夜明け色に咲いた愛の物語を。
12月12日と13日に宝塚大劇場にて星組公演「ディミトリ~曙光に散る、紫の花~」「JAGUAR BEAT-ジャガービート-」を見てきました。
13日は千秋楽でした。
「ディミトリ」は、この1か月のあいだに個々の役を演じる人たちがそれぞれの解を見つけ出しそれを目指して深めていったんだなぁと感動する出来栄えでした。
時に涙したり見蕩れたりもしましたが芝居が正解を導き出すほどに、どうしても興が醒めてしまう部分が残りもやもやしました。
終演後ファン友さんに思いをぶつけて気づかせてもらったのですが(・・恐縮)、どうやら私は一段と生田先生には厳しいみたいです。
どうしてかな?と考えたところ、目にとまった(耳にとまった)ディテールで期待を膨らませた結果、・・期待外れで勝手にプンスカしているみたいです。
意図したものの回収が拙いのか、そもそもどうする気もないものなのか、それすらもわからないものに期待しては裏切られているような。
そういうことが何作も続いているかんじです。
それに勝手に憤っているみたいです。
相対評価は高いのですが、ここに至るまでの私憤が混ざって絶対評価になると辛口になってしまうようです。
もっと高い所に行けそうなのにと思うと口惜しさに地団駄を踏みたくなるのです。
いつもは封をしているけど、そのもっと高い所の作品を心の底では求めているんだなぁと思います。
それを一瞬見せてくれそうな気がしてしまうんですよね。生田先生のもったいぶった言い回しや演出は。
だいぶ話が飛んでしまいますが、劇場も舞台装置もとても豪華でそれに携わる人々も演じるタカラジェンヌたちも並々ならぬ努力で舞台を作っているのだから、それに相応しく脚本も一級品であってほしいなというのが心の奥にあります。
繰り返し再演できるような、また見たくなるようなオリジナル作品を作り上げることが宝塚歌劇の未来には必要なのではないかなと思います。
そのためには、これはという作品はブラッシュアップして再演していくこともあってもいいのじゃないかなと思います。再度、時間とお金をかけて人的にも劇団の総力をあげて元の脚本を磨き上げていくことも。
「ディミトリ」をそのようにして何年か後にまた見せてもらえたらなぁと思います。
そしてまさに見てきたばかりの「ディミトリ」についてですが。
まず礼真琴さんが演じたディミトリはこんなに簡単に描いて終わる人物じゃないだろうになぁと思います。
この役を演じるのはとても難しかっただろうなぁと思いました。
彼という人物を主役として描くなら、もっと深いところ触れてもよさそうなのになと思います。
幼くして異教の国に人質に出された少年の寄る辺なき心。
人質にされた国の王女に救いを見出しのちに彼女の王配となるも、その出自によって宮廷中から疎まれる身で自分の居場所を定めるまで。
たった1人の味方であり彼の人生の意味そのものであった愛する妻=女王の許しがたい裏切り(不貞)からの幽閉の身となったこと。
そして王配としては憎むべき敵国の帝王に命を助けられ、彼の慈悲と寵愛を受けて生かされる立場となり愛する国が蹂躙されるさまをその傍らで見る思い。
その恩義ある帝王を、自分を裏切り苦境におとしめた女王への愛のために命を捨てても裏切る決意にいたること。
オーストリア皇后やフランス王妃に劣らないドラマティックな人生の物語が見れそうなんですが。
この不安定な立場の中で彼がアイデンティティをどう形成していったかを見たかったなぁと思います。
ヒロインにとって都合の良い夫、ヒロインに都合の良いおとぎ話で終わってしまったのがもったいないなぁと思います。
ルスダンは、それが夫の命を奪うことになっても、それが自分自身の心を抉ることになっても、女王としての決断を重んじた。ジョージアの女王であることが彼女にとって自分の生きる意味にまでなっていた。
ディミトリは、ルーム・セルジュークの王子でもディミトリでもなく、ジョージアの王配だという言葉に満足して息絶える。
これは対称なのか非対称か、微妙に思えます。そうともとれるし、ちがうともとれる。
そこももやもやが残るところだったなぁと思います。
ディミトリのおかげでルスダンは背負うものが軽くなったよ、よりは、ディミトリの死を背負ってルスダンはその後の人生を苦しみながらも果敢に生きて死の時を迎えた、のほうが私は好きです。
原作にあった「狐の手袋」のエピソードにいちばん心が震えたのもそれかなと思います。
うまく言えないのですが、「ディミトリ」と「曙光に散る、紫の花」の中間ぐらいの物語を見たいなと思います。
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