カテゴリー「♖宝塚観劇-全国ツアー」の43件の記事

2023/04/30

この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい。

4月9日と11日に福岡市民会館にて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。
9日ソワレはライブビューイングが実施された回、11日ソワレはツアーの大楽でした。
3月29日に梅田芸術劇場メインホールにて一度観劇しているのですが、期待以上のものが見られたので福岡での公演も楽しみにしていました。

梅芸観劇後の感想にも書いたのですが、「バレンシアの熱い花」は2007年版、2016年版を経ての今回の上演でようやく私は見方がわかった気がしています。
そしていままで何に戸惑っていたのかもわかったような気がしました。

物語の舞台やコスチュームは19世紀初頭のスペインに仮託しているけれども精神は極めて日本的な物語だということ。
身分社会に生きる人々の物語であって、それも西洋ではなくて日本のそれのほうが近いこと。
歴史物というよりは昭和の痛快時代劇に近く、そこからエログロを一切抜いて、物語の舞台をナポレオンがフランスに帝政を布いた時代のスペインとし恋愛模様を織り込んだコスチュームプレイとして宝塚作品らしく書かれたのがこの作品なのだと思います。

今回のキャスティングがピタリとはまっていたことと、専科の凪七瑠海さんと星組メンバーが丁寧に表現していたので、時代がかったセリフや歌詞を堪能することができました。

父親の復讐を心に誓いその時機が訪れるまでは『貴族のバカ息子』を装うフェルナンドは大石内蔵助か旗本退屈男を彷彿とさせます。
(これに倣って「旗本退屈男」をヨーロッパの架空の国設定で翻案するのもいいなぁと思いました)
彼が軍隊を辞めてのんびり過ごすことにしたとルカノールに告げる場面で使う「二年越しに肩を凝らせていますので」という言葉がなんとも言えず好きでした。見終わってから心の中で何度も反芻しましたが私には一生使う機会はなさそうです。

軍隊時代にレオン将軍に剣を習ったと言うラモンにフェルナンドが「同門だ」と言ったり、言葉そのものもですし、同門だと『貴族の旦那』も『下町でごろごろしているケチな野郎』も一瞬で距離が縮まる価値観も面白く見ることができました。
このように西洋が舞台なのに作中でちょいちょい出てくる時代劇さながらの表現が違和感ではなくむしろ面白かったのは、演者の呼吸や間合いが作品の世界観に合っていたからだろうと思います。

主演の凪七瑠海さんや組長の美稀千種さんの芝居の呼吸が芝居全体に良い影響を与えている印象でした。時代めいたペースの芝居をラストまで貫けたのが見ていて心地よかったです。
作品に合わせた「臭い芝居」ができる人が何人もいる星組はこのようなタイプの作品に合うのだなと思いました。

主役の呼吸が芝居全体にとって大事。この作品はとくにセリフの持つ尺を堪えきることが大事なんだなと思いました。
凪七瑠海さんのキャリアが十分に活かされていたと思いますし、それでいてすっとした青年らしい若様を演じて違和感のないその個性も役にぴったりだったなぁと思います。

瀬央ゆりあさんも、人情に厚く仲間から愛されている役がよく合っていました。
軽口のように愛を告げ、妹にも好きに憎まれ口を叩かせて。相手に負担をかけないよう気遣うことが習いになっているのかな。両親を早くに亡くすかで小さい頃から周囲に甘えられずさらに自分より幼い妹を庇って生きてきた人なのかなと想像しました。
その妹を守り切れなかった悔しさと憤り、イサベラが傷つきながらも愛する対象が自分ではないせつなさ。言葉ではないものがつたわるラモンでした。背中で泣く(背中でしか泣けない)「瞳の中の宝石」は見ていてせつなかったです。

それからロドリーゴの「この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい」。
2007年の再演の時はその表現が衝撃的で絵面が脳裏に浮かび思わず我に返ってしまうセリフだったのですが、今回はすんなりと入ってきました。
芝居全体のペースにロドリーゴ役の極美慎さんも巧くはまった芝居をしているからだろうなと思いました。
ロドリーゴ役が極美さんと知った時からビジュアルは間違いなくはまるだろうと思いましたが、いかにも昭和のメロドラマパートでもある役なので危惧もしていたのですが、芝居が整うってこんな感じなんだなぁと思いました。
シルヴィア役の水乃ゆりさんとのペアは真しくタカラヅカらしい見栄えで夢中で追って見てしまいました。

この作品の見方がわかるようになったからこそ、深いところ細かいところも楽しむことができたのだなと思います。

そしていまさらながら16年前の再演ではじめてこの作品を見て戸惑ったことが思い起こされます。
再演を熱望されていた作品の30数年ぶりの上演ということで期待をもって観劇した時の。
ストーリーがわからないわけではない、登場人物の気持ちがわからないわけでもない。
でもどう受け取ればいいのかわからないそんな感じだったでしょうか。
(先ごろ半世紀ぶりに再演された「フィレンツェに燃える」を見た時に近い気がします)

今回で身分社会を背景にすることで成り立っている物語だということは飲み込めましたし、その社会を必死に生きている人々を描いた物語なのだとわかったのですが、それでも、というかそれゆえに、いまもなお考えさせられる作品でもあるなぁと思います。

フェルナンドとイサベラがどうして別れなくてはいけないのか、それはわかります。
フェルナンドが自分の社会的責任をまっとうしようとするならそれに相応しい伴侶が必要で、イサベラはそれに該当する身分ではないから。もっと言えば愛人として囲うことすらできないほど身分に隔たりがあるのだと。
むしろ商売女と割り切れば好きな時に好きなだけ逢うことが可能なのでしょうが、そういう相手にはしないことがフェルナンドにとっての誠意、「心から愛した」ということなのだろうと思います。独りよがりだとは思いますが。

別れなくてはいけないとわかっているのなら最初からつきあわなければいいのに、と思わなくもないですが、そうはいかないのが恋愛なのだという恋愛至上主義に基づいた作品なのでしょう。このへんの恋愛倫理観がおそらく書かれた時代と現代とは異なるのかなと思います。
女性にとって恋愛は文字通り「生と死」(生殖と身体的な死そして社会的な死)に直結するものだから、大事に守られている女性はそこへ近づけさせないのが身分社会においては当然で、自由で本能的な恋愛は女性の立場を危うくするものだという認識はフェルナンドにもあると思います。
逆に酒場で働いているイサベラはその囲いのうちには入らず、本能のままに近づいてもかまわない女性だという認識なのでしょう。

イサベラに激しい恋をもとめる歌を歌わせるのは、フェルナンドの免罪符になるようにという作者の意図が働いているためだと思います。
『息づまるような恋をして 死んでもいいわ恋のためなら』
『美味しい言葉なんてほしくないわ』
『黙って見つめて心を揺さぶる そんな激しい情熱がほしいわ』
こんな歌を好んで歌う女性だから、心の底に復讐の炎を燃やすフェルナンドの一時の相手に相応しいのだと。
傷ついても自分から望んだことだからフェルナンドを責められないよねと。

なぜフェルナンドはイサベラに愛を告げる時に許嫁がいることも同時に告げるのだろうというモヤモヤについても考えました。
けっきょくのところ、交際をはじめる前に「この関係は私の都合で一方的に解消するけど、それでいいね?」と言っているのですよね。そこでゴネるなら付き合わない。付き合うならそれでいいということだよねと。
それで双方がいいならこの件は締結なのに、キラキラした言葉で愛を告白しながら、でも自分には許嫁がいてその人は心優しい少女で自分は裏切れないのだ、と付け加えるのは、自分は悪者にはなりたくない、とことん良い人の立場でいたいということなんだなぁと。
ああこれはモラハラの手口だ。だから何年も何年もモヤモヤしていたのだなぁ。
うん、やっぱりフェルナンドは嫌いだ。
16年前はそんなフェルナンドを許容する理由を探して自己矛盾を起こしてしまっていたのだと思います。(だってめちゃくちゃ輝いて見えたから)

