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2016/08/17

いまに死にたいときがくる。

8月8日と9日宝塚大劇場にて宙組公演「エリザベート」を見てきました。

7月末に観劇したときの印象とはまるでちがう「エリザベート」でした。
場面から場面に地脈が通じてさいごにそれが吹き上がったような。
私はこの「エリザベート」がたまらなく好きになりました。

トートに躊躇がなくなり強くなった感じがしました。物語世界を支配している感じ。
唯一支配しきれないのがシシィなのだなと。

結婚式の翌朝、シシィの寝室に来襲するゾフィーのデフォルメ加減が絶妙でした。
リヒテンシュタインも女官たちもあくまでゾフィーの側にいる者たちなのだと見えるように演じられていて、宮廷でのシシィの孤立がはっきりと浮き彫りになったようでした。

フランツもシシィの気持ちを察することができず「母の意見は君のためになるはずさ」などと言う。
そのときのシシィの絶望感たるや ――― おなじセリフなのに、なぜこんなにも前回と180度ちがって見えたのだろうと不思議でした。

ゾフィーが支配する宮廷で孤立し、フランツも頼りにならないと絶望したシシィが「私だけに」と歌い始める心の流れがとても自然に感じられました。
短剣を見つけてからそれを鞘に納めて気絶するまでの流れ、緩急のつけ方が素晴らしくて引き込まれ鳥肌が立ちました。

気絶したシシィの手から短剣を取り上げて「返してやろうその命を――」と歌うトートはまだ余裕に満ちているように見えました。
これはあくまで小手調べのようなものでシシィを試しただけなのかも。
見ている私がそうであるようにトートの心のうちにもまた、シシィという他とは異質ななにかをもつ1人の少女に予測できない期待があるような、そんな感じを受けました。

まさに愛と死の輪舞の始まり――

まぁ様(朝夏まなとさん)のトートはそのビジュアルも相まって異形というか人外さが際立っていました。
人の常識とはちがうところに存在するモノ。
その表情や動きにぞわぞわ。闇に浮かび上がる青白い顔と手 ―― その不気味さと妖しさに魅了されました。
閣下が下腕を2回回すだけでその場を操っているよう。ストレートヘアの後ろ姿のそのダークな艶と揺れ方に恍惚。

最後のダンスが最高に好きでした。
とてもアクセントのある歌い方でグルーヴィーでクセになる感じ。
あの強さ。あのアモラル。あのトートをまた見たい!という思いにかられています。(もうムラでは見れない…涙)

そんな人外なトート閣下が生きているシシィに愛されたくて受け入れられないことに苦しんでいる矛盾がなんともたまりませんでした。


みりおん(実咲凜音さん)のシシィもまた私がこれまで知っているシシィとは異なるシシィでした。

夫への最後通告の場面では、フランツを拒絶するシシィの苦しそうな表情が印象に残っています。このシシィはフランツをこんなに愛しているのだなぁと思いました。
それでも筋を通さなければいられない。そうしなければ自分を保てないシシィなのだと思いました。自分をなくしては生きてはいけない人。「私だけに」と歌ってしまう人。生きづらいだろうなぁ。

真風涼帆さんのフランツは、とにかくハンサムで端正で優しさ漂う、おもわず私まで一目惚れしてしまうフランツでした。
おとぎ話の王子様のような甘く清潔感漂う容姿を持ち、シシィのことを深く愛し、むちゃくちゃなことを言うシシィに激昂もせずその願いをなんでも叶えてくれる寛容な夫であり、オーストリー帝国の皇帝という至高のプリンスチャーミング。

これほどのハイスペックな男性の愛を拒むのだから、それだけの理由がシシィに見出せないと物語世界のバランスが壊れてしまう。
7月末の初見では、まさに私はフランツにばかり気を取られてしまった結果シシィの気持ちがよくわかりませんでした。
ですが、今回の観劇ではなぜか気がつくとシシィの味方をしていました。(あのときとどこかパワーバランスが変わった?)

