているなと思ったのですが、一之瀬さんバージョンはさらに「宝塚らしい」作品になっていました。
同じ脚本でこんなにもちがって見えるのか!と驚きました。

登場の瞬間からあたたかいオーラで劇場を包み、春琴のことが好きで好きでたまらない大型犬のような一之瀬さんの佐助。
自分に対して全力で愛を注ぐ佐助に思わず綻びそうになる笑みを必死でこらえてツンツンする美羽愛さんの春琴のなんと可愛らしいこと。
私はこの"かいらしいこいさん”に心を奪われて目が離せなくなりました。

春琴の相弟子となりさらに春琴から羽織をもらって舞い上がらんばかりの喜びを噛みしめる佐助は、まるで恋の翼に乗ったロミオみたいでしたし、そんな佐助の気配を感じて嬉しさを隠し切れず頬を緩ませる春琴もまたジュリエットみたいでした。
なんてハッピーな、なんていじらしくも微笑ましい「春琴抄」なの?と蕩けるような心地で1幕を見終わりました。

こんなにハッピーで1幕了で、2幕はいったいどうなるんだろう?と思っていたところ。
相思相愛の微笑ましい甘酒屋の場面にはじまり、厄災は起きるのですが、結局は1幕にもましてハッピーな気持ちで終幕を迎え、私の中の「春琴抄」の概念が行方不明になりました。
これは「春琴抄」をベースにした「殉情」というハートウォーミングな別作品なんだなということで納得しながら劇場を後にしました。

でもホテルに戻って思い返しているうちに、なにか背筋が冷たくなってきました。
すべて佐助の思い通りに事が運んでいたんじゃないかと。

一之瀬さんはとてもあたたかみのある佐助で、春琴への愛が温泉のごとく滔々と溢れだしていて、その思いを隠さないし、意外にも能動的に先回りをして春琴を率先して導いていたような。
とても真ん中らしい「宝塚」的な主役だったなぁと思います。

帆純さんの佐助が常に春琴を立て、気難しい彼女の心を察することに神経を研ぎ澄ませ、理不尽にも忍耐していたように感じたのとはまるで印象が異なりました。

一之瀬さんの佐助は、春琴のわがままに応えるたびに彼女からの気持ちをご褒美として受け取っているように見えました。
帆純さんの佐助はこの上なく春琴を崇拝していて、自分だけに向けられる彼女の嗜虐心に至上の喜びを感じていたのかもと思います。なかなかに特殊な愛かなという印象。傍目から見ると割に合わないように感じるのだけど。

最終的に春琴という宝玉を得るためにその才や輝かしい将来とか、あまたのものを引き換えにしたように見えた帆純さんの佐助に対して、一之瀬さんの佐助は都度都度清算できているというか、むしろ黒字決算の印象で、着実に春琴を自分の手の内に収めていっているようでした。
帆純さんバージョンは見ながらリアルタイムに闇が深いなぁと思うところがありましたが、一之瀬さんバージョンは見ているときには気づかなかった闇に、あとになって気づく感じ。

春琴の気位の高さが誇りの帆純さんの佐助。
春琴の愛らしさが誇りの一之瀬さんの佐助。
どちらの佐助も、自分だけの春琴を永遠に手に入れたんだなぁ。

「これで災難もなかったとおんなじだす。」(怖)。


春琴も、朝葉ことのさんと美羽愛さんとではまるで違った印象でした。

朝葉さんの春琴は気位が高く弱い自分を絶対に見せることができない女性。主人と奉公人という身分のちがいを絶対に越えられない、越えると自分が崩壊するような人に見えました。
それゆえに苦しみ苛立って、佐助に辛く当たっているようにも見えました。(佐助はそれが喜びのようでしたが)

美羽さんの春琴はいかにも甘やかされた10代の少女で、赤子を里子にという場面も子どもが子どもを産んでしまったゆえの無知による悲劇のよう。
鬼は鬼でも無邪気な小鬼。そして自分にはぐれて心細くて自分だけを見てくれる佐助を必死で探しているような。

