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2013/12/14

ぼくはもう何も聞きたくないんだ。

お茶会に合わせて、12月8日と12月11日の
東京宝塚劇場宙組公演「風と共に去りぬ」を見てきました。

東京公演の初日あけてすぐの11月23日、26日に見たときと比べて、
かなめさんのレット・バトラーのテンポがかなりちがっていました。

脈が遅いというか、落ち着いているというか。
敏捷さを隠した、しなやかな緩慢といいますか。

記憶の中にある宝塚大劇場で見たレット・バトラーは
それに比べると、息遣いがまだ速かったと思います。
そこが、「どこか軽い」かんじにつながっていたのかもしれません。

いまは、足取りも息遣いも緩やかで、でもスーツの下には猫科の筋肉が。
という雰囲気で、身のこなしが、私が考えるレット・バトラーそのものでした。

いやはやもう、どうしたらよいかわからないくらい、好きでした。
思えば、演目が発表になったときには、あんなにヤサグレていたのに。
こんなに、かなめさんのバトラーに胸が疼いてたまらないことになるとは。

かなめさんのことだから、きっとまた、モンテ・クリスト伯のときのように
作り込んで、入り込んで、私を夢中にさせてくれるだろうという期待は
もちろんあったのですが、それにしても、こんなレット・バトラーを見せてくれるとは
ここまでとは、思っていなかったです。

今回見た8日と11日は、七海ひろきさん(かいちゃん)スカーレットのBパターンの上演で
11日はBパターンの楽でした。

かいちゃんのスカーレットが、ムラ(宝塚大劇場)で見たときとはだいぶ印象が変わっていました。
ムラでは、『バトラーの掌で踊らされているスカーレット』(ゆうがにちゃん談)でしたが、
それが、今回は自立したスカーレットになっていました。
大人っぽいスカーレットでした。

私がムラで見た日は、Bパターンになって間もない頃だったので
ペース配分とかはあまり考えてなさそうな、がむしゃらな演技と
同時に、バトラーのかなめさんにすがりつくような、バトラーがいなくてはダメそうな
そんなスカーレットに見えていたのですが、それがなくなっていました。

プリシーを叱るときも、毅然とした印象が際立っていましたし
バトラーとも対等な気持ちで向き合っているスカーレットに見えました。

2幕のさいしょのほうで、アシュレに拒絶されて「私には何も残っていないんだわ」
というときの言い方も、ムラのときとは印象がちがって聞こえました。

あのあたりはセリフも多いせいか、いま考えるとムラでは、そのセリフの量に
追われていたんじゃないかなぁと。
見ているほうの私も、そのセリフの量に追われてしまったのもあるのかもしれませんが。

今回は、アシュレが一度は自分に衝動的なキスをしながらも、思いとどまる時の
アシュレへの不可解な気持ちや、アシュレに君の完全な無慈悲を愛していると
告げられた時の不本意な思い、そして失望などが、言葉の調子や面持ちから
感じとれるスカーレットでした。
そして、自分にはタラがあると言うあたりから、なんだかスカーレットの雰囲気が
変わった気がしました。
アシュレよりも大きくかんじました。

そうすると、そのあとの幕前の、スカーレットⅡとの対話がとても納得できて
なんだか、すごく腑に落ちるかんじがしました。
「あんな人だったかしら」の意味がわかる気がしました。

Aパターンでは、悠未アシュレがとても細やかに内面を表現していたので
すごくアシュレの気持ちに共感したのです。
そのアシュレの気持ちをスカーレットがわからないことも歯がゆいというか。
(「風と共に去りぬ」アシュレ編な気がしたゆえんかな)

Bパターンの朝夏アシュレは、自分の内面と外の世界とに隔たりがあるアシュレでした。
彼の中には、彼の行動原理があり彼の道理があるのかもしれない。
だけどそれは彼の頭の中のこと、意識の中のことであって、
スカーレットとは別の次元のものである、という印象でした。

目が、目の前のスカーレットじゃないものを見ているような。
スカーレットという魅力的な生身の女性への肉欲に葛藤する悠未アシュレに対して
自分の内的世界と相容れない己の「想念」に葛藤する朝夏アシュレという印象。
(男性としてリアルな悠未アシュレと、精神性の高い朝夏アシュレ)

だから、アシュレのことが、スカーレットに理解できなくて当然に思えました。
スカーレットとは違う内的世界を生きている人なんだなぁと。
決定的に、2人はちがう世界の人なんだと思ったんです。

Aパターンのアシュレとスカーレットはそこに見えるものが「わかりやすい」2人。
Bパターンのアシュレとスカーレットは「文学」の香りがする(抽象的^^;)な2人かな。

