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2018/10/02

ひとの善意を信じすぎたこと。

9月15日と18日、そして24日に博多座にてミュージカル『マリー・アントワネット』を見てきました。

この作品はいつもとは異なり博多座で初日を迎えたのちに帝国劇場、そしてほかの劇場で上演されるとのこと。
2006年の初演を見た方によるとほぼ新作と言えるくらい登場人物から設定などなど変わっているそうです。
私の印象としては、お話がわかりやすい反面、物語の構造が単純でクンツェ&リーヴァイっぽさが薄いかな?と思ったのですが、新演出版としてあえてなのでしょうか。

15日は、マリー・アントワネット役の笹本玲奈さん、マルグリット・アルノー役の昆夏美さん、フェルセン伯爵役の古川雄大さん、ルイ16世役の原田優一さんの初日でした。
初見では、歌詞が半分も聞き取れなかったのが残念でしたが、ストーリー自体は複雑ではないのでセリフと芝居と歌詞半分で、内容は理解できました。
なによりも笹本玲奈さんのマリーが美しくて魅力的だったことが印象的でした。

とりわけ、印象的だったのがプチトリアノンのシーン。
のどかな田園風景を背景に草上に座る白い清楚なドレスとリボンがついた麦わら帽子姿の笹本マリーの輝くような美しさは、このまま絵画にしていつまでも見ていたい気持ちにさせられました。
ふわふわとした夢のような世界に身を置き、現実を知らず、他人の悪意を知らずに生きている世間知らずの王妃様。
フェルセン伯爵の諫め言の意味もわからなくて・・・。

もう一つ忘れられないシーンが、王女マリー・テレーズと王太子ルイ・シャルルを両脇に長椅子に腰掛けて父フランツ1世の子守唄を歌う場面。
背後からルイ16世が王女と王太子にウサギと帆船のおもちゃ(たぶん自作)を渡して喜ばせて。なんて幸福な家族の絵だろうと。
ルイ16世は王様なのに、いつも王妃のために長椅子を抱えて持ってきてくれるのだけど、それが自然すぎて(笑)。
2人が王と王妃でなければ・・・と思ったシーンでした。

革命の理想は一切描かれず、反国王派は権力への野望を原動力として王妃の醜聞を撒き散らして、生活苦に不満を持つ民衆を煽っていく者たちとして描かれていました。
そこに現実に不条理を感じて王妃を憎んでいるマルグリットが加担して物語がすすみました。

物語の中でマリーが犯した過ちは、国民の生活に関心を向けなかった無知とそれによる浪費と、母マリア・テレジアが嫌っていたロアン大司教を自らも嫌い彼女のプライドを傷つけた彼の誤解が許せず国王の処分に口を出したこと・・・くらいでしょうか。

2幕はマリーと国王一家が人びとの悪意の前に為す術もないさまを、マルグリットとともに見続けて・・・。
さいごは私が物語を咀嚼する間もなく、出演者全員が登場して「どうすれば変えられる」「その答えを出せるのは我ら」と歌い出したものだから、なんだか釈然としないまま終わってしまった感がありました。

2回目の観劇は9月18日。
花總まりさんのマリー・アントワネット、ソニンさんのマルグリットで、ほかは1回目と同じキャストでした。

2回目ということもありますが、花總さん、ソニンさんともに表現が大きいのでわかりやすいなと思いました。
花總マリーは、「好き」という感情も「ゆるせない」という感情も真っ直ぐで無邪気だなと思いました。
フェルセンの諫める言葉も、笹本マリーは理解してくれるかも?と期待しながら見ていた気がしますが、花總マリーだと完全にダメだこりゃ・・・と。
それくらい目の前の人しか見えていない感じがしました。
ロアン大司教のことで国王に口出しをする時も然り。
本当に世間知らずなお姫様のままで来た人なんだなぁって思いました。
ドレスを選ぶ場面もとっても無邪気でそれだけにのちのちを思うと胸が痛かったです。
また花總さんは負の感情も上手く表現できるのは流石だなぁと思いました。

そして花總マリーの真骨頂は、2幕の息子を奪われる場面の高貴な王妃だった女性のなりふりかまわぬ必死さ、そして裁判の場面の毅然とした王妃の態度にあるなぁと思いました。
1幕の無邪気なばかりの王妃からの変貌。これが本当のマリー・アントワネットなのかも。
本来は聡明な女性なのかもと思いました。
昔は昔なりに周囲に求められる王妃であろうとしていたのかも。
少なくとも輿入れして来た頃のフランス宮廷では、何も知らぬげな綺麗で高慢で可愛らしい王太子妃がうけていたのでしょう。
時代が変わらなければそんな王妃でもよかったのかもしれないけれど、財政が破綻し人びとが新しい価値観に目覚め平民が力を持ちはじめた時代にあってもなお、そのままであり続けたことが彼女を悲劇に追い詰めたのかな。
けれどその過酷な経験が彼女を1人の人間として王妃として成長させたのかなぁと思いました。

ソニンさんのマルグリットも表現が大きくて、力強く民衆を扇動し、感情をぶつけていました。
昆さんのマルグリットが、なぜ自分は彼女ではないの?という個人のせつなさと屈折が強く感じられたのに対して、ソニンさんのマルグリットは彼女が「間違っている」と思う世の中の不条理への憤りが強かった気がします。

劇中でフェルセンが突然マルグリットに「君はどこか王妃に似ている」と言い出すのですが、容姿にしても行動にしてもその時点で2人が似ていると思えるところはないので、何を言い出すのかな?もしかして2人は姉妹でしたとかいうオチでも用意されているのかしら?(まさかね)と思っていたら、本当にそうで。
でも2人が姉妹であることが何かをもたらしたと思える結末でもなかったので、あれはなんだったのだろう?と思いました。

なによりも命に代えても大切な女性の危機的な時期に、そんなことを調査するフェルセンの行動が不可解でした。
それをあのタイミングでわざわざマルグリットに告げるのも。
「なぜ彼女は私じゃない?」と思うほど自分と王妃の境遇のちがいが心の闇であるマルグリットに対して、実は2人は同じ父を持つ姉妹だと告げることは、その心の闇をさらに広げることになるのでは?

