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2016/12/10

あなたこそ待ち焦がれた愛しい死-“Azrael ”。

11月29日、宝塚バウホールにて宙組公演「双頭の鷲」を見てきました。

有名なジャン・コクトーの戯曲をミュージカルにした作品。面白くないはずがない。引き込まれて見てしまいました。
どうして彼はそう言うのだろう。あのときどうして彼女はああ言ったのだろう。たくさんの何故?を抱きながら見る作品の面白さ。そのわけは見終わった後にゆっくりと考えたい。
11時と14時半公演を続けて見てしまって、しまったと思いました。もっとゆっくりとインターバルを持ちたかった。そうでないなら1回だけ見てじっくりと浸っていたかった。
あのときの顔はそういうことだったのか。あのときあの言葉を選んだのは―― 考えれば考えるほどなるほどと思う、そんな作品でした。

それだけにパパラッチが憶測をごちゃごちゃと語るのが邪魔だなぁと感じてしまいました。
主役たちが心情を歌うのもいらないくらいだなぁと思いました。余白を埋めすぎな感が否めませんでした。見ている私に想像の余地を残してほしかったな。
歌詞が聞き取りにくい部分もあったりして、言葉の裏にあるものを覗くのが面白いのだからセリフで明瞭に聴きたかったと残念と思えるところもありました。
作品が良いのでこちらもより高いところを求めてしまいます。

舞台美術は脚本演出の植田景子先生の美意識そのものって感じ。ちょっと過多にも私には感じられました。(景子先生はまだ足りないわと思っているかも(^-^;)
2幕で、お互いを愛し愛されることを知った2人がこれまで受け入れられなかったものを受け入れると、それまで色のなかった世界(部屋)に色が加わる演出がわかりやすく素敵だなぁと思いました。

齋藤恒芳先生の音楽は作品にぴったりで盛り上げてくれましたが、彼の音楽にはあんまり言葉をいっぱい載せないほうがいいのになぁと思いました。気の利いた少量の美しい日本語が合うのにな。
音楽自体に魅力があるのだから、ちょっと情報が過剰だなぁと思いました。愉しむ余地がほしいなと。
それにしても、みりおん(実咲凜音さん)もずんちゃん(桜木みなとさん)もあの曲をよく歌いこなせるなぁと思いました。歌っているうちに迷子になりそうな曲ですよね。

作品はどう見ても王妃が主役だなぁと思いました。
王妃役のみりおんが相手役の轟さんに遠慮なく相対しているなぁと思いました。思いきりが素晴らしい。
そして王妃姿が彼女史上でもっとも美しくて感銘的でした。景子先生の美意識と相手役の轟さん、そして彼女のキャリアとこの作品に挑む緊張感等々のなせる仕業でしょうか。
ワンショルダーのブラックドレスの後ろ姿やヘアスタイルが彼女の魅力を引き立てていました。
ハープアップに乗馬服も魅力的でした。
(もしかすると高身長揃いの宙組が彼女には気の毒だったのかもしれないなという気もしてきました)

スタニスラス役の轟悠さんはさすがだなぁと思います。キャリアのちがいがほかの出演者とは歴然。
みりおんとともに轟さんがこの作品を上質なものにしているのだと思います。

ただ、このスタニスラスという役には貫禄がありすぎるのも否めないと思いました。
他人に運命を握られ追い詰められて嘘にあっさりとひっかかるような人にはどうしても見えなくて。
動揺したり運命に怯えたり紅潮したり声を上ずらせたり・・・が私には足りなかったです。かと言ってそんな轟さんを見たいかというとちがうし。
(前日に花組の「金色の砂漠」を見たばかりだったので、みりおちゃんで見てみたいと切に思いました)

正直激昂するところはいつもの轟さんの芝居で、こちらが見飽きているというのもあるかもしれません。
セリフの抑揚が不自然でワンパターンなのも私には気がそがれるのもあります。あの独特のタメは演説したり訴えかけたりする役には良いかもしれませんが、この作品はもうすこし前のめりな自然さがほしかったです。
と、轟さんには厳しいですが、さすがだからこそ厳しい目で見てしまいます。

じっさい問題、宝塚のトップコンビでできる作品ではありませんし(トップより娘役が主役に見えてしまうと思うから)。轟さん相手だからこそ、娘役が全力で王妃の威厳を見せつけられる気がするので、このキャスティングが妥当なのかなぁとは思います。
でもほうっておけない感じの拗らせ系が似合う若い男役さんで見てみたい役だなぁと思いました。個人的な趣味です。

自分しか愛せない、自分の命令一つで全てが動く美意識の世界に引き篭もることを望んでいた王妃の心を動かすのは、何も持たない、自分1人の力で生きるしかなかった過酷な現実に対して、その衝動を誰かに向けて復讐しようとする浅はかで純粋で煽動に乗せられやすい美しい若者であってほしかったなと。


フェーン伯爵役の愛ちゃん(愛月ひかるさん)は、歌声が以前よりも格段にのびやかになっていてエリザベート以降の成長を感じました。
ビジュアルのほうはもはやいうことなしの域。登場だけでやっちゃったよ感満載なのが好き。こういうキザりをモノにしているスターさんって最近少ないと思うのでがんばってほしい男役さんです。
フェーン伯爵の役づくりに関してはさらにもっと濃く、眼光鋭く作っても良さそうだと、11月の観劇時点では思いました。

ずんちゃん演じるフェリックスは為所が難しそうだけど原作よりも若くハンサムになっている分、やりようによっては美味しい役だと思います。
美意識が高いゆえに王妃を偶像化し崇拝し被虐的な憧れを抱いているように作っても面白いんじゃないかなぁ。19世紀末らしくて。
エディットにももっと精神的に虐められてもいいかも。それでもめげないつかみどころのなさが仄見えてもかえって人物として深みが増すのではないかと思います。
王妃の素顔を見た時に瞳に宿った甘やかさが良かったです。さらに耽美に傾く心理が見えてもよいかもなぁ。
マントさばきとか片膝つきの礼とかさらに美しくなることいいなぁと思いました。役的にも今後のためにも。
(フェリックスに関してはほぼ私の趣味の押し付け・・・

ストーリーテラーのそら君は客席づかみも間もうまいなぁと思いました。
11時と14時半でボンジュールとボンソワールを使い分けているのかな。
正直彼が進行し説明もするのでパパラッチはいらない気がしました。
それよりも舞踏会の客や皇太后やフェーン伯爵の部下またはクランツ城の使用人として物語の中にいてほしかったなぁ。憶測や皇室スキャンダルを面白がる立場じゃなくて、その時代に生きる者たちとして王妃を語ってほしかったなぁ。
なんというかパパラッチの役の生徒さんたちはポージングや意味のない憶測やわかりきった世界の王室の悲劇の紹介の繰り返しで(エリザベート云々言わなくてもわかるし知らない人にここで言っても意味がないから)、それ以外は芝居の動線の外野にいて芝居に集中すると目に入らない。逆に彼らを見ていると真ん中で進行している芝居から置いて行かれる。
王妃がそうであるように景子先生にとって特別な人以外はオブジェでしかないのかな。そのへんが景子先生のやさしくないところだなぁと思います。(これでも生徒のためにずいぶんと妥協したのだと言われそうですが)

見応えのある舞台でしたが、同時に宝塚ってなんなんだっけとぐるぐると考えてしまう作品でもありました。

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