誰のものでもない この私は。
7月11日帝国劇場にてミュージカル「エリザベート」を見てきました。
昨年新キャストに愛希れいかさんエリザベート、古川雄大さんトート、三浦涼介さんルドルフが発表になり、驚きとともになんとかして見たい気持ちが大きくなりました(これまでは帝劇のみの年は見送って博多座公演まで待っていました)。
1泊2日の東京滞在でメインキャストがかぶらない2公演を見て、宙組「オーシャンズ11」を見て、さらに家族のミッションも遂行できる唯一の平日ということで決めた旅程でしたが、自分の選択(ではなくて運の良さ?)を自慢したくなるような最高のマチソワができました。
【マチネ】愛希シシィ古川トート平方フランツ三浦ルドルフ剣ゾフィー成河ルキーニ
【ソワレ】花總シシィ井上トート田代フランツ京本ルドルフ涼風ゾフィー山﨑ルキーニ
昨年の宝塚歌劇月組公演「エリザベート」でちゃぴ(愛希さん)のシシィに心惹かれたのですが、やっぱり私はちゃぴのシシィが好きだなぁと今回観劇して思いました。
嫌なものは嫌(Nein!)という拒絶の強さだったりとか、自分の気持ちをなだめることが苦手そうなところとか。
人の言葉を都合よく信じてしまうところや期待とちがうと裏切りと捉えてしまう稚さやショックの大きさだったり。
裏を探らず表面に見えるものに真正面から対応して人間関係を険悪にしてしまうところとか。
いつもギリギリの細いロープの上を歩いて。自ら危険に早足で近づいて、潔いほど死と背中合わせな生き方しかできないところ。
もっと慎重に、もっと用心深く生きられたら、この人(シシィ)の人生はちがっていただろうにと思えてならないところ。
魂の叫びのような「私だけに」。彼女の真骨頂ともいえる「私が踊る時」。楽曲と芝居が面白いようにピタリとはまっていて。
1幕のちゃぴシシィは胸がすくくらい危機と隣り合わせで大胆で力強くて惚れ惚れと見ていました。
私はこのシシィが主体の物語が好きなんだなぁと思います。
生きるエネルギーに溢れて自我の塊のシシィが、つねに自分と相容れない誰か(何か)と取っ組み合いをするかのように闘い、自分の人生を生きて行くストーリー。
自分が望むままに行動することを否定され、受け入れ難くて泣き叫んでいるように見えたちゃぴシシィが「誰のものでもない、この私は」と自我に目覚めそれを肯定し、自分のやり方で自分の思い通りに人生を動かし勝ち誇る。
そして人生のピークから谷底へ滑落しまいと必死でしがみついている岩が一つまた一つ崩れ落ちるような後半の人生を蒼白の面持ちで生きつづける彼女の生き様の物語が。
けしてトートのせいで不幸になったのではない。
無意識に自らトートを傍らに呼び寄せているように見えるシシィでした。
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古川トートは彼女の気持ちの隙間から現れ彼女を見て嗤う影のようでした。
あのトートはシシィの自我からはみ出した影であり、時代の影でもあるなぁと革命家たちとのシーンを見ながら思いました。
19世紀から20世紀初頭的な何か。前時代にはなかった概念がまだはっきり形を成さずに漠として一部の人びとの心に見えている。
そんな印象をうけました。
シシィの心が弱ると姿を現し忍び寄り誘惑する。
彼女が自信に溢れ尊大になると彼女から離れて死へと追い詰めるために画策する。
意思をもってそうしているというよりは、まるで「現象」のようなトートでした。
こんなトートは見たことがなかったかも。
不思議でひたひたと怖いトートでした。
平方元基さんのフランツも初めて見ましたが、とても端正な軍人皇帝に見えました。
彼の人生の中でこれまで出会ったことのない想定外の妻の言動にどう接してよいかわからなくて腫れ物に触るように一歩引いているかんじ。
とても抑制的で真面目な皇帝だなぁと思いました。
母の厳しさの理由も理解し疑う余地もなく信頼している印象。
シシィにもわかってもらえると思っていたのに全く理解しない妻に正直戸惑いながらも、いずれは妻にもわかる時がくると、自分の感覚に疑いを抱いていない皇帝だなぁと思いました。
彼が良かれと思うことがシシィの気持ちと乖離しているような。交差するボートの航跡が見えるようでした。
それは息子に対してもおなじだなぁと。
そんな平方フランツが、剣ゾフィーにもうあなたの助言は聴かないと宣告する場面が衝撃でした。
シシィの無茶ぶりに応じるのが意外で。賢帝なのか愚帝なのか。その愛はシシィという個人に向けられたものなのか、妻である人が誰であっても一途でまじめな家族主義者なのか?