それから、心の奥でこの作品に息づく男社会礼賛に反発を感じていたのだということにも気づきました。
「女には口出しをさせない」のが男として恰好が良いという思想が貫かれていることに。
ルカノールの「男なら聞き捨てならない言葉だが昔一度は惚れたあなたのことだ聞かなかったことにしよう」、レオン将軍が孫娘の苦しみを知りながら「だからついでのことにもう少し辛抱させておくのだ」とか。
フェルナンドの「私のイサベラも死んだ」も。

言い淀むレオン将軍に「無理に聞くつもりはありません」と言うセレスティーナ、「じっと待ちます」のマルガリータ、面倒なことになる前に自分から別れを告げに来るイサベラ。
わきまえた女性ばかり。
お爺ちゃんたちの理想郷ですね。

それが初演当時1970年代の一般的な雰囲気だったと記憶しています。
同時に「ベルサイユのばら」等の少女漫画が少女たちの心に新しい自意識を灯した時代でもありました。彼女たちは女性であっても臆さずに真っ向から大貴族や将軍に意見するオスカルに憧れを抱いたのだと思います。
そんなオスカルを時に父ジャルジェ将軍は激しく叱咤しますが、どうしてダメなのか根拠は説明するんですよね。「男として育てる」というのはそういうことだと思います。(ほかの5人の娘たちにはこういう対応はしていないと思います)

宝塚の「ベルばら」はそんな女性たちの支持の理由に気づかず男性社会目線で作られている。初演当時でさえ原作よりも古臭い印象を与えていたのに、再演のたびに手を加えてもなおそのスタンスは変わっておらず、「女のくせに」「女だてらに」等オスカルが男性社会で生きることをなじるセリフや場面のバリエーションは豊富にもかかわらず、オスカルが人間としてもがいていることについては「女にも権利はある」と紋切型の主張で終わらせてしまう。
挙句の果てにオスカルに「あなたの妻と呼ばれたいのです」と言わせてしまう。
身分の上下なく1人の人間としての「アンドレ・グランディエ」の妻にと願ったことを、あたかも男性に従属したいと願っているかのように改悪されていることに憤りを覚えます。
いちばん変えてほしいのはそこなのに。オスカルが言っていることに、彼女が悩んでいることに、上からでも下からでもなく対等に耳を傾けてほしいと思います。
そんな「ベルサイユのばら」なら見たいです。
(話が逸れてしまいました)

「バレンシアの熱い花」は、柴田先生による初演当時の価値観による物語なので、そういうものとして見ることができますし、またそれを見ていろいろ考えたり、好きとも嫌いとも思うのは当然の観劇の感想かなと思います。
反発するところもありつつ、やはり人間観察に優れているし表現力語彙力に惚れ惚れもします。
心に悩ましい爪痕を残すやはり名作なのだろうなと思います。

今回やっと見方がわかり憑き物が落ちたような心地です。
このタイミングで近々、過去の一連の「バレンシアの熱い花」がスカイステージで放送されるとのことで、今の自分にどんなふうに見えるのか楽しみです。

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2023/04/02

この復讐を遂げるまでは私には安らぎはない。

3月28日に梅田芸術劇場メインホールにて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。

専科の凪七瑠海さんが主演、相手役に星組トップ娘役の舞空瞳さん、そして星組選抜メンバーという全国ツアー公演には稀な座組による公演でした。
主演が専科の方であるせいか、ベタベタしていない感じが私には好印象でした。
ロマンティックだけれどもノンセクシャルな雰囲気はオールド宝塚のイメージに通じて。

「バレンシアの熱い花」は2007年の大和悠河さんのトップお披露目公演の演目で、大劇場の初日からつづく全国ツアー公演の千秋楽まで約6か月繰り返し観劇した懐かしい作品です。
あのラストをどう受け取るのが正解なのか、6か月間考え続け、公演が終わっても折に触れ考えていたけれど正解をみつけられないまま、そもそもなぜトップお披露目公演であの演目だったのだろうという思案の迷宮にはまり、その思いを胸にずっと埋めていた作品でした。
 
今回凪七さん(宙組下級生時代の懐かしい呼び方をさせていただくと)かちゃ主演の「バレンシアの熱い花」を観劇して私の中のなにかが成仏した気がしました。

かつてあれほどひっかかっていた箇所が気にならずに見終えたことに自分でもびっくりでした。
観劇直後は黒岩涙香の翻案小説を読んだような感覚に近いかなぁと思いました。西洋の物語の体をしているけれど精神と教養は古の日本人だよねと。

恋しい人の瞳に宿るものを「さらさら落ちる月影に映えてあえかに光る紫のしずく」と表現したりだとか「後朝の薄あかりに甘やかな吐息をもらす恋の花」だとか。後朝なんて平安王朝文学くらいでしか出遭わない言葉にスペインで遭遇するとは。
いやいやスペインであってスペインじゃない。時代も国も架空の、古の日本の中のスペインなんだなぁと思いました。

仇討ちを心に誓い敵も味方も欺いてうつけ者を装い悪所通いをする主人公って大石内蔵助みたいだなぁとも。
男の本懐を理解して身を退く下層階級の女性、主人公を待ち続ける心優しく清らかな許嫁、二夫にまみえずの貞女、道理のわかった御寮人、時代劇なんだなぁこれは。

身分の違いを超えて結ばれることなどありえないし、愛しい人への操を守れなかった女性は生き恥を晒してはいけない、まして何もなかったように彼と添うことはできない、そんなことを微塵も疑わず信じている人びとの物語として今回は見ていました。

かちゃをはじめ星組の皆さんが時代がかった巧芝居を見せてくれていたので、そういう世界観なのだという前提で見ることができたのではと思います。
その世界観の中での登場人物それぞれの行動に整合性を感じましたし、そんなままならない状況で傷つき懸命に生きている彼らの気持ちに沿って見ることができたのではないかなと思います。

そしてあらためて考えてみてこの作品は貴族の若様の成長譚なんだなぁと思いました。
若様が「一人前の男」になるための試練を克服するお話。
試練の1つは父親の精神支配から脱すること、2つ目には色恋を経験すること。
2つのミッションをクリアして戻ってきた彼は「男」として認められ、彼を待ち続けた許嫁と祝福のもと結ばれて二度と降ろすことのできない責任を背負って人生の次のステージへと進む。
――という封建社会での成長譚なのだと思います。

封建社会の中で如何に誠実に生きるか。その中で如何にすれば幸せでいられるか。
柴田作品で描かれるのはつねに封建社会の人間ドラマなんだと思います。

封建社会を描いた物語を見ているのだという視点が欠落してしまうと柴田作品は首をかしげてしまうことになるのだろうと思います。
身分を超えること、男女の立場を踏み越えること、すなわち秩序を乱すことが封建社会においてなによりも罪だということ。そこにドラマが生まれているのだということ。
その前提を踏まえて見る必要があったのだと思いました。
そして半世紀前の初演当時よりもその前提を丁寧に表現しないと現代人の感覚では戸惑いの多い作品だと思います。

記憶にある限り柴田作品には根っからの悪女は登場しなくて、むしろ身分社会の中では悪女だと思われる女性の健気さが描かれることが多い気がします。
そこが柴田先生の優しさかなと思います。
けれどどんなにその女性が健気で心映えがよかろうと決して身分を超えて結ばれることはないのです。その先に幸せが見出せないのが柴田先生の思想なのかなとも思います。
唯一主人公とヒロインが身分を超えて結ばれたのは「黒い瞳」かなぁ。あれは女帝エカチェリーナ2世のお墨付きを得るという前代未聞の大技をヒロインがやってのけたからなぁ。
(男女の身分が逆で女性が身分を捨てて結ばれるパターンだと、主人公ではないけれど「悲しみのコルドバ」のメリッサとビセントの例があったのを思い出しました)