わがままを言うことで、佐助がどれだけ自分に献身してくれるか試しているようにも感じました。
そのたびに溢れんばかりの愛で返す佐助に満たされ、自分の価値を再確認し自尊心を満たしているようでした。
まるで際限なく愛情をほしがる子どものように。

あんなに両親に愛されていてもなお、満たされない空虚が彼女の裡には存在しているのかもしれない。
いとけなく世間知らずのわがままに見えて、その実散々傷ついて育ってきたのかも。
目が見えない者として扱われる疎外感や憐れまれ尊厳を傷つけられる経験や、自分には決して得られないものを持つ者たちへの嫉妬や。
敏感に自分自身や他人のネガティブな感情にヒリヒリとして日々を過ごしていたのかもしれない。
そんな心の裡の埋めきれない空虚を佐助の愛情を確かめることで埋めていたのかもと思います。
佐助が春琴を求める以上に、佐助を必要としていた春琴だったように思います。

それに利太郎はん(峰果とわさん)も気づいたのでは。
天下茶屋の梅見のあとで利太郎はんが「台無しやなかったなぁ」とほくそ笑む理由を私なりに考えたのですが、あれは春琴の弱点がわかったということでしょうか。

高慢な彼女のか弱い一面を垣間見たことで、春琴もまた巷の女性と同じように佐助を男性として必要としていると勘づいたのでしょうか。
わざわざ淀屋橋の春琴宅に出向いて高額な謝礼をちらつかせた意図は、贅沢な暮らしでお金が必要な春琴の心をぐらつかせてお金(自分)を取るか佐助をとるかを試そうとしたのか。
結局きっぱりと断られたうえ、佐助とダッグを組んだ春琴に嬲られることになって沽券を傷つけられ激高した挙句に惨い意趣返しを企むことにいたったと。
そういう流れでしょうか。
このあたりはいろいろ考えてしまいます。

結果として春琴は惨い仕返しをされ美貌を失ってしまい、そのことで佐助との関係も変わってしまう不安に慄きますが、自ら盲になることを選んだ佐助の真情を確信することができて、ようやく埋められなかったものが埋まったと。

ラストシーンはロミオとジュリエットの天国でのデュエットダンスに匹敵する多幸感に溢れていて、このうえないハッピーエンドを見た気分だったのですが、冷静に考えると、春琴はここから新たな地獄がはじまったように思います。
文字通り、佐助がいなければ生きていけない人生になってしまったから。
「もうおまえしかおらへんのや」

佐助の望みどおりに。——と思うと深い闇に背筋が冷たくなりました。
これもまた「春琴抄」の世界だったのだなぁ。


マモルとユリコは、鏡星珠さんと二葉ゆゆさんが演じていました。
2022年版で大きく変わったマモルとユリコですが、なによりも観客に作品を自由に見させてくれたところがよかったと思います。
下世話な好奇心や偏見で語らないところがなにより。

前回の観劇で、「春琴抄」は世に出ていない世界線かと思ったのですが、しっかり「春琴抄」について調べているって言っていたのですね。
フィクションの中でそこだけはノンフィクションの設定なのですね。そこはちょっと混乱するなぁ。

2人で「春琴抄」についてYouTubeで発信しているという設定ですが、観客が見るのはその発信の内容ではなくて、明治の佐助と春琴の物語と並行してすすんでいく、令和のマモルとユリコのラブストーリー。
といってもラブストーリーというにはあまりに健やかで、明治の2人との対比に思いを馳せました。

とても育ちが良さそうな令和の2人ですが、マモルにとってユリコは都合がよすぎてなんだかな。
という印象を、前回見た希波らいとさんと美里玲菜さんのペア以上に強く受けました。

