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2017/01/05

ひとごろし。

12月9日キャナルシティ劇場にてミュージカル「貴婦人の訪問」を見てきました。
(感想を書きかけたまま時間がなくて年を越してしまい・・・新年早々こっそりアップです

2015年秋に見て今回は2回目の観劇でしたが、前回は山口さんのアルフレッドが全体から浮いていて違和感だったのですが、今回はいい具合の浮き方に感じました。
前回は若いクレアに同情してマチルデのことも可哀想に思って見ていた気がします。アルフレッドをどう描こうとされているのかクレアの真意はどこにあるのかを探るように見ていました。
今回は2015年に見たときよりもアルフレッドとクレアのあいだに愛が見えた気がしました。
それがほんとうに愛なのかを考えながら見ていました。贖罪なのか執着なのかそこにほんとうに愛はあるのか。
いまの2人それぞの互いに対する思いとはいかほどのものなのか。

2人みつめあえばいまも愛し合っていた頃の熱くせつない気持ちが甦るのか。でもそれは昔の気持ちが地層を超えていまに湧きあがるのであって、いまのお互いを愛しているのとはちがうのではないかとか。
それをいまの気持ちと錯覚してしまうアルフレッドの甘さと、シビアなクレアの別の気持ちが見えたような・・・。
いまに至るまでの2人の現実の過酷さの差が見えたような気がしました。

さらに今回はギュレルの人たちの怖さがつよく印象に残りました。
アルフレッドが殺された時にクレアが市民に向かって「人殺し!」と叫びますが、それはアルフレッドを殺したことを言っているのではなくて、「こんなふうにあなたたちは人殺しなのだ」と言っているのだと思いました。
アルフレッドがギュレル市民から糾弾をうける図は、数十年前のクレアがされたこととおなじ。
正義の名のもとに不公正に裁かれ、若い娘にとっては殺される以上の冷酷な扱いをうけた。
数十年前もそうだし、いまも正義を隠れ蓑にした利己主義によってあなたたちは平気で人殺しをする者たちなのだと言っている気がして、クレアの目的はこれだったのかもとも思いました。

アルフレッドを私刑にしたあとの彼らがとても怖かったです。正義の名のもとに己を欺瞞にかけ殺人を犯したことをまったく恥じていない彼らがうすら寒くかんじました。
私もいつアルフレッドや若いクレアにされるかわからない。いつギュレル市民になるかわからない。そんな怖さを感じました。

マチルデ役が昨年と変わりましたが、昨年の春野寿美礼さんのマチルデがいつも寂しそうな女性だったのに対して、今年の瀬奈じゅんさんのマチルデはとても自己肯定感のつよい女性に見えました。
春野マチルデはアルフレット以外に頼れる者がいなくて、いつかは自分のほうを向いてくれる日が来ると信じて必死で愛し最後まで彼を庇ってきたのに、アルフレッド本人によってその望みを断ち切られて報復的に彼を裁く側に回ったように見えました。
彼の遺体を見下ろす能面のような表情がなんともいえずぞっとした記憶があります。

一方の瀬奈マチルデは情熱的な恋愛関係はないけれども夫婦としてアルフレッドとの絆を疑っていない幸せな主婦に見えました。
子供たちとの会話でも朗らかな印象で彼らの行動も深刻には受け止めていなくて、そのうちきっとなにもかもうまくいくと考える人みたいでした。
そんな彼女がアルフレッドに愛していないと言われて、アルフレッドの味方をする理由がなくなり自然にシフトしてほかのギュレル市民の側に着いた印象でした。
アルフレッドの遺体を前にしてももうギュレル市民と同化している様子で、それがかえってこわいなと思いました。
この善良で朗らかでもっとも平凡でふつうな主婦こそが「ギュレル市民」なのだという事実を見たようで。
ギュレル市民とはマチルデのような人びとの集合体のように見えて。

1年前とおなじ作品を見たのに感じることが違って、1年前とは違うことを考えていて、また1年後に見たらこんどはどんなことを感じ、思うのか興味が湧きます。
見られる機会があるといいなぁ。できればキャストもあまり変わらないままで。

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