どうしても身分の差は越えられない社会に生きている人々なのだということは理解できるのですが、フェルナンドがイサベラに愛を告げる時に許嫁のことを打ち明けるのはどういう了見から来ているのでしょうか。
許嫁を悲しませることはできない(=目的を果たしたら許嫁と結婚する)が、君への思いに偽りはないと言うのは。
自分たちの階級の優位を示して彼女との身分を峻別しているように聞こえるけれど、そういうことなのでしょうか。
許嫁は清らかな心優しい少女だが、君はそうではない。許嫁を悲しませることはできないが、君のことはそう思わない。
君のことは一時の情婦にしかできないが、本気で愛していると。(イサベラの身分なら喜ばしいことのはずだと思っている若様の思考?)
どういう意図をもって言っているのと思ってしまうけれど、つまりそれが身分制度というものなのかと。

ロドリーゴの「私のシルヴィアが死んだ」をうけてのフェルナンドの「私のイサベラも死んだ」は、もうこれ以後は二度と彼女にまみえることはないということを自分に言い聞かせているように聞こえました。
ロドリーゴには聞こえていないのですよね。
フェルナンドとイサベラ、それぞれがそれぞれの居るべき世界に戻り、その2つの場所は此岸と彼岸くらいに隔たりがあるということなのかなと思うのですが、イサベラと同じ身分のラモンとはその後もなんらかのつきあいがありそうなのにと思うと(「また遊びに来てくれ、遠慮するな」とロドリーゴの言葉)釈然としない気持ちも残ります。
男同士の身分の差よりも、男と女の立場の隔たりの方が越えられない世界観なのだなとも思います。

領主に貴族にその部下や使用人、下町のバルに集う人々、軍人に義賊に泥棒さんまで様々な属性のキャラクターが登場し、貴族社会と下町を対比させ、貴族の邸宅やバルや市街のお祭りの場面を配して宝塚歌劇のリソースを最大限に活かす工夫が施された秀作だと思います。
けれど、また喜んで見たい演目ではないなと思います。

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2022/12/06

明日を待つこの思い。

12月3日と4日に福岡市民会館にて、宝塚歌劇月組公演「ブラック・ジャック 危険な賭け」「FULL SWING!」を見てきました。

「ブラック・ジャック 危険な賭け」は、マサツカ作品あるあるで、主題歌や挿入歌がとても良くて歌詞を噛みしめて聞きたいと思う作品でした。
主題歌は良いけれど主人公がなんか腹立つなぁと思うのもあるあるで、とはいうものの男役さんのカッコよさに誤魔化されてしまうのもまたあるあるなのですが、今回は誤魔化されたわ~♡とならずに終わってしまって、あら。でした。

話の筋は通っていて演出もうまいなぁと思うところもあるし月組生の芝居は流石だなぁと感心しましたが、純粋にこれ面白いかな?となりました。
クスリとさせる芝居も織り込まれていて、そういうところは笑いましたし、これは芝居の呼吸がよいからできるんだなぁとも思いましたけど。

ブラック・ジャックの思想も主張も嫌いじゃなかったのだけど、なんでこんなに偉そうなんだろうなぁと思いました。
漫画のブラック・ジャックってこんなだったかな。
どちらかというとマサツカ作品の嫌なところが表に出ていた気がします。
そしてそれをカバーする何かも足りなかったなと。
真面目すぎなのかな。愛せる隙がないというか。

私はマサツカ作品の頭ごなしに相手に「馬鹿かおまえは!」と怒鳴りつける主人公が好きになれないのです。
威張るなら大病院の院長とかマフィアのボスにでも怒鳴ればいいのに。
反権力の無頼漢を気取った男性の中のセクシズムが露骨だったのも嫌だなぁと思ってしまいました。
そういうところが信頼できるキャラに見えなくて詰みました。

言い返してくる女性には、その自尊心をへし折って悔い改めさせたらいい気持ちになるのかなぁ。「おれが最高のオペというものを見せてやる」は失笑。
「今夜のことは忘れないと思います」と平伏させるのは何が狙いなのかな。
逆に自己肯定感が低く自分を卑下する女性がお好きなんだろうなぁと思いました。そんな女性を気遣い励ます自分が好きなのかなと。
ブラック・ジャックではない別の誰かが透けて見えてしらけてしまいました。

そこまで偉そうにしておきながらピノコに自分をケアさせるのもなんだかなぁと思いました。
ピノコもまた「愛される幼妻」のロールモデルをなぞっているんですよね。訳あってそうやって自分の居場所をみつけているキャラクターなんだけど、それを舞台で生身の女性が幼児語で演じるといたたまれない気分になりました。

ラストに女王を登場させるのも権威にちゃっかり擦り寄っているように見えて、組織に長くいる人はさすがだなと思ってしまいました。
(007ならああいうのも気が利いていると思えるけれど)

そういう一つ一つが支障になってしまって、世界観に入りきれなかったのかなと思います。

人の世に対する諦観のようなものがあればこそ、生きること生かすことに必死で、不可能なことに抗い挑む人。それがブラック・ジャックだと思うのだけど。
生き方そのものが弱きものを痛めつける世の中へのレジスタンス。抵抗なんだと。
でもこの作品のブラック・ジャックはそうは見えませんでした。

芝居の技術は5組の中でも一番かなぁと思うのに、何か巻き込まれるものがなかったなぁと思います。
硬い印象を受けたというか人間的な魅力が見えたらなぁ。

と思ったら、カーテンコールのご当地出身者の紹介やトップスターの月城かなとさんの挨拶が面白くてチャーミングで、なんとしたこと!と。
福岡出身者は今回美海そらさんお1人ということもあり、しっかりネタを仕込んで笑わせにくるのが流石「芝居の月組生」でした。
3日の夜公演は、博多弁のピノコを披露。4日の夜公演はライブ配信の回だったのですが、可愛い博多弁でご挨拶中に突然ピノコ宛てに電話が鳴ってピノコの小芝居も入れたりとひとり芝居状態で楽しませてもらいました。なかなか度胸のあるチャレンジャーだし可愛いし、お名前しっかり覚えました。

月城さんは月城さんで、3日の夜は組長の光月るうさんから「月組のお天気お兄さん月城かなとが——」とふられると耳元のイヤホンを探る仕草から入って「こちら福岡市民会館、明日のお天気は—— 」とお天気中継をはじめて、翌日のお天気や気温を淀みなく話し出して(ちゃんと仕込んでいたのですよね)会場が一気に和みました。
これまでいくども全国ツアーでのトップさんのご挨拶を聞いてきましたが、こんなの初めてじゃないかな笑。客席は一気に月城さんを好きになったと思います。
お芝居自体も演じている人々を愛せる演目だったらなぁと思ったりも。


「FULL SWING!」は、大劇場公演は見ることができなくて配信を見たのですが、月組らしいジャズの演目で全国ツアー版を楽しみにしていました。
三木先生で月組といえば「ジャズマニア」が好きだったので、ちょっと懐かしくもあり今のタカラジェンヌさんたちのリズム感に感心したりしながら楽しみました。
夢奈瑠音さんの「ジャズマニア」からのラインダンスは爆上がりました。

ジャズのビートを楽しんでいるうちにあっという間に終わってしまったショーでしたが、なかでも風間柚乃さんの活躍が印象的でした。
去年のバウ公演でもジャズを歌ってらっしゃったのが素敵だったので、また風間さんが歌うジャズが聞きたいなぁと思っていたので望みが叶いました。

礼華はるくんが公演を通して3番手ポジションにいたのもびっくりでした。「親孝行そうないい息子さん」と言いたくなる下級生だったのに、いつのまにかスターさんなんだなぁと感慨深かったです。

