この復讐を遂げるまでは私には安らぎはない。
3月28日に梅田芸術劇場メインホールにて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。
専科の凪七瑠海さんが主演、相手役に星組トップ娘役の舞空瞳さん、そして星組選抜メンバーという全国ツアー公演には稀な座組による公演でした。
主演が専科の方であるせいか、ベタベタしていない感じが私には好印象でした。
ロマンティックだけれどもノンセクシャルな雰囲気はオールド宝塚のイメージに通じて。
「バレンシアの熱い花」は2007年の大和悠河さんのトップお披露目公演の演目で、大劇場の初日からつづく全国ツアー公演の千秋楽まで約6か月繰り返し観劇した懐かしい作品です。
あのラストをどう受け取るのが正解なのか、6か月間考え続け、公演が終わっても折に触れ考えていたけれど正解をみつけられないまま、そもそもなぜトップお披露目公演であの演目だったのだろうという思案の迷宮にはまり、その思いを胸にずっと埋めていた作品でした。
今回凪七さん(宙組下級生時代の懐かしい呼び方をさせていただくと)かちゃ主演の「バレンシアの熱い花」を観劇して私の中のなにかが成仏した気がしました。
かつてあれほどひっかかっていた箇所が気にならずに見終えたことに自分でもびっくりでした。
観劇直後は黒岩涙香の翻案小説を読んだような感覚に近いかなぁと思いました。西洋の物語の体をしているけれど精神と教養は古の日本人だよねと。
恋しい人の瞳に宿るものを「さらさら落ちる月影に映えてあえかに光る紫のしずく」と表現したりだとか「後朝の薄あかりに甘やかな吐息をもらす恋の花」だとか。後朝なんて平安王朝文学くらいでしか出遭わない言葉にスペインで遭遇するとは。
いやいやスペインであってスペインじゃない。時代も国も架空の、古の日本の中のスペインなんだなぁと思いました。
仇討ちを心に誓い敵も味方も欺いてうつけ者を装い悪所通いをする主人公って大石内蔵助みたいだなぁとも。
男の本懐を理解して身を退く下層階級の女性、主人公を待ち続ける心優しく清らかな許嫁、二夫にまみえずの貞女、道理のわかった御寮人、時代劇なんだなぁこれは。
身分の違いを超えて結ばれることなどありえないし、愛しい人への操を守れなかった女性は生き恥を晒してはいけない、まして何もなかったように彼と添うことはできない、そんなことを微塵も疑わず信じている人びとの物語として今回は見ていました。
かちゃをはじめ星組の皆さんが時代がかった巧芝居を見せてくれていたので、そういう世界観なのだという前提で見ることができたのではと思います。
その世界観の中での登場人物それぞれの行動に整合性を感じましたし、そんなままならない状況で傷つき懸命に生きている彼らの気持ちに沿って見ることができたのではないかなと思います。
そしてあらためて考えてみてこの作品は貴族の若様の成長譚なんだなぁと思いました。
若様が「一人前の男」になるための試練を克服するお話。
試練の1つは父親の精神支配から脱すること、2つ目には色恋を経験すること。
2つのミッションをクリアして戻ってきた彼は「男」として認められ、彼を待ち続けた許嫁と祝福のもと結ばれて二度と降ろすことのできない責任を背負って人生の次のステージへと進む。
――という封建社会での成長譚なのだと思います。
封建社会の中で如何に誠実に生きるか。その中で如何にすれば幸せでいられるか。
柴田作品で描かれるのはつねに封建社会の人間ドラマなんだと思います。
封建社会を描いた物語を見ているのだという視点が欠落してしまうと柴田作品は首をかしげてしまうことになるのだろうと思います。
身分を超えること、男女の立場を踏み越えること、すなわち秩序を乱すことが封建社会においてなによりも罪だということ。そこにドラマが生まれているのだということ。
その前提を踏まえて見る必要があったのだと思いました。
そして半世紀前の初演当時よりもその前提を丁寧に表現しないと現代人の感覚では戸惑いの多い作品だと思います。
記憶にある限り柴田作品には根っからの悪女は登場しなくて、むしろ身分社会の中では悪女だと思われる女性の健気さが描かれることが多い気がします。
そこが柴田先生の優しさかなと思います。
けれどどんなにその女性が健気で心映えがよかろうと決して身分を超えて結ばれることはないのです。その先に幸せが見出せないのが柴田先生の思想なのかなとも思います。
唯一主人公とヒロインが身分を超えて結ばれたのは「黒い瞳」かなぁ。あれは女帝エカチェリーナ2世のお墨付きを得るという前代未聞の大技をヒロインがやってのけたからなぁ。
(男女の身分が逆で女性が身分を捨てて結ばれるパターンだと、主人公ではないけれど「悲しみのコルドバ」のメリッサとビセントの例があったのを思い出しました)
どうしても身分の差は越えられない社会に生きている人々なのだということは理解できるのですが、フェルナンドがイサベラに愛を告げる時に許嫁のことを打ち明けるのはどういう了見から来ているのでしょうか。
許嫁を悲しませることはできない(=目的を果たしたら許嫁と結婚する)が、君への思いに偽りはないと言うのは。
自分たちの階級の優位を示して彼女との身分を峻別しているように聞こえるけれど、そういうことなのでしょうか。
許嫁は清らかな心優しい少女だが、君はそうではない。許嫁を悲しませることはできないが、君のことはそう思わない。
君のことは一時の情婦にしかできないが、本気で愛していると。(イサベラの身分なら喜ばしいことのはずだと思っている若様の思考?)
