いのちのある限り求めつづける
11月30日に博多座にてミュージカル「モーツァルト!」を見てきました。
この日はツアーの大千穐楽でした。
感想を書こうとして前回この作品を見たのはいつだっけ?と記録を辿ったら2005年11月の博多座公演(19年前!)でした。
ああそれで、こんな内容だったっけ?と不思議なかんじがしたのだなと合点がいきました。
ヴォルフと父、コンスタンツェ、ナンネール、ほかの人物たち、そのそれぞれとの関係、そして男爵夫人の歌など、一つ一つが記憶していたものとはちがった印象でいまの私の心に映りました。
演出やキャストが変わったこともあるのでしょうが、なによりも自分自身の状況が変わったことが、そう思った一番の理由だったのかなと思います。なにしろ20年近くの歳月を経ているので。
博多座での上演自体が2005年以来19年ぶりの2回目のようですが、その間、帝劇にも大阪にも見に行っていなかったのも自分としては衝撃でした。
地元で公演がなかったこともありますが、中川晃教さんのヴォルフガングで正解を見た気がしていたのも遠征しなかった理由だったと思います。
(2018年と2021年は同時期に公演していた作品=「1789」とか星組ロミジュリとの日程調整も難しかったみたいです・・遠征の民のつらさ・・)
前置きが長くなりましたが、19年の月日を経て2024年版「モーツァルト!」を見た私の感想です。
古川雄大さんのヴォルフガングの解像度の高さに、なるほどそうなのかと肯きながら見ていました。
こんなに精神が幼くて気分の浮き沈みが激しく衝動的で自己管理が甘かったらトラブルばかりに見舞われて生きにくいだろうな。
本人に代わって管理してくれる人が必要なのに、そういう人とは距離を置きたいんだな。言いつけや約束を守る自信がないものね。正しい行いができなかったことを指摘され自己肯定感削がれるのはつらいものね。
「このままの僕を愛してほしい」んだよねと。
そのままが好きだと言ってくれたコンスタンツェにそばにいてほしかったんだなと。
だけど彼女は「彼女に見えるそのままのヴォルフ」が好きで。父レオポルドほどにはヴォルフのことを理解しているわけではなくて。だからすれ違ってしまうのはしょうがないなと思いました。
父レオポルドは息子の特性はよく理解していて、どうすべきかは示せるけれども、息子の気持ちを汲んで寄り添ってやることは得意じゃないみたい。
短絡的な息子に、そのままの彼をその特性ごと愛している父の深い思いを理解させるのは難しいことだなぁと思いながら見ていました。
狡さがなくては生きていけない世間を生きる人びとに簡単に騙され利用され尽くしていく息子の未来が父だからこそ見えてしまう。そうなってほしくはなかったから、自分の目の届く範囲にいてほしかったんだろうな・・と父の気持ちをしみじみと感じてしまったのは、いまの私だからこそだなぁと思いました。
ヴォルフを自由にしてあげればいいのにと思って見ていた19年前とはちがう感想を持ちました。
ただ自由に解き放ってあげればいいわけではない。それはいまだからこそわかります。
19年前は男爵夫人が歌う「星から降る金」に感じ入って感動の涙だったのですが、今回は「とは言っても・・」と思いつつ聞いている自分がいました。何より「王様は息子を愛していた」の歌詞が胸に刺さりました。こんなに奇跡のような、こんなに特性の強い息子をもってしまったら親はどうしたらいいのかな。
それにしても涼風真世さんの男爵夫人はキラキラとしていて、本当に特別な人なんだなぁと思わせられました。でも俗っぽさも見えて、そこが以前見た男爵夫人とはちがっていて惹かれました。
コンスタンツェ役の真彩希帆さんは、「LUPIN~カリオストロ伯爵夫人の秘密~」で演じたクラリスが面白かったのでどんなコンスタンツェになるのだろうと楽しみでした。
『推し』を目の前にして自分の妄想に耽るようなクラリスにいたく共感した記憶があります。
今回のコンスタンツェも1幕ではいまをときめくキラキラのヴォルフに気後れして距離を置いて眺めているような様子、才能ある姉にくらべて自分なんかと思っている風情がオタクっぽくて好きだなぁと思いました。