それから月組といえば私のイチオシ結愛かれんちゃん♡ 今回も表情豊かで素敵でした。
そしてデリシューの初舞台ロケットで気になっていた一輝翔琉さんを発見。月組配属だったんですね。やはり私の目線泥棒でずっと追いかけて見てしまいました。

ここのところ大人っぽいといいますか渋めの演目が多い月組ですが、来年は下級生の1人ひとりまで目が留まるような派手な演目が来たらいいなぁと思います。
芝居の月組なのは承知なのだけど、明るいショー作品を期待します。

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2021/12/14

この世のすべてを愛し続けたかった。

12月3日4日5日、福岡市民会館にて宝塚歌劇宙組全国ツアー公演「バロンの末裔」「アクアヴィーテ!!」を見てきました。
(の感想のつづきです)

「バロンの末裔」では初見の熊本公演で真風涼帆さん演じるローレンスに一目惚れ。
オスカー・ワイルドの作品に出てきそうな優雅で憂鬱そうで滑稽なほど貴族的、独特のテンポ感の美青年で、浮世離れしているかと思えば冗談も言う。「キャサリーーン、こまどりの巣をみつけたよーー」は身悶えするほど好きでした。

20世紀初頭、没落していく貴族も珍しくなかった中で、キャサリン(潤花ちゃん)も言うようにその領地や屋敷をこの若さで相続し維持していたローレンスの大変さは並大抵ではなかっただろうなと思います。
それこそ世間知らずの貴族を騙して財産を奪い取ってやろうとする輩は後を絶たない、そんな時代背景のお話。
相続税や維持費、生活費の捻出のために土地を切り崩し美術品を売却したり、慣れない事業に手を出したり。
莫大な持参金のために貴族たちがアメリカ人の富豪の令嬢たちと結婚していた時代でもあります。

ローレンスも領地を守るために富豪の令嬢と結婚するという選択肢もあったかもしれない。
でもそうはしたくなかったのだろうと思います。キャサリンとともに生きていくことが、彼の唯一の夢だったから。
持参金を期待できるわけでもないキャサリン(むしろ彼女の父はローレンスの援助をあてにしている)と生きて行くにはどうしたらよいか、誠実でロマンティストな彼は頭を悩ませただろうと思います。
そこを会計士のローバック(秋音光さん)に付け込まれてしまった・・。

自分の失敗で財産をすべて手放さなければならないとなった彼をいちばん苦しませたのは、もうキャサリンと手を携えて生きていくことができなくなった現実だと思います。
双子の弟エドワード(真風涼帆さんの2役)が帰郷して目にしたのは、心労で倒れて現実逃避しているローレンス。
その様子にエドワードはカリカリしていたけど、私はローレンスをかばいたくてしょうがなかったです。
貴族のおぼっちゃま育ちの現実とちぐはぐなところが滑稽であり悲しくて、それにどう考えてもこの幾年は彼の現実のほうが大変だっただろうと思えたから。(真風さんの長髪姿が大好物というのはおいておいても・・)

  いまもなお甦るのは 煌びやかなあの頃
  すぎていく時間さえもが 光り輝いていた
  愛する君と2人で 素晴らしいあの世界に
  手を携えて生きていくと うたがいもなく信じた
  やがては君と2人で 美しいあの世界に
  眠りのように朽ち果てると 無邪気に信じ続けた
  この世のすべてを 愛し続けたかった
  君が生きている この世界を

甘くてペシミスティックな歌詞を毎公演噛みしめて聴いていました。

かつてエドワードが家を出たときの心境、彼がキャサリンに想いを寄せていたことをローレンスが少しも察せなかったとは思えないのです。
それゆえ家の問題を弟には相談しづらかったのではないかと推察します。
この状況で弟の力を借りるということは、キャサリンの身の上についても彼なりに思案し尽くしているのではと思えて。
楽観的に未来を語るキャサリンに、君は一文無しになるということがどういうことかわかっていないと反論する彼にはもう彼女との未来を夢見ることができなくなっているのだなと思いましたし、現実逃避をしているように見えるのも、もし彼女が弟を選んだとしても2人が罪悪感を抱かなくてもよいようにダメダメを装っているのかとさえ思いました。(身贔屓すぎるかな)

エドワードにとっては愚昧なくせにすべてを持っている兄に見えるのかもしれないけれど、領地や屋敷を守り、そこに暮らす人々を守るという義務から逃げずに生きてきた人で、それらは彼が自ら望んだものではなく生まれながらに課せられたもの。夢といえばキャサリンと穏やかに暮らしていくこと。
そのキャサリンを失おうとしている彼が無気力になってしまっても責めるなんてできなくて。
エドワードもつらいかもしれないけど、ローレンスはもっとつらい立場なのだと思って。この悪夢を引き起こした原因はほかならぬ彼によるものなのだから。

幼い頃、洞窟の探検中に蝙蝠に驚いてキャサリンを置いて逃げ帰ってしまった後、きっと彼は自己嫌悪に陥ってしまっただろうなと思います。
キャサリンをおぶって帰ってきたエドワードを見ていっそう落ち込んだかもと思います。
その謝罪を込めて大切な宝物をエドワードにあげたりしたかもしれない。でもそれはエドワードにとってはつまらないものですっかり忘れ去られているかもとか。エドワードの知らないところで、彼の代わりに叱られたりしたかもしれないとか。
そんな想像をして勝手にローレンスにきゅんとしたりしていました。なんとなくそういう自己犠牲的なところがありそうで。
キャサリンに、たとえ君の想いが私に向けられていなくても私は君を愛し祝福することができると告げる彼を見ていると、やっぱりそうだよね、わかっていたよねと思います。

兄弟ゆえのおたがいの行き違いやわだかまりが、今回のことで解けていたらいいなと思いました。
祝賀パーティーでのエドワードを見ているときっとわかってくれたという気がしています。
キャサリンもローレンスのそんな優しさに気づいているから、彼の妻になろうと思えたのではないかと思います。
それは激しい情熱とはちがうかもしれないけれど、穏やかで深い愛情でむすばれている2人なんだと確信が持てました。
それぞれにせつないけれど、やっぱり私には3人にとってのハッピーエンドに思えました。

それにしても、好きな顔に挟まれて過ごしたキャサリンは幸せ者だなぁと思いました。
好きな顔だけど異なる美点をもつ2人に想われて。なんていうパラダイスかと。
まさしく夢ですね。
これからも、たまに帰郷するエドワードからローレンスへのあてつけのように贈り物をされたり賛美されたりしそうだし。
どんなお手紙の内容なのか、知りたいなぁと思います。

この後に起きる第一次世界大戦や世界恐慌でスコットランドも揺さぶられることになると思いますが、ローレンスたち、ことにキャッスルホテルで働くヘンリー(亜音有星さん)やスティーブンソン(優希しおんさん)たち若者は大丈夫かしら。
ウィリアム(瑠風輝さん)の銀行はどうなってしまうのかしら。
そして軍人のエドワードやリチャード(桜木みなとさん)は無事かしらと、その後の彼らを思って心配にもなったりします。
それくらい、作中の登場人物のひとりひとりに愛着のわく作品でした。
こんな舞台を見ることができて、ほんとうによかったです。

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2021/12/08

この世界のうつくしさ人の素晴らしさ。

12月3日4日5日、福岡市民会館にて宝塚歌劇宙組公演「バロンの末裔」「アクアヴィーテ!!」を見てきました。

ほんとうなら去年の秋に博多座で宙組が公演するはずだったのだけどコロナ禍で中止となってしまってとても悲しかったです。
ショーはきっと「アクアヴィーテ!!」にちがいないと公式グッズのグラスもその時に使えるようにはりきって保管して、心底楽しみにしていたので心底がっかりしてました。
今年の11月~12月の全国ツアー公演が発表されてからは、ひたすら中止にならないことを祈っていたので、無事に公演が開催されてほんとうにうれしかったです。
全国ツアー公演の愉しみのひとつである客席降りもいまはできない状況なので、持参した公式グラスでうれしい気持ちと福岡へようこその歓迎の気持ちを込めて客席からエアーで乾杯させていただきました。

