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2017/10/11

オルタナティブス。

9月12日の観劇に続いて、9月18日に宝塚大劇場宙組公演「神々の土地」と「クラシカル・ビジュー」を見てきました。

「神々の土地」は1週間のインターバルを置いてからの観劇で、自分なりに見どころや好きな箇所などを噛みしめて見ることができました。
それぞれの登場人物の目線から出来事や主人公たちを見るとどう見えるのかなと考えながら見るのが楽しかったです。

ドミトリーは悪く言えば、根回しもしないで独善的に物事をおしすすめた挙句に失敗した見込みの甘い男で、彼によって心をかき乱された女性2人は、最終的には彼ではなくて自分が置かれている立場を選び、非業の最期を迎え、皮肉にも彼だけが生き残るんだなぁ。
そんなドミトリーを主人公に物語を描く意味とはなんだったんだろうなと思います。

ドミトリーは観念的なことには饒舌になるのに、イリナとの核心的な部分になると寡黙になってしまう。
「お互い自分の信念に従って生きよう」と言うけれど具体的なことは言わない。
彼の信念ってなんだったのか、イリナの信念ってなんだったのか、3回見たけれど(その後ライブビューイングを入れると4回)私にはわからないままでした。

イリナを愛しているのに正面からは一度もアプローチせず、イリナの言わんとすることを先取りして独りよがりに自己完結して、誰の気持ちもはっきりと確かめもせずにオリガとの結婚を決めてしまう。
それでいてラスプーチン暗殺に至るくだりでは、まったくオリガのことを忘れ去っていますよね。
オリガのことはその程度ってことなんだなと。
「俺を信じろ」と言っておいて、信じたオリガの心を踏み躙っている。
オリガはイリナに負けたのではなく、ドミトリーの未熟さと身勝手さに負けたのですよね。

そんなドミトリーとともに生きる道よりも、自分の置かれた立場のまま運命を受け入れることを選んだ2人の女性。
こうして時間を置いて考えると、2人の女性の決断は至極納得がいく気がします。
軽々しく信念とか言う男性を信じちゃダメってことですよね。
劇場ではまぁ様の麗しい見た目と切なげな歌に騙されていました。

いろんなシーンが見終わった後も心に引っ掛かり、それを思い出しては考えずにはいられなくなります。
たくさんの「かもしれない」が積み重なり、その1つ1つがそちらでなかったら・・・幾通りもの答えが導き出されそうなそんなかんじです。

ヒロインのイリナにアリアの場面があれば、彼女の本質がもうすこし明らかになっただろうなという気がします。
ロマンスよりもリスペクトで伴侶を選ぶ女性だったなぁと見終わったあとで思いました。
恋愛に流されるよりも「生かされている意味」、自分の存在理由を見つけることのほうが大事な女性なんですよね。
それはドミトリーにも揺るがすことができない。
そんなところもドミトリーは無力なんだな。
為す術がないから曖昧な関係のままでしかいられないのだろうな。

あとはラスプーチンの存在の意味がもっと明確だったらなと思います。
登場のシーンと暗殺されるシーンが大仰なわりには、大した悪事は働いていなかったと思います。
ゆえにドミトリーが彼を暗殺する理由が見当たりません。ただのなりゆきみたいな。
何回見てもミーチャ射殺からの流れがむりやりっこだなぁと思いました。

ラスプーチンが貧しい農民たちの怨嗟の具現ならば、それを殺害するドミトリーの立ち位置はどこなのか。
それこそがテロリズムではないのかな。
フェリックスはドミトリーに、もう霧は晴れているんだろう?と言っていたけれど、え?そうなの?ほんとうに見えているの?と思いました。
むしろ霧はさらに濃くなったのではないかな。
あれはフェリックスのミスリードだよなぁ。

あのくだりは、かつてのフェリックス自身のことなのではないのかな。
自分は誰を愛しているのか。(→ドミトリー)
自分は何を為さねばならないのか。(→ドミトリーを皇帝にするためラスプーチンを暗殺)
それはフェリックス自身には当てはまるけど、ドミトリーはちがうのでは。
ただ混乱しているドミトリーを誘導しただけでは。
だから齟齬があるのでは。

それまでフェリックスたちクーデター推進派に反対していたドミトリーが何によってそれを翻したのか、それが私にはわからないままです。
イリナ暗殺の報の衝撃から友人ロマンの死。
なじみの店がボリシェヴィキの隠れ家だったこと。
銃口を突きつけてその店に押し入り、銃撃戦の最中に友人コンスタンチンの銃弾に彼の恋人が倒れ、そのコンスタンチンに刃を向けた恋人の弟ミーチャ少年を、ドミトリーがとっさに射殺したこと。
衝撃的な出来事が連続して起きてしまい混乱してしまったところにフェリックスの誘導があったから?
けっきょくパニックに陥り判断力を失って流されてしまったの?

皇帝の息女オリガと結婚し、自分の力で皇帝一家の目を覚まさせようなどという大それた計画を実行しようとしていたのに、彼自身がこんなにも未熟であったということなのかな。

青年が叶わぬ恋への情熱を国政の立て直しに向けようとしたけれど、けっきょくは未熟な彼の手に負えることではなく、他者の企てに乗せられて怪僧暗殺の暴挙に出るも、自分本位に傷つけた女性のしっぺ返しに遭い失策。
失意の末に危険を冒して本当に愛している人につかの間逢いに行きましたと。
すべては潰えてしまったけれどその時生きた人々は、その時々に生まれた思いの数々はたしかにそこに在ったんだよってことかなぁ。