おなじお芝居をしているのに、こうも印象がちがって見えたのがおもしろくて。
演じている人たちが、表面上ではなく、心を入れてお芝居をしているがゆえに
こんなにちがって見えるんだろうなぁと思うと、本当にこの役替わりを見れて
よかったなぁと思いました。


ムラとは、スカーレットが変わったことで、バトラーもまた大きく変わって見えました。

スカーレットのことが可愛くて、スカーレットの力になってやろうという気持ちが強く見えた
そんな気がするムラのBパターンのバトラーが、東京公演では
スカーレットのことを一歩引いて見守っているバトラーになっていたような気がします。

ラブラブなかんじは減ったけれど、すごく『スカーレットとバトラー』だなぁと思いました。

ベルの部屋で、スカーレットのもとに行くことを決断したその瞬間の身のこなしが素早くて
あっと思いました。ドキっとしました。
たったいままで、情婦を抱き寄せていた人なのに・・・その変わり身ときたら。

このときスカーレットへの愛を、強烈に感じました。
一見してラブラブではないけれど、
秘めていた愛が瞬間的にひらめいてまた身の内にもどったような。
大人の男の愛。

階段を降りていく足取りも、俊敏だけどしなやか。しっかりとした筋力を感じさせて。
見るからに、大人の男性でした。
(楽屋入りではあんなに細い人なのに~~~~)

馬車を御する姿、上着と鞭を置く姿、スカーレットの顔を引き寄せる手、
ひやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
ピストルを手にスカーレットの肩を掴み、道を指し示すときの横顔、
うひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。

戦闘のシーンの身のこなし、テンポも、ムラで見たときよりも、
11月に見たときよりも、レット・バトラー度が増していました。
かなめさんのレットを見れてよかった・・・いまは、それしかありません。

その、誰よりも頼もしくて、誰よりも強く大きく見えていたバトラーが、
酒に飲まれて、捨てられた子犬のような目でマミーを見上げる・・・。

余裕で世の中を嗤っていたような男が、嫉妬に狂ってスカーレットをなじる。
嫌がる彼女をムリヤリ寝室へ連れて行こうとする。
いつもの彼ならみっともなくてできないようなことを。
あのレット・バトラーが我を忘れて。

このかなめさんの迫真はすごい。
ほんとうに、そこにいるのは嫉妬に我を忘れたレット・バトラーだ。
いやらしさとせつなさが絶妙な。

そして、メラニーとの場面。
ほんとうに、いい芝居をする2人だわ。
この醸し出す雰囲気は無二だわ。

「あなたは心ない人の噂をしんじるのですか」
そのことばに込められたメラニーの内なる気持ちをわかるのは、
きっとバトラーだけだろう。
2人にしかわからない思い ――

メラニーとはわかり合えるのに、スカーレットには届かない思い。
でも、スカーレットなんだ。
涙が光るバトラーのその苦しげな表情がたまりませんでした。

メラニーが亡くなり、居間に飛び込んできたスカーレットに素通りされる場面のバトラーが
ムラで見たとき、11月に見たとき、そして今回と、変わっていました。
ムラでは、思わぬなりゆきに傷ついた表情が記憶にありましたが、
11月に見たときには、片頬を微かに上げて自嘲しているかのように見えていました。
でも今回は、片頬は微かに上がるものの、もう嗤いにもなっていない。
その前に表情を正して無表情で出て行ってしまった。
なにかがもう、彼の中でクローズしてしまった。
そんな雰囲気でした。

家を出て行くとき、スカーレットにかける言葉は、
もう責めるでも糺すでもなく、
諦観して、事実をそのまま言い諭すような、
一見穏やかなようで、もう誰にも動かされない響きがありました。
(ムラのときは、まだ言葉の中に怒りを感じさせていた気がするのですが)

それは怒りよりも嘆きよりもせつなくて、
ここに凰稀かなめのレット・バトラーが存在する意味を感じたような気がしました。

なんだかほんとうに、せつないレット・バトラーでした。


Bパターンの楽は終わり、宙組の「風と共に去りぬ」は12日からAパターンに。
もう私は見ることはできませんが、またさらに変化し、深化していることだろうと思います。

ぜんぶではありませんが、凰稀かなめさんのレット・バトラーをムラのB、Aパターン、
東京のA、Bパターンと日にちをあけて見ることができ、その変化を感じることができて
ほんとうによかったなと思います。

この宙組の「風と共に去りぬ」が千穐楽まで、さらにさらに、深まって
たくさんの人の心に何かを残していきますように。

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