悪足掻きをやめねぇから面白い。
1月22日(金)三越劇場にて初春新派公演「糸桜」を見てきました。
新派に大和悠河さんが出演、波乃久里子さんと共演というトピックに観劇前からわくわくしていました。
「糸桜」は、歌舞伎の狂言作者河竹黙阿弥の娘糸女と、彼女の養子で演劇学者の繁俊、その妻のみつを描いた「作者の家」(河竹登志夫著)を原作とした劇団新派の新作。私にはなじみのない世界の話と思っていたのですが、劇中で波乃久里子さん演じる糸女が泉鏡花を褒めたり(新派の代表作となる戯曲をたくさん生んだ作家ですからね)、みつの嫁入り道具一式が日本橋三越で揃えたものと披露されるセリフがあったりして(まさにその日本橋三越にある劇場での上演!)、そうかこの地で生きていた人たちのことなのだなぁと距離が縮まった気がしました。
新派の方たちのお芝居は短いセリフでも意味や感情がすっと伝わってくるのが良いなぁと思いました。
ダイナミックな舞台転換や歌舞や見得を切ったりも一切無く、簡単な大道具と生活感のある小道具の中でセリフと繊細な動きで心のリアリズムを見せる芝居に、歌舞伎界出身の市川月乃助さんと宝塚出身の悠河さんが挑んだわけですが、やはりそれぞれの出身から身についたものが見え隠れする。体当たりで演じているからこそ湧き出づるもの、それもまたこの作品の味のような気がして、なんともいえない思いが見ている私の心に広がりました。
1幕さいごのあたりで、月乃助さん演じる繁俊と悠河さん演じるみつが、おたがいさまと、すこしずつ夫婦になっていきましょうと向かい合う場面では、2人の役の境遇と役者として生き様が二重写しとなり、思わずほろりと涙が出てしまいました。
この作品から新派に入団する決断をされた月乃助さんの心にあるリアルが、繁俊という役を通じて発せられているようにも感じました。
裕福でありながらも荒れた家庭で居所なく育ったみつは、この縁談を機に新しい環境で自分の居場所を作っていこうとしている。そこは豊かな実家とは正反対の質素な作者の家で、さらに姑の糸女はとてもクセがあるし夫はその糸女の養子で彼女に逆らえない。そんな面倒な家の中にあってもうじうじせずにさっぱりとしている。もちろん思うことも言いたいこともあるだろうけど、自分の役目を一つ一つものにしてこの家を自分の居場所にしようとしている。そんなみつの様子もまた、宝塚時代からいまに至る悠河さんの姿勢と重なって私にはとても感慨深かったです。
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夢を抱いて上京したものの実家の父の怒りに触れて望まぬ道に進まされようとした矢先に坪内逍遥の仲立ちで糸女と養子縁組をした繁俊。それにより東京に残ることができたのだけど、それゆえにしがらみに雁字搦めとなってはっきりと自分の意思を言えないでいた繁俊がようよう意を決して狂言作者にはならない、それを認めてもらえなければ家を出ると糸女に言い放つと、夫をいさめるどころかさっさと出て行きましょうと荷物をまとめようとするみつ。
おとなしいようでいて、みつのほうが男前だなと(笑)。
彼女には繁俊みたいに自分を制限する師弟関係や義理の関係はないし、大事なもののためなら他はきっぱりと捨てられる潔さもあるみたい。思い通りにならないことをうじうじ考えたって仕方がないと。
もしかするとつねづね糸女に対して自分の意見を言えない繁俊を見ていて思うところもあったのかも。その繁俊が自分の意思をはっきりと言ったのだから、躊躇がありましょうや。
どんな境遇になろうとなんとかなると思えるつよさと覚悟がある人なのだな。
頭がよくてあれもこれもと考えてなかなか答えが出せないでいる繁俊のそばに彼女のような人がいる。なんて素敵なんだろうと思いました。
波乃さん演じる糸女さんはしゃんと背筋の伸びた女主人然とした見かけとは裏腹に心の中は永遠に父に憧れる娘のまま、父親に良い娘だと思ってもらいたいまま生きてきた人のように思えました。
偉大な父を敬愛しすぎて、父親以上に愛せる存在をこの世に見出せなかったのだろうな。
父が残した作品の著作権を守ること、父からつづく狂言作者の家系を存続させることが彼女にとっての自分の存在理由であり生き甲斐で。繁俊との養子縁組もそのためで。
一元的で迷いが無い、敵対するとやっかいな人のよう。
繁俊が、彼女に背くようなことは言い出せないのがよくわかりました。
父黙阿弥の名を守ることが第一で支配的な糸女と、生真面目で自分の意思を心に閉じ込め鬱々とする繁俊、そんな夫の様子を横目に家内の仕事をこなすみつ。それぞれの生きる目的があり、一つ家に住むなさぬ仲の3人。
繁俊は、みつの視線を背後に受けながら、このやっかいで愛すべき糸女と、どのように折り合いをつけていくのだろう。物語後半はそんな思いで見ていました。
糸女さんにとって、真面目で小心だと見ていた繁俊が自分に背くなど青天の霹靂だったと思う。
果たさねばならぬもののため自分が繁俊に求めることははまちがっていない。でも繁俊は別の道を歩むという。熟慮の末の決心だろうということもわかる。だからこそ困る。繁俊に背かれては自分の目的は果たせない。自分に勝ち目はない。いやだ、ゆるさない、そう言い続けるほかにすべがない。情にほだされたり理屈で説得させられたりしないためには。
どうすればいい? なぜ思い通りにいかないのか。
悩みの床に就く彼女の夢枕に亡き父黙阿弥が現れる。歌舞伎界の大作者である黙阿弥だけれども娘糸女に対しては愛情深い慈父の顔をして。
「何をしても誉めるもんだからこんなのができあがったんじゃないか」―― 黙阿弥に向かってそういう糸女さんは愛らしかったです。糸女さんも自分のいけないところはわかっているんだなぁ。自分がどういう決断をすべきなのかもわかってはいるんだなぁ。それでもわかりたくなかったり認めたくなかったり。理解してしまうと彼女のこれまでが崩壊してしまうのだろうなぁ。自分の存在理由を守るためにほんとうは糸女さんこそが繁俊に甘えていたのかも。
そんな糸女さんに夢枕の黙阿弥が言った「(人間は)悪足掻きをやめねぇから面白い」という言葉は、「それでいいんだよ」という肯定のように私には聞こえました。
自分をゆるすことができてはじめて人は他人をもゆるせるのかもしれないな。そんな心の変化を受け入れられる時期が訪れたから彼女に父黙阿弥の言葉が聞こえたのかもしれないな。
血のつながらない3人が、別々の思いを抱いて一つの家の人間になって、諍いもし愉快でないことも起こり、それでもそこはかとない思いやりがあって愚かさや弱さをかばいあえる家族となっている。
震災が襲い幼子を亡くした家に言葉にはせずともいたわる心がある。想い出を懐かしむ人へのさりげない心づくしがある。
はっきりと言葉やふるまいで情愛をしめしたりはしないけれど、嫌味も言いながらも互いの心や大切なものを尊重するやさしさがそこにあるのがわかりました。
1人の思いは1人のもの。けれども目に見えないいたわりの気持ちがつないでいるものがたしかにある。
見事な大団円などはなかったけれど、いつのまにか家族になっていた3人。
「悪足掻きをやめねぇから面白い」そんな黙阿弥の言葉が心にしみる舞台でした。
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