福岡市民会館は博多座ができるより前の1970年代から宝塚歌劇の定期公演が上演されてきたホールで、客席がワンスロープになっており客席降りの演出で2階・3階が置いてきぼりにならないのが嬉しいのですが(以前の公演では真風さんか3階席まで来られたことも)、築50年以上の建物のためロビーの狭さやお手洗いの数に不都合もあり、例年だとなんとかイベントスタッフの方々で入場の列、お手洗いの列を捌いていた状況だったと思うのですが、今年は3日間の公演の初日はこれ大丈夫なのかなと心配なほどいろんなシーンで混みあっていました。
最終日はだいぶよくなっていたので、これもコロナ禍で公演中止が続いたことの弊害だろうなぁと思いました。(例年だと春と秋の2回宝塚を上演しているのでノウハウが引き継がれていたのかな)
こんなふうにいろんなところで引き継がれてきたノウハウが途絶えたりしているのだろうなぁ。(お茶会や入り出待ちなどはどうなるのかなぁ)
ちなみにですが、2024年に福岡市民会館は現在工事中の須崎公園の場所に建て替え移転するそうです。

「バロンの末裔」は熊本公演で見た1週間前よりさらにブラッシュアップされて、正塚先生の作品世界で皆がイキイキと息づいていました。皆それぞれに自分勝手で健気で変人で愛おしかったです。

そして見終わったあとに、気持ちが晴れやかになるというかモヤモヤがすっきりする作品になっているなぁと思いました。それはわたし的には意外でもありました。

15年以上前宝塚ファンになりたての頃に初演を映像で見た時は、エドワードがズルイ気がしてモヤモヤしていたのを覚えています。
辛い決断はなにもかもキャサリンにさせちゃうんだと思って。あんなに追い詰めて。
重い現実はキャサリンに背負わせて自分は去って行ってしまうんだと思って。
キャサリンの心情とか、彼女とローレンスの未来とかを、とても悲観的に見ていたんだと思います。

それがいま、2021年版を見終わったら、みんなモヤモヤが晴れてよかったねーという気持ちになっていました。
皆がそれぞれに何かを乗り越えて心の居場所がステップアップしたように思えたのです。

キャサリンに対して無一文になったローレンスを支えて生きていける訳がないとエドワードが言う場面、いやいやその人なら大丈夫じゃないかなと反論したくなりました。潤花ちゃんのキャサリンは生きる力に溢れているように見えたから。
きっと1人で奮闘するのではなくて、領民たちや人びとの手助けを上手に受けながらやっていけそうと。エドワードだって助けるにきまってる。

熊本公演を見て以来、エドワードよりローレンス派だったんですけど、4日のソワレでこの場面のエドワードの子どもっぽい不貞腐れたような顔に気づいて、あ、エドワードは彼女に自分の理想のキャサリンでいてくれなくちゃ嫌だと駄々を捏ねているんだと思いました。
彼はキャサリンや兄に対して、思い通りにならなかった貴族のしきたりや世の中に対して、それらを愛しているからこそ、こどものように拗ねているんだと気づいて、なんだかきゅんとして愛おしい気持ちになりました。(やばいセンサーが働いてる)

こどもの頃、驚いて逃げたローレンスに対してキャサリンをおぶって帰ったりしたのは、無意識に自分を認められたいと、自分の入るスキマをつねに探していたこどもだったからだろうと思いました。
なにも言わずとも皆が先回りをして思い通りになっていく兄と、言わなくては気づいてもらえない自分、というようにこどもの彼には見えていたのだろうと思います。
けど言えないだろう?と。自分がワガママを言えば、自分が愛する世界が壊れてしまうだろうと。そう思って家を出て行ってしまったのだろうなと思います。

そんな彼が、兄が倒れたという報せに故郷に帰って見れば、なつかしい人びとが変わらずそこにいて、大切だからこそ諦めた人や風や大地のなつかしい香りがそこにあり、けれどそのすべてを持っていたはずの兄はそれらをすべてを失う寸前で。
この自分が育った故郷の大地がそこに暮らす彼らともども失われてしまうという現実に直面してそれに本気で対峙することで、彼はひとつひとつのかけがえのなさに気づけたのだろうと思います。
そのなかには、兄ローレンスが自分が故郷を離れているあいだもたゆまずこの家や領土を守ってきた事実も含まれているのじゃないかな。たまに帰る自分とはちがい日々そこに暮らし守っている兄、守ってきた人びとのことに思い至ることができたのじゃないかなと思います。

それにやっぱりエドワードは、愛する人が息づく世界を愛したい人なんだと思います。
そこに自分がいれば最高なんだろうけど、その愛する世界を壊すくらいなら自分はそこにいなくてもよい人なんだろうと。一時の激情に流されそうになることはあっても、思いとどまれる。
ローレンスの夢が愛するキャサリンとともに暮らし、彼女が生きているこの世界のすべてを愛することというのと似ているけれど微妙に異なる。同じ顔でも立場の違いで責任も求めれることも違い、メンタルも変わるのかな。

ローレンスとキャサリンが穏やかに笑っているところに、自分はいつでも帰っていけることが彼の望んでいる幸福なのではないかと思いました。
それがいつからかははっきりとはわからないけれど、きっと3人で領地を駆け回っていたこどもの時にはそうだったのではないかと。
愛する人びとが笑って暮らしている世界をそのままのかたちで守りたい、とても保守的な人なんだなと思います。守られる側じゃなくて守る側になりたい人なんだな。そして守ったものを眺めて幸せになれる人なんだろうな。
キャサリンもそれに気づいたし、エドワード自身も気づいたのではないかなと。だから2人ともモヤモヤが晴れたのではないかなと思います。

たまに帰郷して、たくましく生きるキャサリンたちと相変わらずなローレンスの顔を見てなつかしみ、英国人的な皮肉を言ったりローレンスの前でわざとキャサリンを喜ばせたりして、彼らへの愛をたしかめたりしてほしいな。
5日のマチソワはそんなことを想像しながら真風さんのローレンスとエドワードを見ていました。

 ここに生まれ 人の世の なにもかもを知った
 この世界の美しさ 人の素晴らしさ
 忘れることはない

(エドワードのことばかり書いてしまったので、次はローレンスやキャサリンやほかの人びとについて書きたいです。皆大好きだったので)

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2021/11/28

胸にしみる故郷のなつかしい香り。

11月25日に熊本城ホールにて宝塚歌劇宙組公演「バロンの末裔」「アクアヴィーテ!!」ソワレを見てきました。

熊本城ホールは2019年にこけら落としされた新しいホールで、1階後方席でも見やすくセリフも聞き取りやすかったです。お手洗いも多めで30分の幕間も余裕がありました。バスターミナルの上にあるのでアクセスもよくて次の熊本公演もここだといいなぁと思いました。

そして熊本は言わずと知れた宙組トップスター真風涼帆さんの故郷。2019年に続いての凱旋公演ともいえる公演でした。
今回は新しい相手役さんの地元お披露目ともいえるかも。
劇中で歌われていた故郷を思う歌に真風さん自身が重なって、またこの数年に見舞われた熊本の苦難と復興への道のりが重なって見えて胸が熱くなりました。

「バロンの末裔」は映像を繰り返し見ていた作品で、けっこう覚えているものだなぁと思いつつ観劇しました。生で見たことがなかったので再演で見ることができて嬉しかったです。
正塚先生の作品なのでテンポにメリハリがつくともっとよくなるなぁと思いました。来月福岡でも観劇するので深化しているといいなと思います。

