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2012/01/31

SOMEBODY TO LOVE.

青山円形劇場で見た「GULF -ガルフ-」の
またまた感想です。
前回あらぬ方向へいってしまったので仕切りなおし!
というわけじゃないんですけど…^^;

 

内容的には、
生きているのが苦しくなるからふだんは考えないようにしていることを
あらためて呼び起こされてしまうような、
ちょっと辛い、心に痛みを伴うそんな感じの作品。

 

ニート男の誠(敦士さん)とIT企業幹部の真澄(大和悠河さん)という
2人の極端な性格の登場人物の掛け合いで、
最初は微笑ましくテンポよく、面白可笑しく進み
徐々に不穏と懐疑に包まれ
そして緊迫。
そして融和の兆しを見せて幕となる。

 

融和の理由がちょっと不明瞭な気はしないでもないけれど
そこは、見た人に任せられたと思ってたらいいのかな。

 

漠然とした不安、孤独。懐疑。
それがあるからブンガクやエンゲキやロックは生まれ
人のココロを掴むのかもしれない。
そしてオウム真理教のようなカルトもまた
同じものを根源として生まれる。
そういうことを改めて思い出させてくれた作品だったかな。

 

湾岸戦争の映像は、人々の心に正体のない「万能感」を植えつけた。
地球的な出来事を俯瞰して神の目線で見る現実感のなさ。
やがてくるネット社会がそれをさらに加速させる。
それは誠の心にも真澄の心にも、確実に影響を与えているみたい。

 

2人は、性格も立場も両極端だったけれど、
どちらも多かれ少なかれ誰の心にも棲んでいる思いであり、
それがカタチになったキャラクターなのかもしれないな。

 

誠のことはけっこう理解できた気がする。
21歳から働いたことがない34歳のニート男。
親にも、社会にも甘えてる。

 

でも彼は彼でカラダを張って、親が社会が自分をどこまで許すのかを試している。
そんな気がします。

 

それはきっと誰にでもある些細なことからはじまって、
これはOKなんだ…これもOKなんだ…これも?と思ううち、
どうやら親との決定的な対立を経験しないまま、ずるずると10年以上続いたらしい。
イニシエーションを受けぬまま。

 

自分が“ニート”であると気がついた彼は、ニートである自分に存在意義を
みつけなくてはいけなかった。
それが“ネットの番人ヘイムダル”の役割り。
それが彼の居場所。

 

顔は見えないけど確かに向こうに居る人々に向かってキーボードを打ち、
それに反応が返ってくる快感に酔い、
さらに煽り、賛同を得て、彼はその立場を捨てられなくなった。
衣食住に不自由がなくネット環境があれば、充足して生きていられる。
ある意味人間の欲求のかなりが満たされている状態だよね。

 

そんな生活がやがて破綻することを考えなければ
それはそれで、やっていけるのかもしれない。

 

不思議なのは、どうしてそういう誠と共同生活をしようと思ったのか
真澄さんは…
ということ。

 

友人が欲しかったからと真澄さんは言った。
同性とは友人にはなれないと真澄さんは思っている。
(同性と会話を合わせるのは苦痛らしい)
恋人はいつか別れなくちゃならないでしょ?と真澄さんは言う。
だから、「異性の友人」なのだそうだ。
フーン。

 

ニート生活の募集に「ヘイムダル」である彼が応募してきたから。
だから真澄さんは彼を選んだんだよね。
(それにプロフィールに「女に興味がない」ってあったし)

 

真澄さんは、自分が作った巨大匿名掲示板「クスクス」の存在意義にも
懐疑的になっているよね。
自分が作ったモノの正体を知りたいというのも、誠を選んだ理由ですよね。

 

誠が21歳のときというと、真澄さんは19か20歳。
その頃つくった匿名掲示板が2011年現在もつづいているってすごい。
時代的に1997年頃か。
今は亡きあめぞうができた頃だなぁ。
(某ちゃんねるの前です。というかあめぞうの後続が某ちゃんねる…)
や、これはすごいです。真澄さん…!

 

恋人もその頃できたのね。
大学生の頃に。
共同経営者になって何年続いたのかな。
友人がいないといって同性の友人がいたのね。
(ちょっと話に矛盾を感じました)
恋人が彼女に心変わりした?

 

同性の友人も、恋人も作る気がなかったのにその頃初めてできて、
その友人と恋人が恋愛関係になってしまって
友人と恋人を一度に失いました、という解釈でいいのかな。

 

以来人間不信に拍車がかかったと。

 

真澄さんも、IT企業の社長といっても
「大人社会」で揉まれたわけではないのですね。

 

学生時代につくったネット掲示板が当たって、
そのまま起業して今に至る―――
社会的影響が大きいモノをつくったわりには、心は傷つきやすい無垢のまま。

 

傷つきやすいからスーツという鎧に身を覆って、
寝ているときも鎧を纏って
家でもルームランナーで走り続けて
自分自身を酷使しながらずっと突っ走ってきたのに、
どうしても超えることができない壁の前でもがいてる。

 

