天使の歌が聞こえた。
3月1日と2日梅田芸術劇場メインホールにてミュージカル「ロミオ&ジュリエット」を見てきました。
1回目の観劇では設定などに気をとられてしまうところもあったのですが、2回目の観劇では1幕バルコニーの場面から涙がとまらず自分でもびっくりしました。
古川雄大さんのロミオは見目麗しいオタクってかんじだなぁとさいしょは思って見ていました。
親友たちの話も上の空。
まだ見ぬ恋人を想って心そこにあらず。
家同士の憎悪や確執とも一歩も二歩も退いたところにいて。
「この地上のヒーローはここにいる俺たちさ♪」と煽っておいて現実をあんまり見ていない理想主義者だなぁって。
それでも仲間に好かれて夢を見せることができる魅力がある人なんだなぁ。
こんなに荒んだ街に育ちながらお坊ちゃまでいられるのはやっぱり過保護なママのおかげかしらとか。
モンタギューの若者たちはちょっとダサくて単純な不良ってかんじ。
大人たちの闇もそんなに深そうではない。
一族の若者たちの成長を見守っている大きくて強くてそれなりに弱みも見せちゃうパパとママに見えました。
それにひきかえキャピュレットの闇の深さは。
父も母も従兄も――。
こんな闇の中でよくもこんなに純粋な娘が育ったものだと思う生田絵梨花ちゃんのジュリエット。
乳母さんの愛情のおかげかなぁ。
キャピュレット家の不幸は、皆がそれぞれに自分は蔑ろにされていると思っているところだなぁと思いました。
そこから唯一外れているのがジュリエットなのかな。
ロミオ追放後の傷心に追い打ちをかけるように無理やりパリス伯爵と結婚されそうになって、きっと生まれて初めて真っ向から親に逆らった「私の親ではない! あなたも! あなたも!」
あの場面で両親にそう言い放てるのはすくなくとも愛されていることを疑いながら育ってきた娘ではないからだと思います。
キャピュレット卿も心を許すことができない人間たちの中にあって娘のことだけは全力で守っているのかもと思いました。
ひどい父でありひどい夫だけれど、娘を思う気持ちはすごく信用できる気がする岡幸二郎パパでした。
キャピュレット夫人にとってのジュリエットは自分自身の写し絵なのだなと思いました。
だからジュリエットを傷つけることは自傷行為とおなじだなぁって。
ジュリエットに愛のない結婚を強いることはもう一度自分自身を傷つけることにほかならないのに。それなのにあんなことを言っちゃう。
本当は愛されたかった人なんだと思いました。
愛する人に愛されるジュリエットを見つめることで傷ついた自身の傷を癒せる可能性もあるのに。闇の深い香寿ママでした。
闇の深い両親だけれども、それぞれに歪んだ愛だけれども、ジュリエットはまちがいなく愛されて育った娘なのだと思いました。
乳母さんというフィルターを通して両親の愛はエッセンスだけをジュリエットに注がれていたのだと。
ジュリエットの魅力は愛された娘の自己肯定感と生命力だなぁと思いました。
だからロミオは彼女に惹かれたのだなぁと思いました。
親友の話にも上の空だったロミオは、ジュリエットと出会ってはじめて現世に着地したよう。
このジュリエットの存在によってロミオは生命を得たんだと思えて胸の中に温かいものが溢れてきました。
近未来の廃墟のような街と荒んだ人びとの中でそれぞれにそれなりに大事に育てられてきた2人が出逢った瞬間に魅かれあうのは必然かもしれないなぁと思えました。
魅かれるべき魂に出逢って、天使の歌が聞こえてしまったんだからもう仕方がないよねぇと思えるロミオとジュリエットでした。
・
ジュリエットとの出逢いでロミオの世界が見違えるように変わって。
こんなにも純粋だったのかこの人は・・・と驚かされなんだか知らないけれど涙が出てきました。
そのロミオの純粋さに触発されてロレンス神父もまたその純粋な愛の力に掛けようという気持ちになったのだろうなぁと思いました。
そのロレンス神父の気持ちがとてもわかるような気がして、ロレンス神父の立場からロミオを見て私は涙がとまらなくなったのかなぁという気がします。