真風さんの双子の演じ分け面白かったです。(星組でも愛ちゃんが双子を演じていたのでそれを思い出してよけいに楽しくなりました)
舞台上でエドワードからローレンスに切り替えて演じ分けるのは凄いなぁと思いました。(それぞれの影武者は春瀬央季さんと鳳城のあんさんが演じられていたんですね)

双子のうち私は案外ローレンスが好きでした。
自分のことよりも家のこと、屋敷の使用人たちのこと、領民のことを考えるように育てられた人なんだと思います。男爵家の跡継ぎとして。
彼が投機に手を出したのも、信頼している会計士に勧められるがままに家や領民のため、そしてキャサリンのためを考えたことで、決して私欲のためではないと思いますし、失敗してもまだ取り戻せますと繰り返し言われるままに深みにはまっていったのじゃないかなぁ。
彼だって屋敷を出て別の世界で生きられる弟エドワードを羨ましく思ったこともあるんじゃないかな。口には出さなくても。

というわけで、もっと憂いを帯びたハンサムに演じてくれてもいいのに~~というのが不満です笑。あの浮世離れ感はとても好きですが。さらにもっとと。
オスカー・ワイルドの小説に出てきそうなやつれた貴族的な美男子を造形してほしいなぁ。恥ずかしがらすにぜひ♡ ペンより重いものを持ったことがないようななにかというと蒼白になるような。
キャサリンだって結婚してもいいと思っているくらいだから、エドワードに勝るとも劣らぬ魅力があるのだと私は信じています。

エドワードはかっこいいけどふつう~~と思いました。
石炭がなかったら彼にもどうしようもなかったし。
弟の立場として失望も味わい、家のことも領地のことも、キャサリンのことも自分のものではないと見切ってローレンスにすべて委ねて屋敷を出たのだろうと思います。それがわかっているローレンスも弟においそれと相談はできなかったのではないかなと思います。
それゆえ自分がやってしまったことをわかっているローレンスはキャサリンが弟を選んでも、2人がそのことに罪悪感を抱かないですむようにダメ男を装っているのではないかと思ったりもするのです。(とことんローレンス贔屓)

結局兄が倒れた報せをうけて故郷に帰ってみて、窮地に立たされた兄と想い人、なつかしい使用人たちの顔を見て、彼らと領地のために初めて本気で奔走することで、エドワードは故郷と故郷の人びとのかけがえのなさに気づくことができたんじゃないかな。
屋敷を出た頃はいろいろあって失意で忘れていたかもしれないけれど、ローレンスが自分にしてくれた様々なことも思い出したりしたのじゃないかな。
自分の立場からしか見ていなかったことや、ローレンスが家や使用人や領地のためにしていたことに気づけたりしたのじゃないかな。と思うのです。

潤花ちゃんが演じるキャサリンは生きる力に溢れてて逞しそうで、きっとホテルにたくさんの人を呼べそうな気がして、彼女の選択は決して間違っていないと思えて、未来は明るい気がしました。
古風でハンサムな当主の男爵と美人で華やかな男爵夫人はホテルの名物になりそうだし、銀行家とも対等に渡り合っていけそう。ホテルはきっと繁盛するはず。
エドワードは自分の人生を築いていったらいいと思います。美しい故郷は兄夫婦が守っているから。

とラストも湿っぽくならずに見ていました。

潤花ちゃんはこういう役が似合うなぁと思いました。
しっかりローレンスを支えてホテルを繁盛させそうなキャサリンでした。
彼女を見ていると希望を感じました。(つい数日前に元伯爵夫人が料亭の女将として奮闘し守り抜いた旧柳川藩主立花邸御花に行ってきたばかりなのでイメージがダブったのかもしれません。伯爵令嬢 立花文子
ローレンスはいつの間にか論文を書いてたりして、それが評価されて叙勲されたりして。(妄想)
ローレンスとキャサリンとエドワードに、ルイ16世とマリー・アントワネットとフェルゼン伯爵みを感じました。

桜木みなとさんは間が良くてリチャードが成り立っているなぁと思いました。もっと爪痕を残してもいいんだぞと思いましたが、これからでしょうか。
ヘレン役の山吹ひばりちゃんとのペアが可愛らしかったです。

瑠風輝さんは若き頭取ウィリアムのフェアな精神がよく出ていて良かったです。役としては不足はないのだけどあとすこしスター的ななにかがあったらなぁと思いました。

鷹翔千空さんはウィリアムの秘書ブリンクリーとしてその場にいることを愉しんでいる感じがしました。もっとはっちゃけたいのかなぁと思うけど、こちらもまだ様子見かなぁ。

全体的に皆芝居が真面目だなぁという印象を受けました。もっとキャラクターになりきって変人になってもいいのじゃないかなぁ。
皆それぞれに変なところがあったり自分勝手だったりするけれど、愛しい。そういうお話だと思うので。
11/21に梅田で初日を迎えてから九州初上陸の地だったのでまだ芝居が硬いのかなと思いました。来週末は福岡公演を見る予定なので役としてもっともっと自由に演じているといいなと愉しみにしています。

さすがだなと思ったのが寿つかささん。ボールトン家の執事ジョージ役として必要以上に分を弁えた感じが滑稽で、メイド長のミセス・サーティーズ(小春乃さよさん)と面白い一対という感じでした。

それから、銀行の創業者でウィリアムの父トーマス役の凛城きらさんが作品の世界観の中で好き勝手に存在している感じで光っていました。秘書のシャーロット(愛未サラさん)とはなかなか良いペアでした。
美しい顧客イングリット(水音志保さん)との場面がとっても好きでした。

お屋敷で働き始めたばかり(フットマン見習い?)のヘンリー役の亜音有星さんがのびのびと演じているのが好印象でした。ヘンリーは美味しい役だと知ってはいたけれど(初演新公では大和悠河さんが演じてた)、知ってた以上に美味しい役でした。主役のエドワードとヒロインのキャサリンの間を取り持ったりして。ラストも気が利いてて。


ショー「アクアヴィーテ!!」は2019~2020年に宙組で上演された作品なので、ついついもういない人を探していました。
私が座っていた席からオペラグラスを使うとセンターより上手が見やすかったのですが、鷹翔さん亜音さんが生き生きと輝いて見えました。
そしてオペラグラスの視界にお名前はわからないけど素敵な下級生が幾人も。

瑠風さんの脇に出てくる美脚の黒いアマーミ、春瀬央季さんともう1人は琥南まことさんだったんですね。美しくて眼福でした。
それから寿さんが従えている2人、大路りせさん泉堂成さんも美少年系で素敵でした。
黒燕尾で見た綺麗な方は誰だったのかな。スモーキーナイトの場面にも白い衣装のフィーストの中にも綺麗な方がいたと思うのですが、同じ人なのか別の人なのか。福岡公演で答え合わせできたらいいな。
それにしてもいつの間にこんなに綺麗な男役さんが増えていたんでしょうか??

綺麗な方といえば水音志保さんに目が奪われがちでした。幕開きから春瀬さんと美男美女で踊られていて眼福。
そして2019年当時は組長さんがされいたパート副組長さんがされていたパート、はたまたあの方がされていたパートをこの方がされる時代になったんだなーと宝塚歌劇における2年の歳月の進み方の速さを実感しました。
そして2年前は客席降りのタカラジェンヌさんたちとグラスを合わせてはしゃいでいたのになぁと。世の中の変化を実感しました。(通路側の席だったのに・・涙目)

そうそう。「アクアヴィーテ!!」といえば!の3人のスターが甘い言葉を囁いて客席の反応を愉しむ場面では、瑠風さんはドライヤーに桜木さんはピアスに真風さんは枕になりたがっていました。
熊本公演だったせいか、瑠風さんは「あなたの髪は熊本の太平燕のように」、桜木さんは「あなたの耳は熊本のいきなり団子のように」、真風さんは「あなたのおでこは熊本の馬刺しのように」と喩えてらっしゃいましたが、ここはご当地アドリブになっているのかな。福岡ではなにに喩えられるのかも愉しみです。

ウィスキーが蒸留、熟成されていく場面は、大劇場公演より人数は少ないもののさらに洗練されていて美しくてとても感動的でした。
桜木さんと潤花ちゃんのリフトも素敵。

熊本まで日帰りでソワレ観劇はしんどいかなぁなんて思ったりもしていたのですが、行って良かったです。
つぎはいよいよ福岡公演観劇。
最高の時間になりますように!

