檻。
分冊文庫版『鉄鼠の檻』(一~四)を読みました。
初読の時もとても感銘を受けたと記憶していますが、やはり面白かったです。
めしいた人が雪道で行く手を阻む障害物に遭遇し、杖で突いたり足でまさぐったりしていると、行きずりの雲水にそれは人の屍体だと告げられる。
しかも「拙僧が殺やめたのだ」と。
まさかと訝しんでいると、それは牛だと言われる。でもそのような大きさではない。
さらに鼠だとも言われる。そのような大きさでも勿論ない。
果たして。
言葉遣いや物腰から僧侶だと思った相手が本当に僧侶であるのか。
めしいた人はぞっとして一目散にまろぶように山を下りる。
そんな冒頭のエピソードが象徴するようなお話でした。
京極堂が謎を解いた訳でもない。
彼は禅についてレクチャーし物事の筋道をつけただけ。
わかるかわからないかは、それを聞いた人間、読んだ人間次第です。
・
箱根山連続僧侶殺人事件――
事件としてはそうなんだろうけど、これは関わった一人一人が、自分がはまっている一つの段階から目覚める心の模様を描いた話でした。
ある僧侶、ある警部補、ある古物商、彼らのそんな姿に接しながら、客観的に判じたり、共に目覚めたりという精神的な面白さに憑かれたようにはまるお話でした。
『魍魎の匣』で虎の着ぐるみを着て空威張りをしていた石井警部が、先の事件(『狂骨の夢』)を経て、この作品では彼なりに逞しくなっているのも、わたし的にはちょっとうれしかったり…(^_^;)
10年前の私は10年前の私なりに深い感銘を受けたと思いますが、今の私は今の私として、多分その間の経験の分、このたびは深く自分の中に納まったものがあったように思います。
直近では、自ら囚われていた宝塚ファンの檻ゆえに。
やはり体験にまさる気づきはないなぁ。しみじみ。
檻の中はある意味楽園。
そこを出る時、そこが崩壊する時、軋轢や葛藤が起きるもの。
宝塚という檻の外に出た悠河ちゃんも、たぶんいろいろな心のきざはしを上っている最中なのかなぁと思ってみたり。
今回の榎木津も素敵でした。
僧「釈迦も弥勒も彼の下僕に過ぎない――さあ云ってみろ――彼とは誰か」
榎「ぼくだ」
迷える禅僧が投げる「公案」にいとも簡単に即答する榎木津に喝采。
能天気そうに見える榎木津だけど、決して「からっぽ」なわけじゃない。
アウトプットが人と異なるだけ。(インプットもか)
彼は真実しか言わない。
真実を潔く引き受ける生き方(ほんとーか?)が好きです。
こたびはさすがに、千頁以上の文庫を持ち歩くのは重いので、諦めて分冊版を購入。
分厚い本よりもモチベーションは下がるなぁ。。。(^_^;)
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