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2023年4月の4件の記事

2023/04/30

この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい。

4月9日と11日に福岡市民会館にて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。
9日ソワレはライブビューイングが実施された回、11日ソワレはツアーの大楽でした。
3月29日に梅田芸術劇場メインホールにて一度観劇しているのですが、期待以上のものが見られたので福岡での公演も楽しみにしていました。

梅芸観劇後の感想にも書いたのですが、「バレンシアの熱い花」は2007年版、2016年版を経ての今回の上演でようやく私は見方がわかった気がしています。
そしていままで何に戸惑っていたのかもわかったような気がしました。

物語の舞台やコスチュームは19世紀初頭のスペインに仮託しているけれども精神は極めて日本的な物語だということ。
身分社会に生きる人々の物語であって、それも西洋ではなくて日本のそれのほうが近いこと。
歴史物というよりは昭和の痛快時代劇に近く、そこからエログロを一切抜いて、物語の舞台をナポレオンがフランスに帝政を布いた時代のスペインとし恋愛模様を織り込んだコスチュームプレイとして宝塚作品らしく書かれたのがこの作品なのだと思います。

今回のキャスティングがピタリとはまっていたことと、専科の凪七瑠海さんと星組メンバーが丁寧に表現していたので、時代がかったセリフや歌詞を堪能することができました。

父親の復讐を心に誓いその時機が訪れるまでは『貴族のバカ息子』を装うフェルナンドは大石内蔵助か旗本退屈男を彷彿とさせます。
(これに倣って「旗本退屈男」をヨーロッパの架空の国設定で翻案するのもいいなぁと思いました)
彼が軍隊を辞めてのんびり過ごすことにしたとルカノールに告げる場面で使う「二年越しに肩を凝らせていますので」という言葉がなんとも言えず好きでした。見終わってから心の中で何度も反芻しましたが私には一生使う機会はなさそうです。

軍隊時代にレオン将軍に剣を習ったと言うラモンにフェルナンドが「同門だ」と言ったり、言葉そのものもですし、同門だと『貴族の旦那』も『下町でごろごろしているケチな野郎』も一瞬で距離が縮まる価値観も面白く見ることができました。
このように西洋が舞台なのに作中でちょいちょい出てくる時代劇さながらの表現が違和感ではなくむしろ面白かったのは、演者の呼吸や間合いが作品の世界観に合っていたからだろうと思います。

主演の凪七瑠海さんや組長の美稀千種さんの芝居の呼吸が芝居全体に良い影響を与えている印象でした。時代めいたペースの芝居をラストまで貫けたのが見ていて心地よかったです。
作品に合わせた「臭い芝居」ができる人が何人もいる星組はこのようなタイプの作品に合うのだなと思いました。

主役の呼吸が芝居全体にとって大事。この作品はとくにセリフの持つ尺を堪えきることが大事なんだなと思いました。
凪七瑠海さんのキャリアが十分に活かされていたと思いますし、それでいてすっとした青年らしい若様を演じて違和感のないその個性も役にぴったりだったなぁと思います。

瀬央ゆりあさんも、人情に厚く仲間から愛されている役がよく合っていました。
軽口のように愛を告げ、妹にも好きに憎まれ口を叩かせて。相手に負担をかけないよう気遣うことが習いになっているのかな。両親を早くに亡くすかで小さい頃から周囲に甘えられずさらに自分より幼い妹を庇って生きてきた人なのかなと想像しました。
その妹を守り切れなかった悔しさと憤り、イサベラが傷つきながらも愛する対象が自分ではないせつなさ。言葉ではないものがつたわるラモンでした。背中で泣く(背中でしか泣けない)「瞳の中の宝石」は見ていてせつなかったです。

それからロドリーゴの「この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい」。
2007年の再演の時はその表現が衝撃的で絵面が脳裏に浮かび思わず我に返ってしまうセリフだったのですが、今回はすんなりと入ってきました。
芝居全体のペースにロドリーゴ役の極美慎さんも巧くはまった芝居をしているからだろうなと思いました。
ロドリーゴ役が極美さんと知った時からビジュアルは間違いなくはまるだろうと思いましたが、いかにも昭和のメロドラマパートでもある役なので危惧もしていたのですが、芝居が整うってこんな感じなんだなぁと思いました。
シルヴィア役の水乃ゆりさんとのペアは真しくタカラヅカらしい見栄えで夢中で追って見てしまいました。

