その花は、悔いなく生き―――神話となる。
かなめさんのお茶会に合わせて7月13日から17日と、楽に合わせて7月26日、27日に
東京宝塚劇場にて宙組公演「ベルサイユのばら-オスカル編-」を見ました。
お茶会では、ステージ上で有志が、かなめさんをお相手に
オスカル、アンドレ、ジェローデルのそれぞれの役に挑戦するコーナーがありましたが、
挑戦者に、『演技指導』をなさったかなめさん、
ノリノリに面白可笑しくご指導なさっていた、その説明がとてもわかりやすくて
かなめさんの解釈をもっともっと聴いてみたいなぁと思いました。
いつもお茶会で役についてはいろいろとお話してくださいますが、
『演技指導』という名目により、いつもより具体的に細かに、そのシーンのその役の
そこにいたるまでの心情などを語ってくださり、
こんなにも深く考えて演じていらっしゃるんだなぁということを直に感じることができ
感動しました。
お茶会の翌日は休演日だったので、私は東銀座へ歌舞伎を見に行きました。
7月の歌舞伎座ではイヤホンガイドで玉三郎さんのインタビューを聴くことができました。
そのインタビューの中で、難解な泉鏡花の世界を
どうして玉三郎さんはこんなにも深く理解されているのかという質問に対して
玉三郎さんは、演じることで何百回も『体読』をしているからだとお答えになっていました。
『体読』とは初めて聴いた言葉だなぁと思いました。
玉三郎さんオリジナルでしょうか。
『音読』よりもさらに具体的に、その場面に自分を置いて
物語の状況やその中の人々の心を感じとって、自分の心と体が動いて行く。
そうすることによって見えてくるものや啓けていく未知の境地があり、
ただ文字を読んでいるよりも、深く深く登場人物のことを、世界観を
そして作者の魂を感じることができる。
そんな体験を、なさっているのだと理解しました。
そしてその『体読』は、それをする人の人間的な深みによってさらに、
いかようにも深まって行くのだろうなぁと。
かなめさんも、いままさにこの『体読』をなさっているのだなぁと思いました。
その繊細な感受性と聡明さと探究心が、その『体読』を深めているのだろうなぁと。
しかも好き勝手に『読む』ばかりではなく、演出家の先生と意見を交し合って
これだという『像』を見出し、何千という観客の前でその役を生き抜いて見せる。
繰りかえし繰りかえし。
そうすることによって、ただ読むだけの私よりも何倍も、オスカルという人の気持ちを
「ベルサイユのばら」の世界を、その身で理解されているのだなぁと思いました。
その1回1回をけっしておざなりに流さす、毎回心を動かし生き抜くところが、
かなめさんの尊いところだなぁと思います。
だから私は、彼女に心を射抜かれたのだ ―― と、あらためて思い知りました。
見るたびごとに何度も何度も、心を射抜かれるのだと。
・
舞台の1回1回を、全身全霊で心と体を動かし生き抜くひとだから、
まわりの人びとが役替わりをすると、かなめさんが演じる役から見えるものもまた
相手に呼応して変化を見せるのだと思います。
「風と共に去りぬ」のレット・バトラーでもそうでしたが、
この「ベルサイユのばら-オスカル編-」でも、対するアンドレやジェローデルが
役替わりをすることで、かなめさんのオスカルも変わっていました。
緒月遠麻さんアンドレに対しては、恋心の初々しさよりも信頼感や安堵感が
感じられるオスカルでしたが、それは緒月さんが醸しだすものに呼応して
にじみ出てきたものだと思います。
緒月アンドレはつっけんどんだけれど、さいごのさいごは決して彼女を裏切らない。
そのことに対する信頼と自信の揺るがないオスカルでした。
ムラのBパターンのさいしょからそうだったと記憶しています。
「一生愛しぬくと誓うか?!」という緒月アンドレへの悲痛なほどの問い掛けも、
それまでの緩く温い安心感のある関係から、男女の関係へと身を投じようとする
彼女の覚悟がにじみ出ているように感じられました。
それくらい、それまでの関係が自覚のないほど「近く近く魂を寄せ合って」いて、
それを変えるのに勇気がいるのだろうなと。
東宝の楽近くの朝夏まなとさんアンドレに対してのこの場面のオスカルには、
恋に身を投げ出す歓びや甘えのほうがよりにじみ出ていたように思います。
私はそれにキュンキュンしたのでした・・・(^_^.)