心をぶつけあう前に謝って感謝して問題を不可視化する。
極力軋轢を生まないのが令和流なのかな。


春琴の両親は、どちらのバージョンも羽立光希さんと美風舞良さんが演じていました。
夫婦で立って並ぶ姿は、身長差もあって男雛と女雛みたいで素敵でした。
父親役の羽立さんは上背があり着物姿も素敵。芝居にも大店の主人らしい人格者の風情と娘を思う父親の心情がよく表れていました。
母親役の美風さん、朝葉さんの春琴を叱るときには腫れ物を触るようなどこか困惑気味、遠慮がちなところがありましたが、美羽さんの春琴には遠慮なくピシャリと叱っていて、春琴のタイプによって変わっているのが面白かったです。
そして美風さんのごりょんさん言葉が世界観にぴったりで心地よかったです。

峰果とわさんの利太郎さんはますます自由過ぎて、いっときも目を離せませんでした。
4日は、前回見たときに続いて「冬霞の巴里」のご夫婦と観劇被りでした。退団された花組の娘役さんたちもご観劇で、利太郎さんがいっそう飛ばしていて楽しかったです。
幇間役の太凰旬さんもイキイキと利太郎さんを唆していました。

お蘭は糸月雪羽さんが演じられていました。
とても歌がお上手で聞き惚れました。利太郎さんの扱いもお上手な大人っぽい姐さんでした。

高峰潤さん演じる番頭さん、仕事ができる男前で注目でした。
鵙屋の女中さんや丁稚さんたちを演じる下級生にもたくさんセリフがあり、ワークショップとしても良い公演だったと思います。
この公演で覚えた生徒さんたちを本公演でも注目したいと思います。

| | コメント (0)

2022/10/30

Welcome To The 60's. (This is the future)

10月8日に博多座にてミュージカル「ヘアスプレー」を見てきました。

映画も知らなくて、どうして「ヘアスプレー」なんだろうと思っていたんですが、1960年代が舞台の作品なのか~!
盛り髪をしっかり固めてキープするのにヘアスプレーは必須アイテムですよね。
主人公のトレイシー(渡辺直美さん)を筆頭にティーンエイジャーはレギュラーサイズのスプレー缶をバッグに入れて持ち歩いている。
ちなみに私が子どもの頃に見たTVアニメの「ひみつのアッコちゃん」のキャラの髪型、これってどうなっているの?と思っていたけれど、あれも盛り髪だったんですね。
初代リカちゃんのママもアップスタイルだったなぁ。と懐かしく思い出しました。

舞台が始まってまもなく、トレイシーの親友ペニー(清水くるみさん)のママがふつうに人種差別発言をしていてびっくりでした。
そういう時代背景の作品なんだ。60年代のアメリカ、ボルティモア。人種分離がふつうに行われていた時代に生きている人々の物語なんだ。
ポジティブなハッピーミュージカルかと思っていたけど、思う以上にヘヴィな題材を入れてくるんだなぁと。

リトル・アイネス(荒川玲和さん)がトレイシーの後にオーディションに飛び込んできたとき、ヴェルマ(瀬奈じゅんさん)が一瞥で却下した理由がさいしょはピンとこなくて。年齢が若すぎる???にしては意味がわからないなーと思いました。
後の場面で彼女がシーウィード(平間壮一さん)の妹だとわかって、そういうことか!と。
そのシーウィードも、居残り組でのトレイシーとの会話の中でアフリカ系アメリカ人とわかりました。
アフリカをルーツに持つ人物を演じるからといって「ブラックフェイス」にはしない。そういう方針の作品なんだ。

ペニーのママ、プルーディー(可知寛子さん)はとても厳格で敬虔。世の中や人を信じていないのかな。きっと不安でいっぱいで娘を育てている人なんだろうな。
家の中に夫(ペニーのお父さん)の姿が見えなかったのも何か理由があるのかな。(警察が見つけたら云々っていうのは失踪しているってこと?)
いちいち細かく娘を束縛する母親で、TV番組の視聴にも、汗をかくことにも、無断で刑務所に入ったことにも激怒。
あんまりなんでも激怒するので、ペニーはなにをやってもママに叱られると思っているようだし、些細なことも重大なことも同列に並べちゃう。
とにかくママに断りなく何かをやったらすべて怒られると思ってるふう。