この作品の見方がわかるようになったからこそ、深いところ細かいところも楽しむことができたのだなと思います。

そしていまさらながら16年前の再演ではじめてこの作品を見て戸惑ったことが思い起こされます。
再演を熱望されていた作品の30数年ぶりの上演ということで期待をもって観劇した時の。
ストーリーがわからないわけではない、登場人物の気持ちがわからないわけでもない。
でもどう受け取ればいいのかわからないそんな感じだったでしょうか。
(先ごろ半世紀ぶりに再演された「フィレンツェに燃える」を見た時に近い気がします)

今回で身分社会を背景にすることで成り立っている物語だということは飲み込めましたし、その社会を必死に生きている人々を描いた物語なのだとわかったのですが、それでも、というかそれゆえに、いまもなお考えさせられる作品でもあるなぁと思います。

フェルナンドとイサベラがどうして別れなくてはいけないのか、それはわかります。
フェルナンドが自分の社会的責任をまっとうしようとするならそれに相応しい伴侶が必要で、イサベラはそれに該当する身分ではないから。もっと言えば愛人として囲うことすらできないほど身分に隔たりがあるのだと。
むしろ商売女と割り切れば好きな時に好きなだけ逢うことが可能なのでしょうが、そういう相手にはしないことがフェルナンドにとっての誠意、「心から愛した」ということなのだろうと思います。独りよがりだとは思いますが。

別れなくてはいけないとわかっているのなら最初からつきあわなければいいのに、と思わなくもないですが、そうはいかないのが恋愛なのだという恋愛至上主義に基づいた作品なのでしょう。このへんの恋愛倫理観がおそらく書かれた時代と現代とは異なるのかなと思います。
女性にとって恋愛は文字通り「生と死」(生殖と身体的な死そして社会的な死)に直結するものだから、大事に守られている女性はそこへ近づけさせないのが身分社会においては当然で、自由で本能的な恋愛は女性の立場を危うくするものだという認識はフェルナンドにもあると思います。
逆に酒場で働いているイサベラはその囲いのうちには入らず、本能のままに近づいてもかまわない女性だという認識なのでしょう。

イサベラに激しい恋をもとめる歌を歌わせるのは、フェルナンドの免罪符になるようにという作者の意図が働いているためだと思います。
『息づまるような恋をして 死んでもいいわ恋のためなら』
『美味しい言葉なんてほしくないわ』
『黙って見つめて心を揺さぶる そんな激しい情熱がほしいわ』
こんな歌を好んで歌う女性だから、心の底に復讐の炎を燃やすフェルナンドの一時の相手に相応しいのだと。
傷ついても自分から望んだことだからフェルナンドを責められないよねと。

なぜフェルナンドはイサベラに愛を告げる時に許嫁がいることも同時に告げるのだろうというモヤモヤについても考えました。
けっきょくのところ、交際をはじめる前に「この関係は私の都合で一方的に解消するけど、それでいいね?」と言っているのですよね。そこでゴネるなら付き合わない。付き合うならそれでいいということだよねと。
それで双方がいいならこの件は締結なのに、キラキラした言葉で愛を告白しながら、でも自分には許嫁がいてその人は心優しい少女で自分は裏切れないのだ、と付け加えるのは、自分は悪者にはなりたくない、とことん良い人の立場でいたいということなんだなぁと。
ああこれはモラハラの手口だ。だから何年も何年もモヤモヤしていたのだなぁ。
うん、やっぱりフェルナンドは嫌いだ。
16年前はそんなフェルナンドを許容する理由を探して自己矛盾を起こしてしまっていたのだと思います。(だってめちゃくちゃ輝いて見えたから)