結婚式の翌朝の「私だけに」もすっと心に入ってきましたし、1幕ラストの鏡の間の「私だけに」にも鳥肌が立ちました。
無邪気でとんちき可愛いシシィが宮廷で孤立してうちのめされ、しかしやがて自分の美貌を盾に自信を付けて皇帝に自分の要求を認めさせた「いまココ」感が素晴らしかったです。
あの高慢さ。―― シシィは変わってしまったなぁと思いました。このみりおんのシシィは少女時代がとりわけ無垢で可愛かっただけにそれを強く感じました。

生きる自信をつけたシシィを見るトートの心境にもいろいろと思いめぐらせてしまいました。
口惜しさと、でもどこかでこれでこそ自分が選んだシシィだという思いもあるのではないかななどと。
シシィの愛を求めるトートの道も、これでより険しくなったのはまちがいがないのだけれど、どこかで喜んでいるような気も。
そんなトートの矛盾を感じて面白かったです。
そもそも簡単に死をうけいれてしまうような従順な魂をもつ少女であったならトートはシシィをえらんでいなかったはずだから。
もっとも愛してはいけない相手を愛したのはほかならないトート自身なのだから。

シシィと出遭ったさいしょから、トートのとる行動はいつも矛盾をはらんでいて、その矛盾があるからこそこのトートであり、この宝塚版「エリザベート」なのだなぁと思いました。
それこそが「愛と死の輪舞」なんだなぁと。
その矛盾にトート自身が苦しめられている姿が見ものでもあり。
鏡の間、そして「私が踊る時」のあの輝きに満ちたシシィの姿は、トートにとっても「いまココ」なのだなぁ。
こんなシシィだから愛したし、シシィがシシィとして最高に輝いている姿を認めたからこそ、彼も全力でシシィを追い詰めていく。

この宙組エリザのシシィは、なかなか手ごわく簡単にトートに靡かないところも特徴だだなぁと思いました。
それはやはり彼女のフランツへの愛が強いからかなぁと。
それゆえにトートの苦悩も深く見えるなぁと。

お互いへの愛があるゆえに苦しんでいるシシィとフランツ。
シシィの中の自己愛とフランツへの愛の葛藤。
シシィを愛していながらもシシィの本質が掴めず苦しむフランツ。
シシィの本質を理解しているつもりなのに、シシィのフランツへの思いが思いのほか強く思い通りにいかないトートの苛立ち。
この宙組「エリザベート」ではそんな3人の輪舞がくっきりと見えたような気がしました。
そこがとても面白かったです。


ルドルフの葬儀の後、自ら死なせてと言うシシィをなぜトートは拒否るのか。
その場面がとてもわかりやすかったのも印象に残りました。
自分からトートにすがりながらも、シシィはまだ死というものを忌むべきものと受け入れていない表情をしていました。
そのシシィの心を瞬時に読み取って顔色を変えたトート。
2人の表現がとても丁寧だったので、「死は逃げ場ではない」というセリフが驚くほど説得力をもっていました。

このときのシシィの表情を見たのちに、ラストシーンのシシィを見ると、その心境の違いがほんとうによくわかりました。

幸せになれる方法はいくらでもあるのに。
この世の誰よりも幸せでいられる立場や条件の揃った境遇であるのに、真実を誤魔化すことができす自己と愛とにどこまでも苦しみ抜いた人生を生きて生き抜いたからこそ、トートを受け入れることができたのかもしれない。

誰かを幸せにすることが目的ではない。
求めたのは幸福でも美徳でもない。
誰のためでもない人生、命 ―― その潔さがエリザベートの魅力なのかもしれないなぁと。その苦しくとも何ものにも譲らない誇り高い魂に私は魅了されてしまうのかなぁと思いました。

彼女を可哀想な人だと思うのか幸せな人だと思うのか、それは私自身の心の中にある。―― と、いろいろ考察してみたくなる研ぎ澄まされた「エリザベート」だったと思います。

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