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2015年9月の6件の記事

2015/09/27

元のもくあみとならんとの心なり。


河竹登志夫著『黙阿弥』(講談社文芸文庫)を読みました。

なぜ二代目河竹新七が『黙阿弥』と名を改めたのか。
旧幕時代から明治半ばの移り変わる時代の中を歌舞伎の狂言作家として生きた河竹黙阿弥の心の奥の真の思いを、黙阿弥の孫である著者がたくさんの資料を読み込んで解き明かす本でした。

本邦の演劇(歌舞伎)を西洋の先進国のように上流の人びとが観賞する高雅で社会的地位の高いものにしようと新政府のお偉方が「演劇改良」の名の下に、彼の脚本演出にお門違いな口出しをする。
さらには、彼の役者の意向を汲み宛書をするやり方を「俳優の奴隷」と指弾し、歌舞伎の様式にのっとった時代物を「無学」と蔑む。
それでも歯向かうことはせず忍従を貫く黙阿弥さん。

一つには、人気狂言作家となるまでに、同じ作家や役者、座元などといった人びととの人間関係にもまれてきた彼自身の経験から、相手の気持ちに副い、他人との諍いを避け、慎重に用心深く生きるということが処世術として身についていたこともあると思う。(役者に親切、見物に親切、座元に親切の「三親切」が彼の金科玉条だったそう)

もう一つはやはり時代かなぁと。
武士たちが攘夷だ佐幕だ勤皇だと国の頂をかけて争っていても、江戸の町人や芝居小屋の人びとにしてみたら、将軍の世から天子様の世に変わろうと顔色を窺う相手が変わるだけのことで、時代に応じた商売をしていくのはいたっていつもどおりのことなんだなぁと。
どんなに羽振りのよい役者でも、お上のご機嫌を損ねたら家は潰され家財は壊され、お江戸追放の憂き目。抗えない身分制度の中で生きてきた人びとの感覚が黙阿弥さんにも備わっているのだなと。
「俳優の奴隷」だの「無学」だのと見下されても、狂言作者である以上はいまをときめく権力者に歯向かったりはしない。芝居を守ること小屋を守ることは何にも替えられない大切なことだから、それがなくなっては狂言作家として生きられないから。職業が即ちアイディンティティーそのものの時代の人なんだなぁと。

けれど、そんな人前で感情を露わにし激昂することのない彼であっても、内心は思うところがあったに違いない。
それこそ一字一句にもこだわる江戸狂言作家としての矜持や美学が。
芝居のわからぬ政治家や学者の先生方こそ何ものぞと。
いまは黙っているけれど、いつかまた私でなければならない日がくるならばと。
隠居名の「黙阿弥」に込められた彼の真意――『元のもくあみとならんとの心なり』。
なるほどなぁと納得でした。

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2015/09/23

高坐と木戸銭。


岡本綺堂著『寄席と芝居と』を読みました。

青空文庫をPOD(プリントオンデマンド)したものですが、「シニア版10.5ポイント」というのに惹かれて(^_^.)

綺堂の少年の頃の記憶にある寄席(主に三遊亭円朝の人情噺や怪談)と芝居との関係について書かれた本でした。

明治17、8年頃、芝居は朝8時の開演ということにまず驚きました。
そして7時までに入場すると翌月の芝居が半額になる札がもらえるからと、13、4歳の綺堂少年が4時起きして朝暗いうちに家を出て、狐の鳴き声を聞きながら、野犬に襲われないように竹切れを携帯して芝居を見に行くくだりも。
綺堂の家は麹町、芝居小屋は本郷(春木座)。いまの東京を思い浮かべると信じられない光景です。
そしてそこまでして見に行きたい綺堂少年の芝居好きにも驚きますが、その気持ちもわからなくないなぁと思いました。

噺家というと、『落語』を聞かせる人のことだと思っていましたが、昔は落語(落とし話)だけではなく、人情噺や怪談噺もさかんで、長い話を何夜にも渡って聞かせていたことも初めて知りました。
蝋燭やランプの灯りだけで聴く人情噺、体験してみたいなぁ。(怪談は却下)

そういえば噺家の方が蝋燭の芯切りをしているのをTVかどこかで見たことがあります。
話の途中でさりげなくされたその所作が印象的でした。
円朝といえば「死神」という噺は彼の持ちネタじゃなかったかな。あんな噺を電気のない寄席でしていたのかなぁ。(ぶるる)

綺堂曰く『円朝は円朝の出づべきときに出たのであって、円朝の出づべからざる時に円朝は出ない』
『たとい円朝が出ても、円朝としての技倆を発揮することを許されないで終わるであろう』
時々そういう人が出現するんだよなぁと思いました。

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2015/09/06

門は開かれている。

Kifujinn
今日9月6日(日)キャナルシティ劇場にて『貴婦人の訪問』を見ました。

とても面白い物語で、これはじっくりストレートプレイで見たいなと思いました。

(以下ねたばれします)

彼は善良な家庭の好青年。
彼女は美人だけど父は呑んだくれで母はあばずれと評判。
2人は愛し合い、彼女は裏切られて、酷い仕打ちをうけても誰からも信じてもらえず、蔑まれて、味方もなく、堕ちるところまで堕ちて故郷を去った。