それから、心の奥でこの作品に息づく男社会礼賛に反発を感じていたのだということにも気づきました。
「女には口出しをさせない」のが男として恰好が良いという思想が貫かれていることに。
ルカノールの「男なら聞き捨てならない言葉だが昔一度は惚れたあなたのことだ聞かなかったことにしよう」、レオン将軍が孫娘の苦しみを知りながら「だからついでのことにもう少し辛抱させておくのだ」とか。
フェルナンドの「私のイサベラも死んだ」も。

言い淀むレオン将軍に「無理に聞くつもりはありません」と言うセレスティーナ、「じっと待ちます」のマルガリータ、面倒なことになる前に自分から別れを告げに来るイサベラ。
わきまえた女性ばかり。
お爺ちゃんたちの理想郷ですね。

それが初演当時1970年代の一般的な雰囲気だったと記憶しています。
同時に「ベルサイユのばら」等の少女漫画が少女たちの心に新しい自意識を灯した時代でもありました。彼女たちは女性であっても臆さずに真っ向から大貴族や将軍に意見するオスカルに憧れを抱いたのだと思います。
そんなオスカルを時に父ジャルジェ将軍は激しく叱咤しますが、どうしてダメなのか根拠は説明するんですよね。「男として育てる」というのはそういうことだと思います。(ほかの5人の娘たちにはこういう対応はしていないと思います)

宝塚の「ベルばら」はそんな女性たちの支持の理由に気づかず男性社会目線で作られている。初演当時でさえ原作よりも古臭い印象を与えていたのに、再演のたびに手を加えてもなおそのスタンスは変わっておらず、「女のくせに」「女だてらに」等オスカルが男性社会で生きることをなじるセリフや場面のバリエーションは豊富にもかかわらず、オスカルが人間としてもがいていることについては「女にも権利はある」と紋切型の主張で終わらせてしまう。
挙句の果てにオスカルに「あなたの妻と呼ばれたいのです」と言わせてしまう。
身分の上下なく1人の人間としての「アンドレ・グランディエ」の妻にと願ったことを、あたかも男性に従属したいと願っているかのように改悪されていることに憤りを覚えます。
いちばん変えてほしいのはそこなのに。オスカルが言っていることに、彼女が悩んでいることに、上からでも下からでもなく対等に耳を傾けてほしいと思います。
そんな「ベルサイユのばら」なら見たいです。
(話が逸れてしまいました)

「バレンシアの熱い花」は、柴田先生による初演当時の価値観による物語なので、そういうものとして見ることができますし、またそれを見ていろいろ考えたり、好きとも嫌いとも思うのは当然の観劇の感想かなと思います。
反発するところもありつつ、やはり人間観察に優れているし表現力語彙力に惚れ惚れもします。
心に悩ましい爪痕を残すやはり名作なのだろうなと思います。

今回やっと見方がわかり憑き物が落ちたような心地です。
このタイミングで近々、過去の一連の「バレンシアの熱い花」がスカイステージで放送されるとのことで、今の自分にどんなふうに見えるのか楽しみです。

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2023/04/15

二度と同じ夢は見れない。

4月6日と7日に宝塚大劇場にて宙組公演「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」を見てきました。

正直唖然としました。
でもトップスターの退団公演ならこんなものなのかもしれません。
小池先生の作品だし世界の「007」ということで期待しすぎていたのかも。
でも甲斐先生&太田先生の音楽でこの盛り上がらなさはどういうこと?とは思います。
音楽だけはいつも裏切らなかったのになぁ。

トンチキなのはいいとしても設定があまりに稚拙だと物語に入り込めないなぁ。
ロマノフの継承に関する部分とマッドサイエンティストのところでうーんとなってしまいました。
(ロマノフ家の帝位継承が指名制??「大公女襲名」??大公女の戴冠式??「大公女陛下」??そもそもツァーリの娘か孫娘に生まれないと大公女にはなれないのじゃないの??と同日観劇した知人に疑問を投げかけたら「考えたら負け」との御達しが)
イルカの歌のロジックも謎でした。
歌唱指導にも使用するくらいなのでいちばん言いたいことなんですよね?
キキちゃん(芹香斗亜さん)どんな気持ちで歌っているのかなぁ。タカラジェンヌは偉大だなぁ。