そのへんがわからないままでしたが(なんとなく後者な気がする)、シシィとは絶対にすれちがうだろうなと思う、ある意味基本のフランツでした。
シシィに「むりよ、私には」と言われるのを見ていてもシシィに肩入れできました。
剣幸さんのゾフィーは厳しさの裏に慈愛が隠れているのが見えました。
フランツもこの母を信頼しているのだなぁと思いました。
息子を皇帝とすべく、1人の魅力的な女性と見られることを一切捨て去って名誉男性として生きてきた女性。個人としてよりも立場を生きることを重んじ、息子である皇帝の決断にも助言というかたちでパターナリズムを発揮して介入しつづけた帝国主義の鑑のような女性なのだけど・・・。
剣ゾフィーはつい、この人の言うことを信じて頼ってもよいかも?思ってしまいそうな心地よさがあるゾフィーでした。
剣ゾフィー平方フランツ愛希シシィ三浦ルドルフだと、道徳的にマトモな母と母を信頼している息子ととてもつもなくエゴイストで型破りなその妻と、愛に飢えた可哀想なその息子という家族像に見えました。
真意がつたわるということの難しさを感じさせるゾフィーでした。彼女が生きた時代の大半や立ち位置からすると、彼女の言動はまさに愛なのだろうと思いました。
家族を守る愛(エゴイズム)と自分を守る愛(エゴイズム)のせめぎ合いのようなゾフィーとシシィだなぁと思いました。
三浦ルドルフを夢中で見てしまいました。
疾走感とか、一点しか見ていないかんじがスリリングなルドルフだったと思います。
幼い頃から寝室で独り暗闇と自らの内面を見つめつづけて過ごしたであろう青年は、たがいに相容れない生き方の父と母を見比べては、帝国主義の父は時代遅れだと感じ母の自由な生き方に憧憬を抱いていたのだろうな。
祖母ゾフィーの言いなりな父の姿や、母と祖母の確執もその目で見て感じて成長しているよね。
心の中に育んだ理想を一途に信じ突き進み、夢破れて闇に落ちる。
本人は主体的に選び主体的に行動しているつもりが、なにかに影響され操られている感。
ルドルフとのシーンでもトートは「現象」のようなかんじがしました。はっきりとは見えないもの(新時代?)が凝り固まった影のような。
なんだかそれが面白くて夢中になって見てしまいました。
ルドルフは自分に寄り添うトートという影に母に通ずるものを感じて死を選択するのだなと思いました。
博多座で衝撃的だった成河ルキーニは期待通りに凄かったです。
いやもう記憶以上によかったです。フェイクの入れ方、あや?と翻弄されるかんじも好きでした。
彼が下世話に語ることでシシィが美化されないから私はこの「エリザベート」というミュージカルが好きなのだなと思います。
(良き妻良き母で国民思いの皇妃が苦難を耐え忍ぶ物語だったらこんなに何回も見ていない・・笑)
19世紀末オーストリアにこんなエゴイストな皇妃がいた。世界に冠たるハプスブルク帝国の宮廷で自分が感じた違和感に屈せず、自分が選択した人生を生き、有頂天も失意も味わい、下世話で卑猥なアナーキストの凶器によってあっけなく命を落とした。
その世界観が好きで、これが見たかったんだ!と心がざぶざぶしました。
何回も見ているのにまたも「エリザベート」ってこういう作品なんだ!と目から鱗がなんども落ちる経験ができて幸せでした。
おなじ脚本、おなじ楽曲でありながら、役者が変わると違うものが見える作品というのはどういうことなんだろう。
そこには何が見えているのだろうと考えています。
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