それが惚れるってことじゃないのか。
9月8日に熊本市民会館、9月14日、15日、16日に福岡市民会館にて宝塚歌劇宙組公演「追憶のバルセロナ」「NICE GUY!!」を見てきました。
「追憶のバルセロナ」は正塚先生の作品としては珍しいコスチュームプレイで個人的に好きな作品でもあり、いまの宙組での再演はうれしかったです。
正塚作品独特の間やセリフでありながら現代劇ではなく時代物であることが、いつもよりさらに難易度を上げているかんじで、熊本で見た時はいまひとつ力不足かなと思う部分もあったのですが、1週間後の福岡公演ではそれもかなりこなれて、タカラジェンヌの吸収力と成長は凄いなとあらためて思う次第でした。
往年の柴田作品に対するオマージュでもありつつ、正塚先生世代独特の価値観も随所に見える作品だなぁと、そこに私は惹かれるのかなぁと思いました。
ロマのロベルトに言わせている『惚れた相手が行きたいならそれがどんな所でも一緒に行こうとするんじゃないのか。それが惚れるってことじゃないのか』とか。往年の柴田先生の作品を見て蟠っていたところに刺さってくるのですよね。
おとぎ話だよねとも思うし、戦後生まれの浅薄な理想かもしれないけど。でもそこが好きです。
理想はいつかかたちになるかもしれない。そんな希望が抱ける世界が好きです。
柴田先生の作品ならばきっと「酒場の女」と「良家の令嬢」という属性で分けられたそれぞれの女性は、その垣根の中から決して外へ出たりはしない。
青年貴族である主人公は、市井にある時は片方の属性の女性と燃えるような恋愛をして、みずからの本懐を遂げたのちは心を切り裂いてでもその熱情を断ち、戻るべき場所=もう片方の女性が属する場所へと戻っていく。
主人公目線からすれば、貴族の継嗣に生まれた者が、青春という刹那の時間を生きたのちに、生まれた時から授けられた重責を背負う覚悟をもつまでの心の軌跡を描いたということになるのかもしれないけれど、ヒロインを思うと私は釈然とはしないのです。
『私にはずっと結婚を待たせている心優しい許嫁がいる』と予防線を張って付き合い始めるとか、女性にランクをつけているからこそできるわけで。いまの時代にこういうものを見せられてどう思えというのかと。これがかつての男のロマンなのかとか? 主人公もつらいよねとか?
たしかに一瞬憂いを帯びた美しいお顏にだまされはしましたけど。でももう無理。(完全に「バレンシアの熱い花」を想定中)
かつての名作も、いま上演するなら内容は吟味してほしいと思います。
でもそうは言いつつ、往年の柴田作品ほどのクオリティの脚本が書ける人が現時点でいるかというと難しいのだろうなぁ。
ゆえに、こんなふうに次の世代の作家がオマージュやリメイクをする試みは面白い実を結ぶやもしれないなと思います。
この「追憶のバルセロナ」も初演は17年前。『ずっとそばにいてくれ、それがお前の力だ』『自分のことのようにあんたを思ってる』―― いまならこれが男女逆でもいいのになぁと思ったりもします。でも正塚先生だからそれはないな。いつか若手の女性作家さんの手で描かれる日が来るといいな。
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15日に一緒に観劇した地元の友人が、「トップさんの役が相手の女性を好きすぎないのがよかった」と言っていました。
どこか突き放した感じが好ましかったのだそうです。ああまさに正塚先生の真骨頂を捉えているなと。
どこかぶっきらぼうで、女性に自分の気持ちを押し付けてこない男性像は正塚作品らしいなと思います。(裏を返すと煮え切らないで無責任な態度に見えたりもするのだけど)
主人公フランシスコ役の真風涼帆さんは、役の捉え方、ニュアンスの出し方にセンスがあるなぁと思います。だから微妙な立場の役なんだけどズルさをかんじない。
スレンダーで大人っぽい女性(セシリア)が好みで、子犬のようにキャンキャン元気な娘(イサベル)がいつも傍らで世話を焼いてくれていても気持ちはスルー。親切は受け取るけど、仲間として守ってやるけど気持ちはスルー。手は繋ぐくせにスルー(笑)。
記憶を失くしていてもその好みは変わらないらしいと思っていたら。親友の妻となったセシリアが旅立った後、終幕のイサベルとのキスシーンに初見でおおいに驚きました。いつのまにそこまで盛り上がっていたのかと(瞠目)。ちょっと置いてきぼりをくらった気分の熊本での初見でした(笑)。
間を置いて福岡公演初見で、最終幕のイサベルと戯れるフランシスコにイサベルへの愛おしさが見て取れて、抑えていたものをようやく解き放てたのかと思えて納得。そこから毎公演ニヤニヤと見ていました。まかまどの戯れはほのぼのとして好きだなぁ。
星風まどかちゃんはイサベルみたいな元気な女の子が似合うなぁ。歌もダンスも正塚先生らしいコミカルなセリフもとっても上手いなぁと思いました。
フランシスコのことが好きなのだろうに、彼の負担にならないように物言いも物腰もサバサバとしていて。自分がロマの娘で、フランシスコは良家の子弟で、考えることもいろいろあるのだと思います。
『あんたの女にしてくれって言ってるわけじゃないもの』―― という言葉に込められたイサベルの思い。彼女なりの思慮。
「俺はいつ終わるかわからないだろう」「それでいいじゃない、どうするかはその時考えるよ」も。自分の立場でフランシスコの人生にどこまで関わっていいのか、考えている女の子なんだなぁ。
「どうしてひとりで大騒ぎするの」「みんなひとりじゃないよ」と。「私がいる」とは言えない、 恋人になれる立場ではないとわかっている彼女が精いっぱい、フランシスコの力になる言葉を投げかけようとしている。「好き」という言葉を避けて、一緒にいたいんだって言っている。この思い、フランシスコに伝わっているのかなぁ。
そこにセシリアが訪ねてくるという。彼女が持っていないものをぜんぶ持っている女性が。
なんというシチュエーションを作るんだ正塚先生。ちょっとどうするのよ、フランシスコってば。
バルセロナを牽引する有力貴族アウストリア家の嫡男に生まれたフランシスコ。彼がフランス軍との戦闘で負傷し記憶を失っているうちに父は処刑され母も失意のうちに病死、婚約者は親友の妻となってしまっていた。
帰郷した彼が決意するのは、アウストリア家の再興ではなくスペイン独立を目論むゲリラ指導者の1人となること。(うん正塚先生だなぁ)
だからこそイサベルはフランシスコと行動を共にすることができるんですよね。彼が貴族の当主におさまる道を選んだらやはり一緒にはいられないだろうから。
そんなところが作者がなにに重きをおいているのかわかるような気がします。
スペイン史を想うとき、待っているのは苦難だろうなぁと思うのだけど、後悔しない生き方を2人は選んだのだと切ない気持ちを納得させて見るしかないなぁ。
なにが絶対とかではなくて、その瞬間になにを思い、なにを本気でもとめたかかなぁ。
結論がでない問いをくれる作品が私は好きなのかなぁ。
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