岡田先生の場合は女豹だけど、小池先生の夢は女子大生なのかなぁ。
大学生、劇作家、社会活動家など知的でお堅い属性の女性を籠絡するの好きだなぁ。
などとストーリーとは関係のないことを考えながら見ていました。
脚本自体、設定を面白がって書いているというか、散りばめられた過去作の欠片に気づいてほしそうに書かれているようでした。
ロマノフとか、マリア皇太后とか、マッドサイエンティストとか、女子大生もそういう欠片の1つかな。
いっそホテルを建てたらよかったのになぁ。
というか007の設定、いる? とかいったら元も子もないか。

でも007、冷戦時代のスパイものの設定が活きている場面が見当たらなかったのも事実。
スパイものなのに全体にまったりしていてスリリングな場面もなかったし、せっかくパリに英米仏のエージェントが集まったのに、英国人らしさ米国人らしさフランス人らしさでクスリとさせるような場面もなくて。
ステレオタイプすぎるのは批判されるかもしれないけど、共通認知を有効に使って知的に表現するのも腕の見せ所なのになぁ。
そういうところがスパイものの面白さだし、そこに1960年代らしさも加わるととても素敵なのに。

スパイものらしい身のこなしが素敵だったのが、スメルシュ役の鷹翔千空さんでした。
ピストルを撃った時の反動がリアルで。良い筋肉の使い方だなぁと惚れ惚れしました。
ジェイムズ・ボンドのこともル・シッフルのことも容易に仕留めてしまえそうなのに、さぁというところ部下を助けに行っちゃうのがツボでした。(良い人♡)

緩急のある芝居で場面を面白くしていたのはミシェル役の桜木みなとさん。過激派の学生と言われるとそうなの?という設定だけど。
それからゲオルギー大公の妃役の花菱りずさん。彼女が大袈裟なくらいに芝居をしてくれたので飽きずに見られたかなと思います。
天彩峰里さんも歌、芝居の巧さが際立っていました。ル・シッフルの横暴さを堪える部下の顔と自分より下の者には鞭を揮って悪女ぶったりしたかと思うとコメディタッチで場面をすすめたり、いろんな顔を見せてさすがでした。

真風涼帆さんはいつもの真風涼帆さんとしてカッコよくて、潤花さんもいつもの潤花さんで華やかで、芹香斗亜さんはいつものチャーミングな悪役で。
役というよりキャリアを踏まえての男役、娘役としての魅力で見せる感じでした。
トップコンビのサヨナラ公演らしくてそれもいいか。それができるのがスターだもんね。(しかし新人公演の主演者にはハードル高そう)

「007」と思わなければ愉しくて、愛のある退団公演ともいえると思います。
舞台の上に出演者が大勢いる場面も多くて、2度目に2階から見た時は壮観で楽しかったです。パラシュートの場面も近く感じるし!
初見では舞台が近かったせいか楽しみ方がわからなかったのかもしれません。せっかく舞台上にいるのに「あなたナニ人?」な人も多くて、そういうところ1人1人が役のバックグラウンドを見せてくれたら退屈せず面白く見られそうです。

そしてなんだかんだと言いながら、真風さんと潤花さんがパラシュートで寄り添いながら歌う場面や、デュエットダンスには涙目になってしまいました。
この愛おしい時間にも限りがあるのだなぁと。
ムラではもう見れないので来月東京公演で1回のみ見納めしてきます。

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2023/04/10

愛にすべてを。

3月29日にシアタードラマシティにて宝塚歌劇星組公演「Le Rouge et le Noir ~赤と黒~」をマチソワしてきました。
ドラマシティでの前楽と千穐楽でした。

前日に上階の梅田芸術劇場メインホールで宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を観劇してからのこのフレンチロックオペラ「赤と黒」の観劇は宝塚歌劇の懐の深さを再確認するこのうえない体験となりました。

柴田先生&寺田先生による歌劇と岡田先生&吉﨑先生によるロマンチックレヴューという20世紀の伝統芸能とも呼ぶべき宝塚と、21世紀のまさに今2020年代の進化する宝塚の両方の公演を同じ建物内の上と下で、同じ星組公演で見られたことに興奮しました。