その壁は1人では越えられないんだな。
いや乗り越えるのは1人でなんだけど
他人を、つまり自分を、受け容れることを畏れているうちは乗り越えられないもの。
きっとうすうす真澄さんもわかってるんだろうな。
だから、こんな「荒療治」に出た。

 

ある意味とっても魂がちかくて、
とってもかけ離れた立場の誠という人物との共同生活で。

 

そして彼の前に、いままで誰にもさらけ出せなかった厭な自分の姿をさらしたことで
やっと次のステップに踏み出せたのかなと思うのです。

 

彼女の厭なところって、自己陶酔して他人をアジテートするところ。
自己満足して振り返って見せたドヤ顔にいろんな意味でゾッとしてしまった。
抑圧されていた彼女の自己愛が、とても厭な形で増幅されて
もの凄い支配欲と渾然となって夜叉のように見えた。
でも凄絶に美しくて魅入られそうになったんだけど。

 

大勝利の凱旋の余韻に浸る彼女を
誠がバッサリと斬る。
彼女がやったことは全く意味がないと。
なぜだかわからない真澄さん。

 

人生は虚勢を張って勝ち続けることだと思っている阿修羅のような真澄さん。
自分の本音が他人に(社会に)受け容れられることが大事なマコっちゃん(誠)。

 

「人間は弱~い生きものなんだゾ」

 

マコっちゃんにそう言われて、
真澄さんのまわりにある透明のバリアが
瞬時に分厚くなったのが見えた気がしました。
傷ついた心を守るかのように。
自分の中の何かが崩折れそうな焦りを隠すかのように。

 

それからの攻撃的な真澄さんは、一言でいうと「可愛かった」。
私は手負いの生きものに弱いのです…^^;
弱った生きものが。
ああ大好物が目の前に・・・(ウハウハ)

 

中途半端に社会的に立場のある人間じゃなくて
ニートのマコっちゃんに言われることに意味があったんだなーと
あとになって思いました。

 

あの1人の空間で、真澄さんもいろいろと考えたんでしょうね。
もう、マコっちゃんの前では虚勢を張らなくていいのだ。

 

あのお着替えには驚いたけど。

 

「1人の時は着ている」
えーーー??? ドルガバのベアトップを????
どーゆー人なの?
と思ったけれど、そーゆー人なのね。
スーツをパジャマにしちゃう人だもんね。

 

やっぱりズレた人なのだ。
これじゃー生き辛かろうよ。

 

でもそのズレも愛おしい。

 

「恥ずかしいんだよ
もっと恥ずかしがってください
可愛いから

 

真澄さんは「普通」がよくわからないみたい。
「普通」のやり方を知るためにマニュアル本を読んで勉強したり。
だから、カフェでオトモダチとトークなんて苦手中の苦手なんですね。
ガールズトークで重要なのは内容じゃなくて、「同調」だから。
それも経験値を積めば意外とできるもんなんだけど。
苦痛を押してするほどのものではないけど
大事な情報が意外と聞けたりするものなんですよ。
井戸端や給湯室っていうのは、そういうところ。
(と私は割り切ることにしています)

 

真澄さんとマコっちゃん、渋谷でどんな会話をするんでしょうね(笑)
割り勘だから、シャンパンなんて頼んじゃダメですよ、真澄さん。
マコっちゃんが困るから。
マコっちゃんが振った話題に
「知らない。別にどうでもいい」とか言っちゃダメですよ。
いや、いっか(笑)。
それでマコっちゃんが怒ったら怒ったで、そこからコミュニケーションがはじまるし。
いろいろ考えたら楽しいです。

 

 

円形劇場は、円形の舞台を客席が囲むかたちで
私は5公演見ましたが、それぞれ違う方向から見ることができました。

 

たぶん正面にあたるのがAブロックだと思いますが、
ここでは、真澄さんのアジテーションが真正面で目が合ってビビりました。
他にも、真剣な表情でとくとくと話す場面とか目を離せなくて蛇に睨まれた兎状態。
耐えられず、目、離していいスかーーー(><;)と。
あと靴を脱ぐシーンもさりげなく素敵でした。ちゃんと靴べら入れておくのね。

 

そしてAブロックは寝顔がもう…じゅるる…。
あんな綺麗な寝顔をする人めったにいないでしょう。もう眼福眼福。
白いシーツにお化粧がつかないように、肘をあげてお布団を被っているとこも
もう可愛くてきゅ~ん

 

反対側のブロックでは、アジテーションのあとに振り返ったときの
なんとも勝ち誇ったような満足気なドヤ顔に見蕩れました。
毒のある表情がゾッとするほど美しくて。

 

マコっちゃんに向かっては虚勢を張って笑いながら話したあと
反対側を向いたときの苦しそうな真顔に、
真澄さんの本心がチラ見えするような気がしたし、
ルームランナーでひたすら走っている表情を見ていたら
なんだか胸がいっぱいになってうるっときてしまいました。
それらは一方向からではきっと感じることができなかったと思います。

 

「馬鹿でありがと」は後ろ姿で聞くと、表情を見て聴いたときとは
別の気持ちが見えたように思いましたし、
ベアトップは間近で見るとひぇぇっでしたし(笑)。

 

なんともいえないお得な体験をした5公演でした。
できれば、また再演していただけたらなぁと思います。

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