ヴォルフに「そのままのあなたが好き」と言うのも、タカラジェンヌのお茶会で憧れのスターへの告白タイムをいただいちゃって、気の利いた言葉も浮かばず振り切ったテンションのままとっさに口走ってしまった・・みたいなシチュエーションが思い浮かんで、既視感があるなぁなんて思ってしまいました。(どういう限定シチュエーション。。)
そんなコンスタンツェが2幕では、自分の存在意義がわからなくなって絶唱するところは、いったい彼女になにが?!と思いました。
いやいや。わかる気はしたのです。姉たちにくらべられ、出来が悪いと親に見下されて自己肯定感が低かった娘が、愛するヴォルフのために存在意義を示さなくてはと思えば思うほどなにもできなくて。やらなくてはと思えば思うほど逃げ癖が出てしまうそんなかんじなんだろうなぁと。
そんな不如意な現実もなにもかも忘れて無我の境地になれる、時間を忘れられる行為に没頭してしまう。
踊り続けることで到達する恍惚感は彼女に万能感を感じさせてくれるのだろうなと。
でも醒めると自分が放り投げたままの現実が目の前に。そのくりかえし。
しみついた負の行動パターンを変えられない。新しい行動に出る勇気をもてないのは成功体験が乏しいからだろうなぁとか。
ヴォルフに愛された理由もおそらく正しくは理解していなくて、なにかがきっと掛け違っている。彼にどうしてほしいかも言語化できていなくて。
そんな彼女をだれも助けてくれない。それどころか2人のあいだにあったものまで毟りとっていってしまう。
2幕までにどんなことがあったのかは描かれてはいないけれども、想像できました。
狡猾に見える人も居丈高な人物も、どの登場人物も時代を必死に生きていているのだなぁとそれはしみじみと思いました。生きていくというのは誰にとってもイージーモードではないんだと。
そんな世の中で才能(アマデ)とヴォルフとコンスタンツェはどう共生したらよかったのだろうと考えてしまうけれど。正解があるとしても、その通りに生きられる人など極々僅かなのだろうと思います。
それでも死ぬまでは生きていかなくちゃならないのだなぁ。そんなふうに思う作品でした。
大千穐楽の挨拶では、古川雄大さんが珍しく1人で長い間話つづけていたことが印象的でした。それくらい思いの深い作品なのかなと。
自分よりももっとこの役に相応しい役者がいるのではないかと思う中で主演のヴォルフガングを演じることになった2018年の頃の話や。(恐れながら私もそう思った1人です。それはまったくの見当違いだったと舞台を見て思い知りましたが)
そのときから父親役として成長を見守りつづけてくれた市村正親さんとの関係。さらにミュージカル俳優として駆け出しの頃にルドルフとトートとして対峙した山口祐一郎さんとのことや(なんと祐一郎さんから手を取られて一緒に『闇が広がる』のステップを披露!)。
古川さんの話を聞きながら、はじめてルドルフとしての彼を見て、なんという王子感だろうとドキドキしたことなども思い起こされて、その彼がいまここに主演として立っていることに深い感慨を覚えました。さらに今回同じヴォルフガングをダブルキャストで演じられた若い京本大我さんに先輩としてエールを贈られていることにも。
私が10余年ただただ劇場に通って観劇資金のためにちまちまと仕事をしている間に想像もつかないような努力を重ねて役者としても人としてもこんなに成長したのだなぁと尊敬の念が溢れました。(頼もしく成長されたなぁと思う様子もありながら周囲の人々が思わず見守りたくなるのではという雰囲気も相変わらずで、そういうところが魅力なのかなぁとも)
その後古川さんの紹介をうけて登壇された演出の小池修一郎氏の話はさらに長くて、さすが小池氏だなぁと思いました。
高みをめざして努力をつづけ成長を遂げていく1人の人と長く関わり見守りつづけることの喜びが感じられる話で、かつこの「モーツァルト!」という作品とも照らし合わせながら、どんなことがあろうと人は生きていかなくてはいけないという話に(話の内容は次々と多岐に展開していましたが)そうだよねぇと深く肯かずにいられませんでした。
作品に登場する人物にも、舞台上で演じる人びとにも、それを支える人びとにも、それぞれに生きなければいけない人生がある。きっと私自身にも。
と、そんな思いを心に刻んだ観劇でした。