純粋な愛は人の心を動かすのだということをリアルに感じることができました。
そしてジュリエットの乳母さんの慈愛に触れてまた温かいものが頬をつたいました。
彼女はほんとうにジュリエット中心に動いているんだなぁ。すべてジュリエットのために。この愛がジュリエットの曇りのない愛らしさを育んだのだと思います。
ジュリエットに悪態をつかれても、神様に嘘をついてその身は地獄に堕ちたとしてもジュリエットのためを思えばの深い愛 ―― に感動しながらもふと、原作の14世紀のカトリック信徒ならば、それはとても罪深い思いだろうけれども、この設定での神や信仰はその時代とおなじくらい重いのかなと思ってしまってんんん?となってしまうのも否めなくて、2幕は感動とんんん?を繰り返して見ていました。
神様や大公の権力や追放が14世紀のそれと同じ重さ、同じ考え方なのかしらと。
地下駐車場(自動車があるということですよね)やエレベーターや携帯電話やパソコンやAEDが存在する世界なのに。
この物語世界における“追放”の重さがいまいちわからないなぁと思いました。
こんなに荒んでいるのに通信会社に料金を支払っているのだろうなこの人たちはとか思ってしまうし。
マーキューシオが刺されたのに誰も救命に力を尽くさないのだなAEDがある世界なのにとかいらぬことを考えてしまうし。
2回目の観劇ではだいぶそういう考えは頭の中から排除できましたけども。
チラチラと過るそんな疑問も霊廟の場面ともなるとすっかり何処かに行ってしまいました。
いろいろ突っ込めるはずなのにロミオの思いつめた自死に納得させられてしまうのですよねなぜか。
そしてジュリエットの喜びの目覚めのロミーオが絶望のロミーオに変わっていくところ・・・たまらない気持ちになりました。
2人のなきがらを前に両家の人びとが嘆き悲しむ姿にこんなにも愛されていた2人なのにと思いました。
なぜこんな結末になってしまったのか。皆がそう思っている。
1人ひとりが自分の罪だと思い後悔している。
そんな悲しい気持ちで初めて両家の皆の心が一つになっているのが皮肉で悲しかったです。
彼らの罪は、本当に戦うべきもの克服すべきものから目をそらして、その代償のように敵とみなした相手を憎みつづけたこと。その欺瞞の連鎖を断ち切る勇気を持とうとしなかったことじゃないかな。
2人の死を経てようやく両家の代表である2人の父親がいままで持てなかった勇気をもって手を取り合う姿に感動を覚えるのは、それゆえじゃないかな。
彼らはこの辛い出来事を経て咀嚼してやっと本当の敵に目を向けられるのだなぁという希望が見えることが、この物語の救いだなぁと思いました。
その憎しみと欺瞞の犠牲になったのはロミオとジュリエットだけじゃなくティボルトもマーキューシオも。そしてキャピュレット卿夫妻やベンヴォーリオや両家の人びともずっと犠牲となっていたのだと思います。
そこから抜け出せることが希望なのだと思います。
自己肯定感を満たしたいがために異性関係をもつことはありがちなことだけど、ティボルトはまさにそんな青年だったなぁと思います。
たくさんの異性と付き合ってきて、でも本当に好きなジュリエットには触れられないという。
女性の抱き方は知っていても愛され方を知らないからだろうなと思います。
彼の生い立ちに触れた場面はなかったけれど、キャピュレット夫人は彼の実の伯母で、ジュリエットとおなじく夫人がキャピュレットの跡取り娘だったと言っていたから、彼の母親がキャピュレット夫人の実妹か庶姉妹なのかなと思います。
その後夭逝したのか存命なのかよそへ嫁したのか、いずれにしても彼はキャピュレット家の中心にいるけれど、親の影は薄いみたい。
モンタギューへのヘイトだけじゃなくて、キャピュレット家はその内部にも闇が巣食っていて、その真っ只中で育ったティボルトは本当の自分を見失ってしまってただ憎しみを映し出す端末装置のようになってしまっているみたい。
