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2022/05/27

たとえ悲しみでもいいから。

5月25日にシアター・ドラマシティにて宝塚歌劇月組公演「ブエノスアイレスの風」を見てきました。

演目が発表された時、若々しさが持ち味のありちゃん(暁千星さん)には合わないんじゃないかなと思ったのですが、豈図らんや。
反政府ゲリラとしての活動に青春のすべてを捧げ仲間を亡くし生き残り、心に癒えぬ傷を抱えて虚しさに抗いながらいまを受け容れて生きて行こうとする男を、ありちゃんは丁寧にそして真摯に演じてその人物の像と影を浮き彫りにしていました。
あのありちゃんが——!ときっと多くの人が思ったのではないかな。

歴代のニコラスとも違ったクセのない芝居で、セリフがすっと入ってくるかんじ。
初演は映像で繰り返し見た作品ですが、ありちゃんが演じることで気づけたニコラスの心情もありました。

当時は紫吹淳さんのカッコよさにひたすら痺れて、じつは物語のシチュエーションについてよくわかっていない部分もあったかも。
宝塚を見初めの頃で男役のカッコよさに耐性がないところにもってきて、あの煮凝りのような濃さを浴びてしまって思考力よりも感性で見てました。
紫吹さん独特の洗練された身のこなしから繰り出される溜め台詞に完全ノックアウトされてたと思います。
「友達が、」(カウントできるくらいの間)「・・・死んだんだ」。
ここだけ切り取って見たら堪らず爆笑してしまうかもしれないけれど、作品の流れの中に緊張感をつくり観客を自分に集中させてから一気に感情の堰を切る技量はお見事。
まさに「ザ・紫吹淳」の真骨頂でした。

あのニコラスを、ありちゃんがどう演じるのだろうと思っていたのですが、思いのほかナチュラルなニコラスで、感情の流れも物語の文脈もしっかり表現していて、腑に落ちること腑に落ちること。
初演の頃は、人間やその関係性の複雑さ曖昧さが模糊としていても、その割り切れなさこそが現実だとストレスを感じずに鑑賞していたけれど、いまはなるべくわかりやすくクリアに演じるのが時流なのかな。とも思いました。
(悲しみの感情さえ自己責任という言葉で突き放される時代だからなぁ)

マサツカ作品にたびたび出てくる「7年」。
がむしゃらに理想を貫こうと世の中との軋轢に身を削り生きていた「あの頃」と、交わしてきた幾多の約束や人間関係がしがらみとなり折り合いを探しながら生きる「今」。
世の中を俯瞰し「あの頃」を冷静に思い返せるようになる時間が「7年」なのかぁ。
ありちゃんのニコラスは風間柚乃さんのリカルドとともに「あの頃」の想像を掻き立てるニコラスでした。
青春を共に過ごし理想を求めて熱く突っ走っていたんだろうなぁ。

そしてマサツカ作品に描かれるのは「不如意でも生きて行く人びとの悲哀」。
思い通りに生きている人なんていない、それでも生きて行く。というのはあたりまえのことだった。
いつまでも自己実現を諦めずにいられる時代になった今、この物語に描かれる人びとに共感することができるのか。
そんな危惧も杞憂に終わり、ピンと張りつめた糸のような芝居に終始見入り、終幕と同時に心からの拍手を送りました。
ありちゃんと月組メンバーの真摯な芝居を見ることで忘れていたことを思い起こさせられた気がします。

ありちゃん、下級生時代は芝居が課題だったとは思えないくらいいい芝居をするようになったなぁ。
心に響く歌、そしてダンスはもちろん素晴らしくて、異動後の星組を見に行くのがいまから楽しみで仕方ありません。

カーテンコールの時にありちゃんが「月組の好きなところ」を挙げていましたが、下級生たちが自分なりに考えて芝居に取り組みそれを上級生が温かく見守っているところ、皆が芝居に真摯なところ、袖ではふざけているのに、と語っていたと思います。
この「ブエノスアイレスの風」でも感じた月組の地に足の着いた芝居をまた見に行きたいなと思いました。

 たとえ悲しみでもいいから
 生きていればお前に会えるだろう
 忘れることはないよ・・・

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