その直前の出来事ではマルグリットは王妃に同情的であったのに、あれを言われて彼女は王妃の手紙の内容をジャコバン派に告げようと決めてしまったように見えたのだけど。
(だとしたら、フェルセンの作戦は大失敗ということになるけれど・・・)

贅沢をゆるされ家族や友人や恋人に愛され穢れを知らずに生きてきたマリーと、自分を守るべき者たちから棄てられ虐待をうけ地べたを這うように自分を汚して生きていたマルグリット。
運命の歯車がすこしずれていたら、自分がマリーの立場で生きられたかもしれないなんて、あんなタイミングで聴きたくはないと思います。

そういう咀嚼しきれない状態で結末を迎えたのでやはり2回目も全員での歌いあげの歌詞が唐突に感じられ心に入って来ませんでした。


3回目は、9月24日。
笹本玲奈ちゃんのマリー、ソニンちゃんのマルグリット、古川雄大さんのフェルセン、佐藤隆紀さんのルイ16世でした。

原田優一さんのルイはとっても可愛らしくて微笑ましい王様で、佐藤さんのルイは包み込むような大らかさのあるルイでした。
どちらも奥さんにも子どもにも優しくてほんとうに良き父、良き夫で。
ほんとうに、国王でなく鍛冶屋だったら多くのものは得られなくても幸せに生きられたかもしれないなぁと思いました。
こんなに美しい妻を娶れたかはわからないけれど。

1週間ぶりに見た笹本玲奈ちゃんのマリーがとても表現が豊かになっていて引き込まれて見ました。
タンプル塔でフェルセンに子どもたちを置いて逃亡することはできないと言うマリーと、そんなマリーを思い涙を流すフェルセンとの場面。これでさいごになるかもしれない2人のそれぞれの感情が見ていてつらくて、そしてとても美しかったです。
2人が歌う歌詞がもう少し詩的だと良いのになぁと思いましたが、2人から発せられるものに心を揺すぶられました。

チュイルリー宮でマリーとマルグリットが対峙する場面では、ソニンマルグリットがストレートに激しい憎しみをぶつけてくるので、笹本マリーも取り繕う余裕なく怒りの感情を昂らせる様が、1幕のマリーとはまるでちがって瞠目でした。
お人形さんのような優美な笹本マリーが取り乱す様に私は魅了されたのだなぁと思います。取り乱しても美しい人に。

これまでこの美しい女性はこんなにストレートな悪意をぶつけられたことなんてなかったんだろうなぁ。
遠回しの悪意なら上手にかわしてきたのかもしれないけれど。
かつてパレロワイヤルの舞踏会でマルグリットに初めて出逢った時は圧倒的に彼女が優位で、マルグリットの憎悪など彼女にはダメージでもなんでもなくて、むしろ「許してあげた自分」に満足していたのに。
いまはそのマルグリットと対等に言い争っている。そこに見えた人間らしさになんだか感動しました。
なんだか愛おしかったです。
(もしかしてもしかするとこんなきょうだい喧嘩をしたかもしれない2人なんだなぁ)

タンプル塔の場面は悲しい出来事が畳みかけるようにマリーに襲ってくる一部始終を、その場に居合わせるマルグリットの気持ちを思いながら考えながら見ていました。
憎しみの対象、とてつもない悪の象徴であったマリーアントワネットが家族を愛するふつうの人間であったこと。
彼女が憧れたであろう幸せな家族が目の前に存在すること。
子守唄を聴いて眠ったであろう過去のこと。
目の前にあるこのささやかな幸せがつづくことをきっとマルグリットも望みはじめていたのではないかな。
「なぜ彼女は私ではない」という思いもかつてとはちがって、激しい憎しみからではない別のところから生まれているようで。

なにが間違っているのか。
自分は何をしているのか。
いろんなことが彼女の心のうちを去来しているようで。
そんなマルグリットを見ていて3回目にしてようやくラストの全員の歌いあげる歌詞が入ってきました。
3回目は2階席から見たことも大きいかも。


3回ともフェルセン役は古川雄大さんでしたが、田代万里生さんのフェルセンも見たかったなぁ。
花總さんと古川さんは私の中でシシィとルドルフの印象が強くて、息子を盲愛する美しい母親と、愛する母親の目をどうやって覚まさせればよいのか為す術のない息子に錯覚して見えてしまったのでした。
(お顔立ちとか高貴な雰囲気が似ている印象の2人だからもあるかも?)
花總マリーと田代フェルセンを見てみたかったです。
花總マリーと昆マルグリットの組み合わせも見たかったです。
公演期間が期末の2週間でなければ後半にチケットを増やしたのになぁ。

単純なストーリーなだけに、役者さんの力で見せる作品だったなぁと思います。
それだけに、キャストが変わる面白さがよりいっそうある作品だと思います。
「1789」ではまったく使わなかった盆が多用されていて、セットが高く作られているので2階から見る景色がとても良かったです。
役者さんが左右の高いところから両方からセリフを発したり、前方席だと見逃すこともある作品でした。

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