どういう意図をもって言っているのと思ってしまうけれど、つまりそれが身分制度というものなのかと。
ロドリーゴの「私のシルヴィアが死んだ」をうけてのフェルナンドの「私のイサベラも死んだ」は、もうこれ以後は二度と彼女にまみえることはないということを自分に言い聞かせているように聞こえました。
ロドリーゴには聞こえていないのですよね。
フェルナンドとイサベラ、それぞれがそれぞれの居るべき世界に戻り、その2つの場所は此岸と彼岸くらいに隔たりがあるということなのかなと思うのですが、イサベラと同じ身分のラモンとはその後もなんらかのつきあいがありそうなのにと思うと(「また遊びに来てくれ、遠慮するな」とロドリーゴの言葉)釈然としない気持ちも残ります。
男同士の身分の差よりも、男と女の立場の隔たりの方が越えられない世界観なのだなとも思います。
領主に貴族にその部下や使用人、下町のバルに集う人々、軍人に義賊に泥棒さんまで様々な属性のキャラクターが登場し、貴族社会と下町を対比させ、貴族の邸宅やバルや市街のお祭りの場面を配して宝塚歌劇のリソースを最大限に活かす工夫が施された秀作だと思います。
けれど、また喜んで見たい演目ではないなと思います。
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<CAST>
フェルナンド・デルバレス(凪七瑠海) 立ち居振る舞いもコスチュームの着こなしもいうことなしの紛うことなき青年貴族。すべてがまっすぐ。とくに脚が。横顔の軍服姿が紫苑ゆうさんに似ているなと思いました。
イサベラ(舞空瞳) 健気さと情熱のバランスのよいイサベラでした。お屋敷にかけつけたシーンは涙を誘いました。
ラモン・カルドス(瀬央ゆりあ) まさにハマり役でした。愛嬌があって可笑しみのあるところ。情が深くやさしそうなラモンでした。
ロドリーゴ・グラナドス(極美慎) 登場したらロドリーゴしか見えないくらい視線泥棒の美味しい役。時代がかったセリフとコスチュームがぴったりでした。柱の陰でシルヴィアとの逢瀬は最高で、彼女に「ロド」しか言わせず性急にくちづけた場面は2人のまわりに白い薔薇たちが見えました。
ドンファン・カルデロ(天飛華音) 軽快なセリフ回しが巧いなぁ。父と子の場面も自然でよかったです。
シルヴィア(水乃ゆり) 美しく嫋やかだけれど芯のあるシルヴィアがよかったです。極美ロドリーゴとの美しい対にうっとりしました。
マルガリータ(乙華菜乃) この役を嫌味なく演じるのはなかなか難しいと思うのですがピッタリでした。お屋敷にかけつけて「よかった」という場面の間もお上手だなぁと。
レオン将軍(美稀千種) セリフのやりとりがさすがだなぁと。これからフェルナンドが何をするのか、何を指示しているのかが明瞭でなりゆきがよくわかりました。老貴族の雰囲気からの軍服で登場した時の伊出達にもおっとなりました。只者ではなかった。
ホルヘ(大輝真琴) 権力者の顔色を伺う小役人の風情、そこから謎の行動、父親の顔と場面場面での変化が巧いなぁと思いました。
バルカ(輝咲玲央) 悪いやつでした。いやらしさがダダ漏れしていました。
セレスティーナ侯爵夫人(紫りら) 素敵な女主。ルカノールの屋敷に乗り込むところから引き込まれました。貴婦人らしい間の持たせ方が最高。マルガリータへのやさしい表情、家に乗り込んできた者たちへの厳然とした態度、見惚れました。
ルカノール公爵(朝水りょう) 悪者の色気と大物感がよかったです。
ルーカス大佐(夕渚りょう) ストイックな軍人の雰囲気が素敵でした。
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