およそ半年前に次の星組の別箱公演が礼真琴さん主演でフレンチロックミュージカルの初演目と知り、これは絶対に見に行きたいと思いました。
2019年のプレお披露目公演「ロックオペラ モーツァルト」、2020年の「ロミオとジュリエット」と礼さんにかかるとフレンチミュージカルのナンバーはとてつもなく輝くということを経験していましたから。
いつか礼さんロナンで「1789」を見てみたいとずっと思っていて、それも次回の大劇場公演で叶うことになったのですが、その前にシアター・ドラマシティで別のフレンチロックミュージカルが見られるなんてと期待が高まりました。

今回は実際の観劇に先立ちライブ配信を見る機会があったのですが、コスパ良くまとめられた脚本でストーリー展開自体ににドキドキ感があるタイプの作品ではなかったため集中して見ることができませんでした。
いちばんの敗因は家族に遠慮して音量を控えていたためだと思うのです。
これは劇場で生の音楽を浴びなくてはと意気込んで劇場に足を運んだのですが、想像を超えるものを体感できました。

ロックコンサートのような音響にぴたりとハマるヴォーカルと巧みな歌唱。このグルーヴ。
そうそうそう。これこれこれ。
これを聴きたかったんだと思いました。
レナーテ夫人とのデュエットの時のリズムの刻み方など最高でした。

レナーテ夫人役の有沙瞳さん、マチルド役の詩ちづるさんも素晴らしかったです。
小説「赤と黒」を読んだのはかなり若い頃だったので、レナーテ夫人に同情はしたけれどマチルドのわがまま娘ぶりには反感を持っていたのだったなぁ。
いまだったら絶対に好きになっていたなぁ。などと思い詩ちづるさんのマチルドから目が離せませんでした。

ストーリー的にはジュリアンの家族や神学校のくだりが割愛されているので、彼の孤独や心の屈折、社会への復讐にもちかい野望などは見えなくなっていて、私のイメージしていたジュリアンとは印象が違うかなと思いました。
この作品で礼さんが演じるジュリアンは内省的で純粋な面が強く出ていました。
赤と黒の意味も、よく言われる勇者(レポレオン)/名誉の赤、聖職者/野心の黒ではなく、彼の内面を象徴するもののようでした。

礼さんは柴田侑宏先生がスタンダールの「赤と黒」を翻案してつくられた「アルジェの男」という作品でも主人公のジュリアンという貧しく荒れた生き方からその才を有力者に引き立てられ野望を抱いて階級社会を駆け上がっていく青年を演じていましたが、この「アルジェの男」の主人公が野心のためには躊躇なく女性の心を利用していたのに対し、今回のジュリアンはレナーテ夫人やマチルドの本心を疑い懊悩するところが新鮮でした。
人を信じられず女性に惹かれるも彼女たちを征服する(愛情の上で優位に立つ)ことで安堵しているところは、孤独な生い立ちを反映しているなぁと思いました。

1曲1曲が長尺のフレンチロックのミュージカルナンバーをクールにエネルギッシュに聴かせるという大仕事をやりながら、ナンバーに尺を取られた分紙芝居のように次々に変わっていく場面と場面を表情や身体表現といった非言語で表現し繋いでいく礼さんの凄さ。
とくに「間」、絶妙な呼吸とセンス、それらを自在にコントロールできる身体能力の高さによって表現される歌、ダンス、芝居に浸る至福を味わいました。
この礼さんに食らいついている星組生も凄い。

物語の終わりにジェロニモがジュリアンの生き様をどう思うかと観客に問いますが、前日に「バレンシアの熱い花」を見ているだけに、それを階級社会と秩序に結び付けて考えずにいられませんでした。