ペニーが地味色の服に髪をツインテールにまとめてロリポップを舐めているのも、それがいちばんママが安心するとわかってて波風立たずにいられるからなんだろうな。
ママは娘が女性になることが心配なんだろうな。女性になって傷つくことが。
きっとママ自身が女性として深く傷ついたことがある人なのだろうなぁと思いました。

そのペニーがシーウィードと恋に落ちてしまう。しかもかなりの熱々ぶり。
これはママとのあいだに大波乱あるに違いないと見ているこちらはハラハラ。
なにしろペニーのママは空気を吸うように人種差別発言しちゃう人ですから。どうするの???

トレイシーのアクションが実って、人種分離が当たり前のボルティモアで、1つの番組に黒人も白人も一緒に出演するという歴史的な瞬間を迎えた中。
シーウィードとカップルで現れたペニーは、いつもの地味目の服ではなくてポップでキラキラのミニワンピ姿で、一瞬ペニーとわからなかったほどの変身ぶり。そのあまりの素敵さに私の脳みそはバフン!!💘

そんな娘を一目見たプルーディーが、シーウィードとの関係を迷わず受け入れるのがとても意外でした。
恋をしている娘がいまどれほど幸せか一目でわかって。
止めたって止められないのもわかってる。
どうしてわかるかなんて野暮。
泣き顔で祝福するママは、これから娘が人の何十倍もの困難に向き合うこともわかっているよね。
この一瞬でそれも全部支える覚悟が生まれているんだよねと思って感動でした。

舞台は1962年とのこと。2年後の1964年に公民権法が制定されるも人種差別は2022年のいまでもなお深刻な問題だし。
ペニーやシーウィードが置かれている状況は並大抵の困難ではないと想像できます。
そして1962年に17歳の彼女たちは、1945年生まれ。第二次世界大戦終結の年。
彼女たちの親たちは、まさに戦時中に青春時代を過ごし恋をして結婚をしたんだなぁ。
生まれてきた子どもたちはまさに希望そのものだったろうなぁと推察します。

トレイシーのママ・エドナ(山口祐一郎さん)とパパ・ウィルバー(石川禅さん)も、きっといろんな希望や挫折を味わいながら娘を大事に育ててきたのだろうなと思いました。
大切に育てた娘がTVに出たがっているのを知って体型のことで傷つくことを心配するママ・エドナ。自分も同じことで深く傷つけられてきたからだろうなぁ。

娘のことも妻のことも愛しているパパ・ウィルバーはトレイシーの背中を押してあげる。
彼は人のことも世の中のことも信じたい人なんだなぁと思いました。希望が彼の生きる糧なんだろうなと。
きっとこの時、なにかあれば全力で娘を助けてあげる覚悟をしたのだろうと思います。
そして実際に娘のピンチに自分の長年の努力の結晶である店を売ってお金を工面してあげていたから。
娘だけを救出するのは娘のためにならないとわかっていて無理をしたんだよねと思います。

そんな両親に育てられたトレイシーは屈託がなくおかしいことはおかしいと感じ、迷わずまっすぐに行動できる17歳。
シーウィードたちが置かれている状況は「馬鹿みたい」だと思ってなんとかしようと立ち上がる。

トレイシーが大好きな人気番組「コーニー・コリンズ・ショー」には月に1回「ブラック・デー」というのがあって。
トレイシーにとっては月に1回限定の特別な、クールでエキサイティングな「ブラック・デー」なのだけど。
でもシーウィードたちにとっては、週6日の「コーニー・コリンズ・ショー」の中で月に1度だけ許される「ブラック・デー」。
なんども掛け合って、なんど拒否されても諦めずに掛け合ってやっと勝ち取った月1回だと、シーウィードの母親で「ブラック・デー」の司会をしているメイベル(エリアンナさん)は言っていました。
しかも白人の出演者と一緒に出演するのじゃなくて、アフリカ系の彼らだけが出演する月1回。共演NGという時代なんだなぁ。
その月1回だっていつ簡単に奪い取られてしまうかわからない脆いものだってわかっている。
舞台の終盤でメイベルが歌うソウルフルな魂の叫びのような「I Know Where I've Been」はとても感動的でした。