大人たちの放つ憎しみやギスギスとした猜疑心をまともに受けて育ってしまったのだろうな。
ジュリエットにとっての乳母さんにあたるような大人が彼のそばにいたらまたちがっていたのかもしれないと思えて。本当の彼をそのままの彼を受け入れてくれる大人が彼のそばにいたらと思えてなりません。
2回の観劇で1公演ずつ役替わりのティボルトを見ることができましたが、渡辺大輔さんのティボルトは一触即発で即ギレするティボルトだなぁと思いました。
エッジの鋭いナイフみたいな人。
何かに対してどうしようもない怒りの気持ちを常に持っている人。でもジュリエットにだけはスマートで優しいお兄さんなんだろうなという感じがしました。
広瀬友祐さんのティボルトには、怒りを一度自分の中で増幅して爆発させる狂気をかんじました。
そうすることで脳内麻薬に支配されて怒りが快感になるような。
ジュリエットとちゃんとお話しできるのかな。いや怒りを増幅させないときはふつうに紳士的なのかな。それこわい・・。見ていてぞくぞくするティボルトでした。
役替わりのマーキューシオは2公演とも小野賢章さんが演じられていました。
ティボルトの闇は周りの大人たちによるものが大きい気がしたけれど、マーキューシオの闇は生まれ持ってのもののようで、それが辛いなぁと思いました。
ロミオもベンヴォーリオもいいやつらだし、モンタギューの大人たちもキャピュレット家との抗争は抱えているけれど若者たちに対しては懐深く見守っている気がするし、マーキューシオ自身もあの大公の甥という恵まれた家庭の生まれのようだし。
でもそんな比較的恵まれた中で育ちながら、生きづらさを抱えて生まれてしまった子どものように思えました。
暴かれたくないものを内に抱えているような、コンプレックスに押しつぶされそうな子ども。弱いところを突かれ馬鹿にされるとすぐキレてしまう子どものようだと。
その誰を恨んでも仕方がない怒りの衝動をキャピュレットへの憎しみにすり替えているような気がしました。
自分の非難されやすい衝動性もキャピュレットへの憎しみに変えてぶちまければ称賛されるから。
愛する仲間に信頼される人間になるためにはそんな自身の弱さを克服する努力をしていかなくちゃいけなかったのに、大人たちが作り出したヘイトに甘えてしまった。
その意味で彼も大人たちの犠牲者だなぁと思います。
でもそれでは救われない自分自身をずっと感じていたんだなと、死に際のロミオへ向けた言葉を聞いて思いました。
もう1人の役替わりのベンヴォーリオはやはり私が見た2公演とも馬場徹さんが演じられていました。
軽いノリの気の好い若者。とっても親友思いのいいやつ。
ちょっと他人やこの現世に無関心なところのあるロミオの若者らしい面を引き出しているのはベンヴォーリオだなぁと思いました。
軽くあしらわれても怒りもせず笑って受け入れて、ロミオがキャピュレットの娘と恋に落ち、敵ばかりでなく仲間うちからも非難されているときも1人ロミオをかばう側にいた。
ジュリエットの死を告げたら親友がどれほど絶望するか知っていながら親友のためにその辛い役目を引き受ける人。彼自身もどんなに苦しいだろうと思いました。
服毒して亡きがらとなったロミオをやさしく伸べてジュリエットと手をつないであげるのも彼で。なんて気づかいのあるやさしい若者なんだろうと思いました。
そのやさしさでロミオたちを思いこれからの未来を思って生きて行く人なんだろうなと思いました。
悲劇なんだけれども時を超えてこの物語が愛されるのは、ロミオとジュリエットの純粋さに心打たれる人びとが古今東西たくさん存在するからなんだろうなと思います。
そのことに希望を感じられる作品だなぁと。
観劇のために遠征するのが厳しい昨今なのですが見に行ってよかったと思いました。
できるならまたいつか見る機会を持てるといいなぁと思います。
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