「バレンシアの熱い花」の主人公フェルナンドが終始、階級社会に疑問を抱かず生きているのに対して、ジュリアンは階級社会に生きる人々の欺瞞と腐敗を嫌悪し軽蔑している。それは持たざる者として生まれて異分子として上流社会に生きているからこその視点だと思います。
上流社会の欺瞞と空虚さに辟易とし不満を言い募る令嬢マチルドと共鳴しながらも最終的に彼女ではなかったのは、決定的に相容れないなにかがあったからではと思います。彼を救うためとはいえ目的のためにはお金に糸目をつけない彼女のやり方に遣る瀬無さそうな目をしたジュリアンが印象に残ります。
彼女がジュリアンの無罪を勝ち取ろうとするのは彼女自身の名誉のためでもある。マチルド・ド・ラ・モールの名に懸けてと。それ自体は悪いことではないけれど、ジュリアンを満たすものではなかったということなんだろうなぁ。
すべてを持っていたゆえに欠け落ちたピースを埋めるために行動した者と、持たざるがゆえにすべてを求めた者。

なにも持たないからすべてを手に入れようとした。
地位もお金も名誉も持っていなかったものすべてがその手の中に入る直前に、自分が本当に望んでいたものはレナーテ夫人の愛だったと悟るジュリアン。
彼のために駆け落ちも厭わず彼の無罪を勝ち取るために奔走するマチルドの愛とそれはどうちがうのか、それがわかればジュリアンが欲していたものの正体がわかるのだろうなと思います。

「なんという目で僕を見るんだ」と懊悩するジュリアンが見ていたレナーテ夫人の瞳とはどんなものだったのだろう。そこに答えがある気がしてなりません。
小さきものを見る憐憫か慈愛か、ジュリアンのコンプレックスを大いに刺激しつつも悩ませた目。
彼が望んだ「すべて」とは。自分を愛する者の瞳に映る自分なのかなと。

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2023/04/02

この復讐を遂げるまでは私には安らぎはない。

3月28日に梅田芸術劇場メインホールにて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。

専科の凪七瑠海さんが主演、相手役に星組トップ娘役の舞空瞳さん、そして星組選抜メンバーという全国ツアー公演には稀な座組による公演でした。
主演が専科の方であるせいか、ベタベタしていない感じが私には好印象でした。
ロマンティックだけれどもノンセクシャルな雰囲気はオールド宝塚のイメージに通じて。

「バレンシアの熱い花」は2007年の大和悠河さんのトップお披露目公演の演目で、大劇場の初日からつづく全国ツアー公演の千秋楽まで約6か月繰り返し観劇した懐かしい作品です。
あのラストをどう受け取るのが正解なのか、6か月間考え続け、公演が終わっても折に触れ考えていたけれど正解をみつけられないまま、そもそもなぜトップお披露目公演であの演目だったのだろうという思案の迷宮にはまり、その思いを胸にずっと埋めていた作品でした。
 
今回凪七さん(宙組下級生時代の懐かしい呼び方をさせていただくと)かちゃ主演の「バレンシアの熱い花」を観劇して私の中のなにかが成仏した気がしました。

かつてあれほどひっかかっていた箇所が気にならずに見終えたことに自分でもびっくりでした。
観劇直後は黒岩涙香の翻案小説を読んだような感覚に近いかなぁと思いました。西洋の物語の体をしているけれど精神と教養は古の日本人だよねと。

恋しい人の瞳に宿るものを「さらさら落ちる月影に映えてあえかに光る紫のしずく」と表現したりだとか「後朝の薄あかりに甘やかな吐息をもらす恋の花」だとか。後朝なんて平安王朝文学くらいでしか出遭わない言葉にスペインで遭遇するとは。
いやいやスペインであってスペインじゃない。時代も国も架空の、古の日本の中のスペインなんだなぁと思いました。

仇討ちを心に誓い敵も味方も欺いてうつけ者を装い悪所通いをする主人公って大石内蔵助みたいだなぁとも。
男の本懐を理解して身を退く下層階級の女性、主人公を待ち続ける心優しく清らかな許嫁、二夫にまみえずの貞女、道理のわかった御寮人、時代劇なんだなぁこれは。

身分の違いを超えて結ばれることなどありえないし、愛しい人への操を守れなかった女性は生き恥を晒してはいけない、まして何もなかったように彼と添うことはできない、そんなことを微塵も疑わず信じている人びとの物語として今回は見ていました。

かちゃをはじめ星組の皆さんが時代がかった巧芝居を見せてくれていたので、そういう世界観なのだという前提で見ることができたのではと思います。
その世界観の中での登場人物それぞれの行動に整合性を感じましたし、そんなままならない状況で傷つき懸命に生きている彼らの気持ちに沿って見ることができたのではないかなと思います。