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2019/10/26

死ぬまで一緒だ。

宝塚歌劇宙組全国ツアー公演のショー「NICE GUY!!」は、初演の頃は宝塚をあまり見ていない時期で、生で観劇したことがありませんでした。
のちにCSで放送された時に宙組&大介先生のショーだ♡と期待して見始めたのですが、どうしても受け付けない場面がさいしょのほうにあり挫折してしまった思い出があります。

全国ツアー公演の演目が発表された時には、そのまま上演して大丈夫なのかしらと心配したのですが、その場面は新場面に替わっていて、苦手だった場面がなくなってあらためて生で見ると男役のカッコよさが満載で、再演が熱望されていたのも肯けました。

『NICE GUY!!』つまりテーマはズバリ男役!!という潔いコンセプトどおり、青木先生によるキャッチーな主題歌で男役がカッコよく歌い踊り、かつ笑っちゃうほどのキザを競うように見せつけられて目が足りませんでした。ショーの最初から客席降りも織り交ぜられ畳みかけるように心を掴まれてからパレードまで、毎回あっという間だった気がします。

ショーの副題に「Sによる法則」とあるように、歌詞のサビの部分がSではじまるフレーズになっているんですよね(ということは、初演はYではじまるフレーズだったのかな)。その歌詞がけっこう笑わせにかかっているなと(笑)。あ、もしかして私がキザに直面すると笑っちゃう性質だから笑ってしまうだけで笑わせるつもりではないのかな。でも「死ぬまで一緒だ」と微笑みながら歌う真風さんを見たら笑っちゃうしか。この現実を私はどう受け止めたらいいのか。ありえないものを見ているなと。
現実じゃないものがそこに在る。
嘘も本当にしちゃう力。それこそスターたるゆえん。

たくさんの幸せな嘘で成り立っている宝塚においては、嘘だってわかっていても信じさせてしまう魔力があってこそ、トップスターなのだなと真風さんを見ていると思います。
真風さんを見るたびに、「だまされないぞ」「だまされるものか」と心で唱えている私です。気を許したら一巻の終わりだと思っています。
だまされてはそれを打ち消し、だまされては打ち消すを繰り返しているうちに終幕となり、夢のつづきをまた見たいと思ってしまうのだと思います。
真風さんには気をつけよう。危険すぎる。

トップコンビの真風涼帆さんと星風まどかちゃんの痴話げんかの場面も大好きでした。
調子に乗ってカッコつけまくる真風さんの前場とのギャップがツボ。長身さんだからコミカルなポーズがなおさら独特のハマり具合でたまりません(笑)。
そしてまどかちゃんの「涼帆のせいよ!」(笑)。トップスター様を呼び捨て?!(これを言わさんがためのあえてのこのキャラ設定とシチュエーションですか大介先生??)
現実では絶対にありえない、これも嘘の世界。(見ているほうがドキドキ)
―― 嘘の中にある真実がほのかに見える感じにドキドキしたのかもしれません。
一歩まちがえたら悪趣味になりかねないけど、まどかちゃんの一生懸命なプロ根性と真風さんの器の大きさをご当地ネタとともに楽しめる場面でした。
このバランスが魅力のコンビだなぁと。
真風さんのホールド力がいまの宙組のベースだなぁとつよく感じる場面でした。

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2019/09/26

将来のために。

9月8日に熊本市民会館、9月14日、15日、16日に福岡市民会館にて宝塚歌劇宙組公演「追憶のバルセロナ」「NICE GUY!!」を見てきました。

観劇の翌日には熊本城を観光しました。ボランティアの方にガイドをしていただき有意義な時間となりました。しかしとても暑い日でした(笑)。
復興中の熊本城の様子を間近に見ることができる加藤神社には、加藤清正の生前の口ぐせだという「後の世のため」という幟がはためいていて、前日「追憶のバルセロナ」で真風さんが演じていたフランシスコが芹香アントニオと誓い合っていた「将来のために」という言葉に通じるなぁと感慨深かったです。熊本城復興のために尽力している人びとや真風さんが熊本出身ということとも合わせていろいろ思わずにはいられませんでした。
(初演では退団される絵麻緒ゆうさんと成瀬こうきさんが交し合っていたセリフでもあるんですよね。正塚先生はここになにを込めたかったのかなぁとか考えてしまう印象的なセリフでした)

「追憶のバルセロナ」において、フランシスコ(真風涼帆さん)とイサベル(星風まどかさん)の関係とおなじくらい好きなのが、フランシスコとアントニオ(芹香斗亜さん)の関係です。
アントニオの考え方、立場がこの作品の世界観や作者の内心を表現していると思います。どうするべきか、なにを大切にして生きるべきかという問い。
無二の親友でありながら考え方が異なってしまった2人ですが、心からの信頼があればこそ、相手とはちがう考えをぶつけ合える2人の関係が好きでした。

命を懸ければなんでも守れると純粋な情熱に身を任せ戦争に赴いた若い2人が、現実の戦争の辛酸をなめ、1人は現実的な手段で生き残り、裏切者の汚名を着る覚悟で人命を救うために奔走する。
また1人は瀕死のところをロマの人びとに助けられ、社会の底辺で虐げられながらも仲間との強い絆のもと逞しく生きるその生き方に触れ(「ロマの女なんかどうにでもなると思ってやがる」のは決してフランス兵だけではないでしょう)、自分も草の根から人民に呼びかけ同志を増やし、ゲリラ的戦術でフランスの支配からスペインを取り戻す道を選ぶ。
再会するも考え方も生き方も対立する立場になっていた2人。けれど当時のフランスはとうにアントニオが共感した共和制や人道思想が通じる国ではなくヨーロッパ中を征服戦争によって蹂躙、支配しようとする国となっており、それを身をもって知ったアントニオもまたフランシスコと手を結びフランスに抗戦する立場に転ずる。

――というのが2人の生き方のおおまかな変遷かなと思うのですが、アントニオのセリフがバルセロナの状況を表し、またはフランシスコの心を大きく揺さぶるものでもあるのでとても重要だと思うのですが、芹香さんの滑舌が心配になるレベルで不安定なのが気になりました。これからますます重責を負う立場の人ですし将来を望まれている人だから放置せず専門家に相談されていたらよいけど・・・。
「妻になにをした!」というアントニオの咎めを聞いたフランシスコのマスクの下の表情が変わる瞬間が好きだったので、毎回あのセリフが明瞭に響くことを願っていました。
親友を思って歌う新曲はとても良かったです。歌唱力も雰囲気も。歌う時のシリアスめな表情が知的なかんじですてきでした。スマートかつ内心に憂いを秘める役が芹香さんにぴったりだなぁと。
歌がメインの作品なら不安はないのですよね。
個人的には、真風さんと芹香さんで「メランコリック・ジゴロ」や「愛するには短すぎる」などのバディ感のある、正塚先生の軽快なコメディを見てみたいと思っているので滑舌が改善されるといいなと思います。

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2019/09/20

それが惚れるってことじゃないのか。

9月8日に熊本市民会館、9月14日、15日、16日に福岡市民会館にて宝塚歌劇宙組公演「追憶のバルセロナ」「NICE GUY!!」を見てきました。

「追憶のバルセロナ」は正塚先生の作品としては珍しいコスチュームプレイで個人的に好きな作品でもあり、いまの宙組での再演はうれしかったです。
正塚作品独特の間やセリフでありながら現代劇ではなく時代物であることが、いつもよりさらに難易度を上げているかんじで、熊本で見た時はいまひとつ力不足かなと思う部分もあったのですが、1週間後の福岡公演ではそれもかなりこなれて、タカラジェンヌの吸収力と成長は凄いなとあらためて思う次第でした。