それから数十年、巨万の富を手に入れた彼女は故郷を訪れた。
復讐のために。自分をどん底まで突き落とした故郷の人びとへの。

法廷で疑いもなく彼に味方し、彼女の言い分に何一つ耳を貸さず彼女を『殺した』人びとへの。
『善良で何一つ間違わず生きている人びと』への。

彼女は、目に見えない罪を目に見える罪に置き換えに来た。

罪や過ちの存在を認めない人びと。
あってはならないものは『ない』のだ。
『事件はなかった』 『被害者はいなかった』

文科省の調査に『いじめゼロ』と報告する学校関係者とおなじだろうな。
集団にとって不都合なものはひっそりと抹殺される。

「自分で決めろ」と親切ごかしに親友にピストルを渡された時、アルフレッドは初めてあの時のクレアの気持ちを理解したにちがいない。

市民皆の安全の為に射殺された黒豹は、皆に信じてもらえず『殺された』クレア自身であり、市民皆の安寧な生活の為に死を願われるアルフレッドだ。

だから黒豹の死骸を見つめるクレアの瞳には意味があるのだと思う。
だから、黒豹の死骸とアルフレッドの遺体を覆う布が一緒だったのだと思う。
あの布は――。
あのあたり、もうすこしクローズアップして見たかったなぁ。

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2015/09/05

持てる者も持たざる者も。

曲がった者も真っ直ぐな者も。
単純な者も複雑な者も。
いじけた心も奢った心も。
からだの傷もこころの傷も。
おもいどおりにいかない計画も。
いじめも。何も知らない人も。
在るのがあたりまえ。
居るのがあたりまえ。
ここで
どう生きていくのか。
自分が持っている性質で。

TONOさんのカルバニア物語16巻を読みました。

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つづくをもて家とす。

河竹登志夫著『作者の家 ―黙阿弥以後の人びと―』(岩波現代文庫全2巻)を読みました。
著者の河竹登志夫さんは、黙阿弥の曾孫にあたります。
来年1月に三越劇場で上演予定の新派公演の演目『糸桜』の原作ということで、また、狂言作家の黙阿弥にゆかりの本ということで手にとりました。

偉父黙阿弥が残した劇作を生涯独身で守り抜く決意をした糸女の迷いのない厳しさ強さ。
信州から演劇の研究を志し早稲田大学で学び坪内逍遥の推薦で糸女の養子となり『江戸』を色濃く残す狂言作家の『家』に入った繁俊の忍耐強い孝行。
裕福だけど複雑な商家に育ち繁俊の妻となり幕末そのままのような質素な家で倹約家で気難しい姑に仕えたみつ。
まったく異なる環境で育った3人が1つの『家』で暮らす心意気、潔さ。
与えられた境遇で甘えることなく自律し災禍にも遭いながら『家』という価値観を守り生き抜いている。とても私にはできないなぁ。

そんな狂言作家の家を時代の変化は容赦なく飲み込んでいく。
あらためてつくづくと、関東大震災が江戸文化を焼き尽くしてしまったのだなぁと思いました。暮らしも書物も。残っていたらきっと『いま』もちがう相を見せていたのかもしれないなぁと。
黙阿弥から糸女、糸女から繁俊と、作家の『家』の変化が時代の変化そのものでもあるなぁと。
私の知らない江戸の暮らし。歌舞伎のなかでしか見ることができないもの。それらを知っていたら歌舞伎を見るときもいまよりもっとたくさんの情報を、舞台から知ることができ登場人物の思いもわかるんだろうなぁ。

さて、この資料(本人たちの手記や日記や直伝)に忠実な本がどう芝居になるのかな。
お正月の新派公演がたのしみです。


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2015/09/04

なんとか、それまで生きてみようと思います。

加東大介著『南の島に雪が降る』(ちくま文庫)を読みました。
先月キャナルシティ劇場で見た同名のお芝居の原作です。
お芝居を見て原作を読みたくなりました。

テンポのよい読みやすい文章はさすが舞台俳優さんだなぁと思いました。情景がすうっと浮かんできます。
人が簡単に死んでいくとても悲惨で悲痛な状況にいるのだけど、そのことを細かに語るのではない。
故国を遠く離れて過酷な毎日を送る仲間たちに芝居を見せるために、あの時代あの場所で、多くの制約や障壁のなかで(食糧も物資も健康な体も安全な環境もないなかで)知恵や朗らかさや得意とするものを惜しみなく出し合い、苦手や困難にストイックに立ち向かう彼らの生き様を描くことで、そしてその舞台を必死の思いで見に来る兵士たちを描くことで、あの時あの場所にいた人びとの故国やそこにあった生活への焦がれるような想いをおしえてくれました。
そして憧れや夢見るひとときの貴さを。人にとってそれがどんなにちからになるかを。

作者の加東大介さんはとても温かい目線をもった方だなぁと思います。
お父様が黙阿弥のお弟子の狂言作家であったと知り、なんだかことしは私にとって黙阿弥イヤーだなぁと勝手にえにしを感じたり。
さらに女形姿で兵隊さんたちのアイドルになった前川五郎さんがスペイン舞踊教師として宝塚で教えたこともありますというくだりに、ほぅ…と宝塚歌劇の歴史も感じました。
こんななんでもないことに意味を見るのが人というものだなぁ・・・とこの本を読んだことで思うようになりました。

おかれている状況は、この本のなかに生きている人たちとは比べものにもならない私だけれど、それでも舞台に何かを見たりスターに憧れたり、観劇する日を待ち遠しく思って生活の張り合いにしているのは、根っこはおなじ気がします。
人であればこそ虚構を愉しむことができるし、虚構にちからをもらうのだなぁと。
この作品に出逢えてよかったです。

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