そしてあらためて考えてみてこの作品は貴族の若様の成長譚なんだなぁと思いました。
若様が「一人前の男」になるための試練を克服するお話。
試練の1つは父親の精神支配から脱すること、2つ目には色恋を経験すること。
2つのミッションをクリアして戻ってきた彼は「男」として認められ、彼を待ち続けた許嫁と祝福のもと結ばれて二度と降ろすことのできない責任を背負って人生の次のステージへと進む。
――という封建社会での成長譚なのだと思います。

封建社会の中で如何に誠実に生きるか。その中で如何にすれば幸せでいられるか。
柴田作品で描かれるのはつねに封建社会の人間ドラマなんだと思います。

封建社会を描いた物語を見ているのだという視点が欠落してしまうと柴田作品は首をかしげてしまうことになるのだろうと思います。
身分を超えること、男女の立場を踏み越えること、すなわち秩序を乱すことが封建社会においてなによりも罪だということ。そこにドラマが生まれているのだということ。
その前提を踏まえて見る必要があったのだと思いました。
そして半世紀前の初演当時よりもその前提を丁寧に表現しないと現代人の感覚では戸惑いの多い作品だと思います。

記憶にある限り柴田作品には根っからの悪女は登場しなくて、むしろ身分社会の中では悪女だと思われる女性の健気さが描かれることが多い気がします。
そこが柴田先生の優しさかなと思います。
けれどどんなにその女性が健気で心映えがよかろうと決して身分を超えて結ばれることはないのです。その先に幸せが見出せないのが柴田先生の思想なのかなとも思います。
唯一主人公とヒロインが身分を超えて結ばれたのは「黒い瞳」かなぁ。あれは女帝エカチェリーナ2世のお墨付きを得るという前代未聞の大技をヒロインがやってのけたからなぁ。
(男女の身分が逆で女性が身分を捨てて結ばれるパターンだと、主人公ではないけれど「悲しみのコルドバ」のメリッサとビセントの例があったのを思い出しました)

どうしても身分の差は越えられない社会に生きている人々なのだということは理解できるのですが、フェルナンドがイサベラに愛を告げる時に許嫁のことを打ち明けるのはどういう了見から来ているのでしょうか。
許嫁を悲しませることはできない(=目的を果たしたら許嫁と結婚する)が、君への思いに偽りはないと言うのは。
自分たちの階級の優位を示して彼女との身分を峻別しているように聞こえるけれど、そういうことなのでしょうか。
許嫁は清らかな心優しい少女だが、君はそうではない。許嫁を悲しませることはできないが、君のことはそう思わない。
君のことは一時の情婦にしかできないが、本気で愛していると。(イサベラの身分なら喜ばしいことのはずだと思っている若様の思考?)
どういう意図をもって言っているのと思ってしまうけれど、つまりそれが身分制度というものなのかと。

ロドリーゴの「私のシルヴィアが死んだ」をうけてのフェルナンドの「私のイサベラも死んだ」は、もうこれ以後は二度と彼女にまみえることはないということを自分に言い聞かせているように聞こえました。
ロドリーゴには聞こえていないのですよね。
フェルナンドとイサベラ、それぞれがそれぞれの居るべき世界に戻り、その2つの場所は此岸と彼岸くらいに隔たりがあるということなのかなと思うのですが、イサベラと同じ身分のラモンとはその後もなんらかのつきあいがありそうなのにと思うと(「また遊びに来てくれ、遠慮するな」とロドリーゴの言葉)釈然としない気持ちも残ります。
男同士の身分の差よりも、男と女の立場の隔たりの方が越えられない世界観なのだなとも思います。

領主に貴族にその部下や使用人、下町のバルに集う人々、軍人に義賊に泥棒さんまで様々な属性のキャラクターが登場し、貴族社会と下町を対比させ、貴族の邸宅やバルや市街のお祭りの場面を配して宝塚歌劇のリソースを最大限に活かす工夫が施された秀作だと思います。
けれど、また喜んで見たい演目ではないなと思います。

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