往年の柴田作品に対するオマージュでもありつつ、正塚先生世代独特の価値観も随所に見える作品だなぁと、そこに私は惹かれるのかなぁと思いました。
ロマのロベルトに言わせている『惚れた相手が行きたいならそれがどんな所でも一緒に行こうとするんじゃないのか。それが惚れるってことじゃないのか』とか。往年の柴田先生の作品を見て蟠っていたところに刺さってくるのですよね。
おとぎ話だよねとも思うし、戦後生まれの浅薄な理想かもしれないけど。でもそこが好きです。
理想はいつかかたちになるかもしれない。そんな希望が抱ける世界が好きです。

柴田先生の作品ならばきっと「酒場の女」と「良家の令嬢」という属性で分けられたそれぞれの女性は、その垣根の中から決して外へ出たりはしない。
青年貴族である主人公は、市井にある時は片方の属性の女性と燃えるような恋愛をして、みずからの本懐を遂げたのちは心を切り裂いてでもその熱情を断ち、戻るべき場所=もう片方の女性が属する場所へと戻っていく。
主人公目線からすれば、貴族の継嗣に生まれた者が、青春という刹那の時間を生きたのちに、生まれた時から授けられた重責を背負う覚悟をもつまでの心の軌跡を描いたということになるのかもしれないけれど、ヒロインを思うと私は釈然とはしないのです。
『私にはずっと結婚を待たせている心優しい許嫁がいる』と予防線を張って付き合い始めるとか、女性にランクをつけているからこそできるわけで。いまの時代にこういうものを見せられてどう思えというのかと。これがかつての男のロマンなのかとか? 主人公もつらいよねとか?
たしかに一瞬憂いを帯びた美しいお顏にだまされはしましたけど。でももう無理。(完全に「バレンシアの熱い花」を想定中)
かつての名作も、いま上演するなら内容は吟味してほしいと思います。
でもそうは言いつつ、往年の柴田作品ほどのクオリティの脚本が書ける人が現時点でいるかというと難しいのだろうなぁ。

ゆえに、こんなふうに次の世代の作家がオマージュやリメイクをする試みは面白い実を結ぶやもしれないなと思います。
この「追憶のバルセロナ」も初演は17年前。『ずっとそばにいてくれ、それがお前の力だ』『自分のことのようにあんたを思ってる』―― いまならこれが男女逆でもいいのになぁと思ったりもします。でも正塚先生だからそれはないな。いつか若手の女性作家さんの手で描かれる日が来るといいな。

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2019/05/15

愛はどこにいる。

5月9日に広島文化学園HBGホールにて、宝塚歌劇星組全国ツアー公演「アルジェの男」「ESTRELLAS~星たち~」を見てきました。
専科に異動になった愛ちゃん(愛月ひかるさん)の出演が発表になってから観劇遠征を思い立ち、チケットの手配に走ったのも遅かったし、初めてのホールでもあったのでどうなることかと思いましたが、行って本当によかったです。
(広島駅に着いて食べたお好み焼きも柑橘のパフェもお土産のお菓子〈ひとつぶのマスカット〉もめちゃめちゃ美味しくてまた食べたい!広島に行きたい!と夢見ています。まさに美味しい観劇遠征でした♡)

「アルジェの男」はさすが柴田先生の脚本という面白さと、星組メンバーの芝居力が活きて見応えがありました。
いまの感覚で見ると、登場する女性たちがそろいも揃って男性たちに都合がよいなぁと思えるのですが、書かれた当時を考えると、宝塚らしく柴田先生らしく破格に女性に優しい、女性たちへの愛おしみの気持ちのこめた作品だったのだろうなぁとも感じます。

往年の柴田作品には、酸いも甘いも噛み分けた賢夫人たちがしばしば登場しますが、「アルジェの男」にもボランジュ総督夫人(白妙なつさん)とシャルドンヌ夫人(万里柚美さん)という2人の大人の女性が登場します。
男性社会の中で確固とした居場所を築きひとかどの紳士に一目置かれる、タイプの異なる2人の女性は、こういう風に賢く男性に愛されれば女性は幸せになれると示しているようにも感じました。(いまこれが新作だと噴飯ものですが・・苦笑)
1974年の少女時代の私がこの作品を見たらそのようなメッセージを受け取っただろうなぁと思います。
そしてそれが柴田先生の女性たちへの愛なのだろうなぁと思いました。

「バレンシアの熱い花」に登場するマルガリータが大人になったらボランジュ夫人のようになるのかなぁ。イサベラが紆余曲折の末にシャルドンヌ夫人のようになる可能性もあるのかなぁなんて想像したりもしました。
「バレンシアの熱い花」の初演が1976年。まさに当時の柴田先生の理想の女性像なのだろうなぁと思ったり。半世紀近い歳月を経ての上演といのはいろんな感慨を呼び起こさせるものだなぁと思いました。
いまの少女たちにはどんなメッセージになっているのでしょう。訊いてみたい気もします。

主役のジュリアンを演じた礼真琴さん。やはり歌を聴かせるなぁと思いました。聴いていて心が高揚する歌い手さんだなと。
いまを感じさせるというのか、はしるようなクセになるような歌でした。それがジュリアンという若者の生き方に合っていたような気がします。

孤児で気にかけてくれる大人もいない。悪さをすることで仲間と連帯しているような若者。「コロシ(殺人)」と「タタキ(強盗)」以外はなんでもやったと豪語する。頭も良いし口も立つ(女の子に対しても)血気も腕力もある。でもこのままではいずれ街角で野垂れ死ぬだろうそんな若者。
そのことを彼自身がいちばんわかっているのだろうなと。そうはなりたくない。だから荒唐無稽とも思える野望を抱いているのだなと。そこからはじまる物語でした。
このままで終わるには知能もプライドも高い。けれどそのポケットにはなにもない。――With no love in our souls and no money in our coats(R.Stones)だなぁって。
野望が唯一の拠り所なんだろうなぁと思いました。

そんな若者が偶然にもチャンスを掴む。仲間たちに揶揄され袋叩きにも遭いながら信念のもと歯を食いしばって下積みから上を目指しているその眼光。綺麗事が言える身分ではない。利用できるものはなんでも利用しなくては目指すところへは辿り着けないとわかっている。礼真琴さんが見せてくれるジュリアンを非難する気にはとてもなれませんでした。
都会の裕福な家庭に育っていたら、心に闇を抱えることもなく自らの才能を発揮できていたのだろうに。

そしてパリで出逢う彼とは境遇のちがう若者たち。エリザベート、ミッシェル、ルイ、アナベル・・・。
彼らがあたりまえに手にしているものはすべて、彼にとっては自ら勝ち取っていくもの。
彼には、彼らが自分と同じ人間とは思えていないふしがあるような気がしました。彼らに共感すべき心を見出していないような。彼らの感情とは手玉にとり利用するためのもの。成り上がるための道具でしかないんだなぁと。

ボランジュの期待に応えるべく黙々と仕事に精を出し、自分が目指すところへ向かって着々とプランを練り実行していくジュリアン。愛を知らないジュリアン。
一緒に働いているミッシェル(紫藤りゅうさん)とはすこしずつ何かが芽生えてきているのかな?と思えていたその矢先に。
過去と現在が交錯し、過去のためにいまが砕かれようとして、いまのために過去を抹殺しようとして。
ついには自分がやったことの報いを受ける。
そのまえに一瞬でもサビーヌによって愛がいまここにあると知ったことが救いかなぁ。やっとジュリアンの空虚は埋まったのだろうなぁと思えたことが。
でもサビーヌの気持ちを思うとやりきれないなぁ。

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