時は今。
6月9日(土)に「六月博多座大歌舞伎」夜の部を見てきました。
三代目中村又五郎さん、四代目中村歌昇さんの襲名披露公演でした。
同行の友人と昼の部夜の部どっちにしようかと迷いましたが、
仁左衛門さんの光秀と、お猿さんが可愛い「靱猿」が歌舞伎ではどうなるのか
見てみたいねってことで、夜の部を見ることにしました。
鶴屋南北作「時今也桔梗旗揚」二幕(本能寺馬盥の場、愛宕山連歌の場)は
仁左衛門さんが武智光秀(明智光秀)、梅玉さんが小田春永(織田信長)でした。
わざわざ名前を変えて本が書かれたのはどうしてでしょうね?
春永は、真柴久吉(羽柴秀吉)から贈られた、馬盥に水を張り轡に錦木を活けた生け花を
忠誠の証と誉めるのに対し、光秀が花の色が移ろう紫陽花と昼顔の生け花を贈ったことに
難癖をつける。
春永の心には、自分の栄華が永く続くものではないという思いがどこかにあるのかな。
頂点を極めたからこそ盛者必衰の思想が打ち消せず、彼の心を蝕んでいるのかも。
そんな折、他でもない光秀にこの生け花を贈られて、心の暝い部分が表出したような。
狙って贈ったのではないなら、光秀ももうこの時点で春永の気持ちが
わからなくなってるような気がする。
心の闇に支配されつつある春永は、久吉みたいな、わかりやすーい人が好きみたいなの。
腹を探らなくても、すぐわかる気がするタイプが。(ホントに久吉がそうかは知らないよ)
尻尾があるなら、思い切り振って見せることができる、
お望みとあらば、おのれの馬鹿さ加減を曝け出して見せられるタイプが。
しきたりや理にのっとれば、いつだって光秀の言うことがが正しい。それはわかっている。
そうじゃなくて、お前は俺をどう思うのか。
それが、春永が相手に対して知りたいことなんだろうな。
しばしば、人を信じられなくなっている、王座にいる人がそうであるように。
けど、それを問いかける術をもたないから、あんなシチュエーションで
光秀を試しているような気がする。
でも光秀は育ちがいいから。
腹に据えかねても、あんな場で態度には出せない。
馬盥に注がれたお酒を飲めと言われて飲み干して、
光秀が前から欲しがっているのを春永も知っているはずの名刀が
目の前で他の人に授けられるのを黙って見て、
昔、わずかなお金で売った奥さんの切り髪を満座の前で見せられ恥辱に震えても
じっと堪えている。
その堪えているところが、春永が光秀を信じられない所以なのだろうな。
本心を曝け出さないところが。
人の心って本当にさまざま。
久吉ならば、上手に座興にしてしまって、笑われても春永を満足させる言動をとるんだろうな。
ひとつひとつのことが、
春永と光秀の心が、立ち位置が擦れ違ってしまっていることを表していてつらい。
昔はその知識と教養こそが春永をたすけたのでしょうに。