見終わって、神々の土地には、専科さんが演じるような重厚な男性の役が登場しなかったなと思いました。
だからこそのこの帝政ロシア末期だったのかなと。
ドミトリーの伯父でイリナの亡夫、セルゲイ大公こそがその役目を背負うはずだったのかもしれないけれど、すでにテロルの巻き添えで亡くなってしまっていて。
皇帝を諫める人も、ドミトリーに助言する人も、フェリックスたちの企てに真っ当な判断を下す人もいない。
それぞれの間を調整できる人がいない。
あまりにも分断された世代、価値観を持った者たちが国の頂点にいることもまたロマノフ凋落の一因だったのかなと思います。


お芝居全体を通して、ジナイーダやフェリックスの軽妙なセリフ場面が私は楽しかったです。
「卑しい男は消えます」とか(笑)。

この帝政ロシア末期のテロルの頻発でさえもスリリングだと面白がってる刹那主義者で唯美主義者のジナイーダが私は好きでした。
「死と隣り合わせの快楽、そして破滅!」とか(笑)
ジナイーダの目線から見たら、イリナとドミトリーの関係はまたちがったものに見えていそう。
軍規を犯してエスケープして愛しい人に逢いに行き一夜を過ごすなんてまさに(笑)。
ロマンスと美がなによりも優位な価値観。なんなら逃避行の末に引き裂かれるくらいドラマチックなほうが好みそう(笑)。
(でもあくまでジナイーダ自身はちゃっかりと安全な国に亡命するのは必至)

お堅い未亡人を焚きつけたり、突拍子もないアイディアを実行して驚かせたり、あえて核心をついてみたりして、自分のお気に入りの人の感情の動きを読むのが好きみたい。
(まぁ人が悪いというか傍迷惑というか)
でもあくまで傍観者として美を信奉するのが好きで当事者になる気はないみたい。じつはリアリストなんだなと思います。
美と文化のパトロンとしての大貴族ユフポフ家の立場に誇りに思ってる彼女は、専制君主としての覚悟もなく、現実から目を背け、ただ愛する妻と子どもたちとの安寧な暮らしを営もうとするニコライ2世のことを小馬鹿にしているのだろうなと思いました。
彼女も息子のフェリックスも、現実を直視できず状況判断も決断もできないニコライ2世が生理的に大嫌いなんだなと思います。
それならばさっさと帝位を譲ってしまいなさいということなのだと思います。

ラスプーチンのことも生理的に大嫌いなのでしょう。
ジナイーダとフェリックスがクーデターの実行グループに加担する動機がいまひとつわかりませんでしたが、ニコライとラスプーチンが大嫌いで、マリア皇太后が好きだから、覚悟して身の処し方を決めなくてはならないとなったなら、迷いなくマリア皇太后側だったということなのかなと思います。
たとえクーデターが成功して皇帝が変わったとしても内憂外患であることは変わらず楽観できる情勢ではまったくないのだけど、その先のことはどう考えていたのかな。
外国とのつながりも個々に持っていて、いざとなれば何処へでも行けるようなメンバーだから、権力の在り処と「ロシア帝国」の体だけを考えての行動なんだろうな。
面白いか面白くないか、心が動かされるか否か、で大事を決めることができる特権階級なんだなと思います。
皇族でありながらも国民生活の実情に触れて考えることがあっただろうドミトリーとの齟齬が生じるのもそこのところのような気がします。


3回目の観劇ではフェリックスの婚約者のアリーナのキャラクターにも惹かれました。
皇帝の姪という出自でありながらなかなか逞しい女性で、亡命後のN.Y.で贋のレンブラントを夫フェリックスと共に嬉々として詐欺っている姿が好きでした。
その前にクーデターの密談の場にもしっかり参加してドミトリーに彼が選ばれた経緯をしっかりと告げてもいたし、決してお飾りのお姫様ではないのだな。
どこにいてもちゃんと自分の居場所をつくれる女性っていいな。
等身大以上でも以下でもない自分をもっている女性な気がして素敵だなと。
なによりあのフェリックスが夫とか・・うらやましいと思います(笑)。

物語では皆の非難の的であったけれど私はアレクサンドラ皇后の気持ちはわかる気がします。
愛されてはいるけれども頼りにはできない夫。自分の責任さえ引き受けない夫なのに、ましてや妻や子どもたちの分まで引き受けるはずもなく。
子どもに心配事があると母親は極端に走り勝ちなのは、昔もいまもおなじだなと思います。
カルトや水やスピリチュアル。自然回帰や代替医療や。そんなお母さん方をいろいろ見てきました。
自分の生活に過ちがあったから子どもを病気に至らしめたと信じ込まされ、そうした悪いものを遮断し、いままでの生活、いままでの人間関係をあらためなければ救われないと思いこんでしまう。
プロテスタントとして育ち、中産階級的道徳の模範であったヴィクトリア女王の下で暮らしたアレクサンドラにとっては、ロシア正教の派手さやマリア皇太后の華やかな暮らしぶりは抵抗を感じる罪深いものに映ったのかもしれないと思います。
まずそこから距離を置くことが彼女の性格的にも重要だったのだろうなと。

そんな心の隙間にぴったりとはまったのがラスプーチンなのだろうけど・・・。
「無力な祈りだけがあなた(神)に届く、呪いのように」
皇太子がどんなに痛みに苦しんでも、自分たち家族以外には他人事でしかないのだということが彼女の根底にあるのだと思います。
そこがわからないと彼女を救えないし変えることはとうていできないと思うのですが、ドミトリーはそんなところも考えていないんだなぁ。

あまりにもいろんなことを容易く考えすぎている。
自分の力を過信している。
それが青年というものかなぁと。
考えるほどにいろいろと疑問ができて、ああでもないこうでもないと考えずにいられない。
心の底に沈んだ何かがかき回されてはまだ沈んでいくようなそんな作品だったなぁと思います。

(けっきょくぐるぐるとした感想で終わってしまいました)

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