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2021/12/08

この世界のうつくしさ人の素晴らしさ。

12月3日4日5日、福岡市民会館にて宝塚歌劇宙組公演「バロンの末裔」「アクアヴィーテ!!」を見てきました。

ほんとうなら去年の秋に博多座で宙組が公演するはずだったのだけどコロナ禍で中止となってしまってとても悲しかったです。
ショーはきっと「アクアヴィーテ!!」にちがいないと公式グッズのグラスもその時に使えるようにはりきって保管して、心底楽しみにしていたので心底がっかりしてました。
今年の11月~12月の全国ツアー公演が発表されてからは、ひたすら中止にならないことを祈っていたので、無事に公演が開催されてほんとうにうれしかったです。
全国ツアー公演の愉しみのひとつである客席降りもいまはできない状況なので、持参した公式グラスでうれしい気持ちと福岡へようこその歓迎の気持ちを込めて客席からエアーで乾杯させていただきました。

福岡市民会館は博多座ができるより前の1970年代から宝塚歌劇の定期公演が上演されてきたホールで、客席がワンスロープになっており客席降りの演出で2階・3階が置いてきぼりにならないのが嬉しいのですが(以前の公演では真風さんか3階席まで来られたことも)、築50年以上の建物のためロビーの狭さやお手洗いの数に不都合もあり、例年だとなんとかイベントスタッフの方々で入場の列、お手洗いの列を捌いていた状況だったと思うのですが、今年は3日間の公演の初日はこれ大丈夫なのかなと心配なほどいろんなシーンで混みあっていました。
最終日はだいぶよくなっていたので、これもコロナ禍で公演中止が続いたことの弊害だろうなぁと思いました。(例年だと春と秋の2回宝塚を上演しているのでノウハウが引き継がれていたのかな)
こんなふうにいろんなところで引き継がれてきたノウハウが途絶えたりしているのだろうなぁ。(お茶会や入り出待ちなどはどうなるのかなぁ)
ちなみにですが、2024年に福岡市民会館は現在工事中の須崎公園の場所に建て替え移転するそうです。

「バロンの末裔」は熊本公演で見た1週間前よりさらにブラッシュアップされて、正塚先生の作品世界で皆がイキイキと息づいていました。皆それぞれに自分勝手で健気で変人で愛おしかったです。

そして見終わったあとに、気持ちが晴れやかになるというかモヤモヤがすっきりする作品になっているなぁと思いました。それはわたし的には意外でもありました。

15年以上前宝塚ファンになりたての頃に初演を映像で見た時は、エドワードがズルイ気がしてモヤモヤしていたのを覚えています。
辛い決断はなにもかもキャサリンにさせちゃうんだと思って。あんなに追い詰めて。
重い現実はキャサリンに背負わせて自分は去って行ってしまうんだと思って。
キャサリンの心情とか、彼女とローレンスの未来とかを、とても悲観的に見ていたんだと思います。

それがいま、2021年版を見終わったら、みんなモヤモヤが晴れてよかったねーという気持ちになっていました。
皆がそれぞれに何かを乗り越えて心の居場所がステップアップしたように思えたのです。

キャサリンに対して無一文になったローレンスを支えて生きていける訳がないとエドワードが言う場面、いやいやその人なら大丈夫じゃないかなと反論したくなりました。潤花ちゃんのキャサリンは生きる力に溢れているように見えたから。
きっと1人で奮闘するのではなくて、領民たちや人びとの手助けを上手に受けながらやっていけそうと。エドワードだって助けるにきまってる。

熊本公演を見て以来、エドワードよりローレンス派だったんですけど、4日のソワレでこの場面のエドワードの子どもっぽい不貞腐れたような顔に気づいて、あ、エドワードは彼女に自分の理想のキャサリンでいてくれなくちゃ嫌だと駄々を捏ねているんだと思いました。
彼はキャサリンや兄に対して、思い通りにならなかった貴族のしきたりや世の中に対して、それらを愛しているからこそ、こどものように拗ねているんだと気づいて、なんだかきゅんとして愛おしい気持ちになりました。(やばいセンサーが働いてる)

こどもの頃、驚いて逃げたローレンスに対してキャサリンをおぶって帰ったりしたのは、無意識に自分を認められたいと、自分の入るスキマをつねに探していたこどもだったからだろうと思いました。
なにも言わずとも皆が先回りをして思い通りになっていく兄と、言わなくては気づいてもらえない自分、というようにこどもの彼には見えていたのだろうと思います。
けど言えないだろう?と。自分がワガママを言えば、自分が愛する世界が壊れてしまうだろうと。そう思って家を出て行ってしまったのだろうなと思います。

そんな彼が、兄が倒れたという報せに故郷に帰って見れば、なつかしい人びとが変わらずそこにいて、大切だからこそ諦めた人や風や大地のなつかしい香りがそこにあり、けれどそのすべてを持っていたはずの兄はそれらをすべてを失う寸前で。
この自分が育った故郷の大地がそこに暮らす彼らともども失われてしまうという現実に直面してそれに本気で対峙することで、彼はひとつひとつのかけがえのなさに気づけたのだろうと思います。
そのなかには、兄ローレンスが自分が故郷を離れているあいだもたゆまずこの家や領土を守ってきた事実も含まれているのじゃないかな。たまに帰る自分とはちがい日々そこに暮らし守っている兄、守ってきた人びとのことに思い至ることができたのじゃないかなと思います。

それにやっぱりエドワードは、愛する人が息づく世界を愛したい人なんだと思います。
そこに自分がいれば最高なんだろうけど、その愛する世界を壊すくらいなら自分はそこにいなくてもよい人なんだろうと。一時の激情に流されそうになることはあっても、思いとどまれる。
ローレンスの夢が愛するキャサリンとともに暮らし、彼女が生きているこの世界のすべてを愛することというのと似ているけれど微妙に異なる。同じ顔でも立場の違いで責任も求めれることも違い、メンタルも変わるのかな。

ローレンスとキャサリンが穏やかに笑っているところに、自分はいつでも帰っていけることが彼の望んでいる幸福なのではないかと思いました。
それがいつからかははっきりとはわからないけれど、きっと3人で領地を駆け回っていたこどもの時にはそうだったのではないかと。
愛する人びとが笑って暮らしている世界をそのままのかたちで守りたい、とても保守的な人なんだなと思います。守られる側じゃなくて守る側になりたい人なんだな。そして守ったものを眺めて幸せになれる人なんだろうな。
キャサリンもそれに気づいたし、エドワード自身も気づいたのではないかなと。だから2人ともモヤモヤが晴れたのではないかなと思います。

たまに帰郷して、たくましく生きるキャサリンたちと相変わらずなローレンスの顔を見てなつかしみ、英国人的な皮肉を言ったりローレンスの前でわざとキャサリンを喜ばせたりして、彼らへの愛をたしかめたりしてほしいな。
5日のマチソワはそんなことを想像しながら真風さんのローレンスとエドワードを見ていました。

 ここに生まれ 人の世の なにもかもを知った
 この世界の美しさ 人の素晴らしさ
 忘れることはない

(エドワードのことばかり書いてしまったので、次はローレンスやキャサリンやほかの人びとについて書きたいです。皆大好きだったので)

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