当事者として散々戦ってきたであろうメイベルから見て、当事者ではないのに熱くなるトレイシーはどう映るのだろうと考えました。
トレイシーの思いつきによる「親子デー」への参加とか。
白人との共演が認められていない状況で、娘リトル・アイネスと母娘としてエントリーしようとすることが、どれだけマジョリティ(世間)から拒絶を受け、どれだけ傷つかなければならないか。メイベルはよく知っていると思います。それによって娘もどれだけ傷つくか。
それでもいま気づきを得たばかりの後先考えないトレイシーの提案にYESと言える彼女はとても勇敢な女性だと思いました。
闘い続けなければ今はないことを知っているからかな。
トレイシーが当事者ではないからこそ、その彼女の行動や気づきに未来の希望を見出したのかな。
私だったらムカついてしまうんじゃないかなと思って、なんて寛容な人だろうと思いました。

そして突然娘から一緒に「親子デー」に参加すると言われて尻込みするエドナをチアするためにメイベルが歌う「Big,Blonde and Beautyful」の力強さにも感動でした。

エドナは心優しいがゆえにたくさん傷ついて大人になった人なのだろうなと思いました。
さらにその体型を理由に傷つけられ自信を奪われ、夢を諦めた人じゃないかな。自分にも夢があったと語っていたけれど。
彼女の両親やきょうだいさえも、彼女を傷つけた側かもしれない。
だから娘のトレイシーには、彼女を傷つけるようなネガティブなことは言わないようにしているのかなと思いました。

その甲斐あって、トレイシーは自分の体型のことも気にせずにTV番組に出たいと言える子に育ったし、理不尽さに憤りなんとかしようとするようなポジティブで明るく正義感の強い女の子に成長したのだと思います。
けれどもエドナ自身はシャイで傷つきやすい心のまま。
TV番組に出たらまたたくさんのネガティブな言葉を投げつけられるに違いないと尻込みする。彼女の中の傷ついた少女が泣いている。
その悲しい少女を勇気づけた歌が、メイベルの「Big,Blonde and Beautyful」なんだなぁ。
メイベル自身もどれだけ傷つけられてきたか。
そんなメイベルにはエドナの気持ちがわかるし、だからこそエドナもメイベルの歌のメッセージを受け取れたんだろうなぁ。
勇気を振り絞って娘の願いのためにTV出演を決意する。
とても感動的な場面でした。

ヴェルマもまたエドナたちと同年代に生まれて、少女のころからずっと自分の価値はその容姿と生まれにあると思い込まされてきた人なんだろうなぁ。
それを娘のアンバー(田村芽実さん)に押し付けようとしているけど、それは娘を幸せにはしないんじゃないかなぁ。

キレキレに踊ってかっこつけるリンク(三浦宏規さん)、勘違い男スレスレだけどカッコよいから受け入れてしまう。
ラストに自分は馬鹿だった何もわかってなかったってことを言ってたけど、それは決して彼だけのことじゃないんだよなぁと思いました。
ヴェルマやアンバーは極端だけれど、本当はみんなが現状が当たり前だと思ってる。人種分離もふつうのことだと。
人種分離を「馬鹿みたいだと思って」とはっきり言えるトレイシーが登場するまでは。
トレイシーのおかげで気づくことができたのは、彼だけじゃないんだよねと思いました。

ラストはトレイシーが優勝してリンクともハッピーエンドで、これでめでたしめでたしかなと思ったら、彼女が将来の夢として大学に通いたいと宣言するところも好きでした。
60年代の女の子としては、やっぱり彼女は先進的だと思います。
その姿こそ、「これが未来だ」と。

偶々娘と一緒に見たせいも大きいかと思いますが、すべての母親と娘たちへのメッセージが込められた作品だなと思いました。

| | コメント (0)

«ぜんぶわたしだ。