どちらも、そのひとが演じるからこそのアンドレを打ち出してきて、
それに対するオスカルの心の動きも鮮やかに見えてきて、
そうするともう、あとは「私自身の好み」の問題です。
私は、恋人にするならまぁドレ(朝夏さん)、女房にするならきたドレ(緒月さん)かなぁ。
(女房はいつもさりげなく面倒をみてくれそうだけど耳に痛いことも云いそうだ・・・^^;)
(甘い夢を見るならまぁドレかなぁ♡ あくまでも好みで)
そんなことを語れることのうれしさ。
ジェローデルの役替わりもまたオスカルを変えていたと思います。
身のこなしの優雅さとナルシズム。
一見するとかっこつけだけの優男にも誤解されそうだけれど
揺るがないプリンシプル(行動原理)に貫かれた男。
言い訳をしない男。
そんな朝夏ジェローデルには、オスカルも無口な肯きを返していました。
むしろジェローデルが身を引いたあと1人になってからのほうが饒舌なオスカルでした。
「人間なればこそ、そんな愛も」のモノローグに万感の思いをこめ、
ジェローデルから受け取った愛に輝きながら頬を濡らして『愛の巡礼』を歌う姿が
えもいわれぬほどせつなく美しいオスカルでした。
かいちゃん(七海ひろきさん)は優しいジェローデルでした。
オスカルの言葉を柔やかに聴き微笑む、相手への共感性の高い人柄がでていました。
そんなジェローデルに対するオスカルの心情を語る言葉もゆっくりめで穏やかで、
そして鮮やかだったのが、「いや、兄弟以上に・・・」のところの「いや」のところで
さっと表情と声色が変化し、いままさにジェローデルに語ることによって、
彼女自身に気づきの瞬間が訪れた、と見えたところです。
相手が替わることで、感情のピークや見せ場が変わる。
その両方が見られるこの悦び。
役替わりの醍醐味だなぁと思いました。
私は博多座「銀河英雄伝説」のラインハルトの孤独に惹かれ
かなめさんのファンになりました。
あのラインハルトには、孤軍奮闘の悲壮感がありました。
信じるべきキルヒアイスの真情さえ見失い、進むべき道をも
見失いそうになっていたラインハルト。
ただ独りで高みに向かい足場の危うい場所で必死に踏みとどまりながら、
それでもなお独りで前に進もうとしていたラインハルト。
その背中が、その魂が、たまらなく私を惹きつけました。
あれから1年と6ヶ月後のこのベルばらオスカル編のかなめオスカルには
孤独の影はありませんでした。
皆の愛に支えられ、その愛を全身に受けるオスカルがそこにいました。
なんだかそのことに、このオスカル様の姿のうえにあのラインハルトが思い起こされて
私はたまらなくなって涙してしまっていました。
オスカルとラインハルトはぜんぜん違う物語のぜんぜんちがうひとなのに。
でもどちらにもかなめさんの心がほんとうに動いていたから。
その2つの心は、やっぱりどちらもかなめさんの心だったから。
うれし涙でした。
皆のことを真剣に考え思い悩むオスカルの姿にも、私は涙してしまっていました。
それは、雪組特出のオスカルには見られなかったものです。
あのオスカルには皆の心をまとめる責任はなかったから。
いま、この立場にあって、この「ベルサイユのばら-オスカル編-」を
かなめさんが演じていること。
舞台の中心で、宙組の皆に見つめられ、支えられながら。
宙組の1人1人が一生懸命に舞台の上で役を生きこんなに輝いて見えるその真ん中で
力の限りにオスカルという人生を生きている姿に胸がいっぱいになっていました。
私にとってこの宙組の「ベルサイユのばら-オスカル編-」は、
その物語に出てくる人々の生き様を通して、そこに生きるかなめさんや宙組の皆さんの
素敵なところ美しいところをあきらけく見ることができた公演でした。
ほんとうに心に残る公演になりました。
かなめさんを信じて、かなめさんのファンでいてよかった。
たった1年と6ヶ月だけれど。私にとっては特別な時間です。
来年の2月まであと半年。
いえその先も。
かなめさんを信じていこう。
宙組の皆を信じて行こう。
そう思います。
まずは凰稀かなめディナーショー『Metamorphose-メタモルフォーゼ-』
そして、まぁさまとみりおんの『ベルサイユのばら-フェルゼンとアントワネット編-』
残念ながら愛ちゃんの『サンクチュアリ』は見れませんが・・・ごめんね愛ちゃん。
そして、10月の大運動会、宙組の応援席で見られたらいいなぁ。
(もし応援席に座れなくても、スカイステージで生中継してくださいますよね?????)
(なんだかあっちへこっちへまとまりのない感想だなぁ。。。)
(読んでくださるひとがいたらすみません。。。)
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