カテゴリー「♖ 宝塚」の437件の記事

2023/05/23

幻のヌベラージュ。

5月19日に東京宝塚劇場にて宙組公演「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」を見てきました。
ひと月前に宝塚大劇場で観劇していたので、過大な期待はせずに宝塚を楽しめたらいいなというつもりで臨みました。

バカラの場面など、大劇場公演では散漫に感じた箇所がイキイキとした場面に変わっていてやはり東京公演はいいなぁと思いました。
大勢口の場面が希薄な印象になってしまうのが宙組の悪い伝統だなぁと他の組を見た後など特に思います。
(「High&Low」の時は全くそんなことはなかったのですが)
私は宝塚大劇場での観劇がメインなので東京公演では良くなっているというのも、それはそれでなんだかなぁという気持ちになります。
このスロースターターな組気質が改善されることを切に願っています。

真風さんと潤花さんがパラシュートに乗っている場面は2人のこれまでを思うとやっぱりせつなくて、フィナーレのデュエットダンスは2人のあまりの美しさと輝きに気づいたら涙目になっていました。

演者が放つ刹那の輝きに感動はしたけれど、やはり作品自体はしっくりこないというか、引っ掛かるところがあって気持ちがうまく乗れませんでした。
プロローグの男役たちのスーツのダンスにはテンション爆上がりだったのに、場面が替わりジャマイカでボンドが女の子たちにマティーニとシガレットをもらい「サンキュー、ローズ、リリー」でやっぱりだめだこりゃになりました。
最初から最後まで気持ちのアップダウンが激しい作品でした。

マリンブルーのジャケットに白いパンツの伊出達の真風さんが若大将にしか見えない呪いにかかってしまったのは辛かったです。銀橋の歩き方もあの場面だけなんというかとても昭和で。作品の年代に合っているといえばそうなのかもしれないですが。スタイリッシュはどこに行ったん?と思いました。

デルフィーヌに対するボンドのセリフも
苦手でした。最初のとおりすがりのキスの場面から。どうだ俺は凄いんだぞとずっと言っているみたい。
ヒロインをもっと対等に対話ができる大人の女性に設定できなかったのかなぁ。ボンドが始終器の小さい男に見えて残念でした。

ムラで見た時よりもCIAのフェリックス・ライター役の紫藤りゅうさんの顔つきが変わったなと思いました。強くて正しいと自負する「アメリカの貴族」の末裔という印象。お金にものをいわせてストレートに物事を思い通りに動かす「世界のお坊ちゃま」。いかにも60年代のアメリカのイメージ。

対して瑠風輝さん演じるルネ・マティスが人が好すぎて英米に対して卑屈なのが気になりました。根は良い人でも時にはプライドの高さが垣間見えてほしいし卑屈ではなく皮肉に聞こえるくらいのエスプリがほしいな。
フェリックスの「マテリアル(物質・金)」とマティスの「エスプリ(精神・軽妙洒脱な知性)」の対比が見えてこそ、米仏の2人が配置されている意味があるのではないかと思います。
60年代はフランスにとって苦しい時代だけど人生の価値はお金だけではない、そんな矜持を人々は持っている。
「フランスは貧しいからこそ卑屈になることを拒否する」と戦後ドゴールは言ったそうですが(その高慢な気取り屋ぶりを実利主義者のルーズベルトは鼻で嗤ったとか)、ルネもまた内心に哲学と愛があるフランス人だと思いたいです。

トップコンビと長く組に貢献した組長さんの退団公演ということもあり、随所に過去作を彷彿とさせるセリフがあったり、演じる本人たちの関係性と照らし合わせて感傷的にさせる場面もあったのですが、作品として最も心に響いたのはミシェル役の桜木みなとさんが歌った歌(「夢醒めて」)でした。歌詞の言葉ひとつひとつが沁みました。
潤花さんが歌う「RED BLACK GREEN」も素直に胸にきました。

スメルシュの鷹翔千空さんはやっぱり身のこなしがカッコよくて、登場すると勝手に目が追っていました。
桜木みなとさん、鷹翔千空さん、花菱りずさんの役になりきった芝居が光って見えました。
(若翔りつさんもかなりの芝居巧者なのだけど役が残念すぎて)

ドクトル・ツバイシュタインの場面は東京でもこのままなのかーと残念に思いました。
ナチスに協力したドイツ人科学者が何をしたか、戦後その技術力を目当てに連合国側の米ソが何をしたか、そしてソ連が彼らに何をしたか。彼らの研究が戦後の世界になにをもたらしたか。そんなことが頭を過って。
易々とルシッフルのもとに行けるくらいだからソ連にとってもそれほど重要な人物じゃないよねとも思うし、実際そういう役だったんだけども思想が問題な人物なわけで、コミカルな仕立てにしているのがなおさらでとても無邪気に笑えませんしグロテスクに感じました。

皇帝ゲオルギーは立ち上がるとかも正直いらないよねと思います。ボンドのおじいさん設定も。アナグラムも別にあれでなくても。
退団者への餞の気持ちはわかるのですがよほど巧くやらないと世界観が壊れてしまうなぁと思いました。

イルカはやっぱり謎でした。
人命救助するイルカはいるけどイコール「イルカは人を愛する」とはならないと思うし。個体差だし知能が高い分残酷であったりもするし。なぜ急にジェイムズ・ボンドが夢見る夢子ちゃんみたいになるん?と。
理想をイルカに託してロマンを語っているの? でも私が真風さんのボンドに見たいロマンはそこじゃないんだなぁ。
同調するデルフィーヌもなかなかだなぁというか、ボンドがイルカの話題を出したらすかさず「私の名前はイルカって意味なの」と言い出したのは彼女だったし。そういう意味では2人とも夢見る夢子ちゃんでお似合いなのかも。
いや、ボンドは彼女のことをちゃんとリサーチしてて、名前に因んだイルカの話題を出すとすぐに食いついてくるとわかってやっている作戦に見えたらなるほどね~と思うのだけど、そうは見えない。案外本気ですよね。

真風さんは大人っぽい役が似合うと思われがちだけど、トニーやニコライ、フランツやローレンスなど純粋な青年役が素敵だと私は思っています。
今回のボンドみたいに人生経験の浅い女性をターゲットに見下している感じがする役は苦手だなぁ。おそらく私は小池先生のオリジナル作品の主人公が苦手なんだと思うのだけど、今回のボンドは究極に私が苦手な匂いがするのと真風さんはなぜかその私が苦手なところをより強調しちゃうんだろうなと思います。私に起因する問題だと思いますが。

「アナスタシア」のディミトリはいままで宝塚で見た主人公の中でも屈指で好きです。「神々の土地」のフェリックスも最高だったなぁ。麗しのルイ14世も好きだったし、屈折してたり変人だったりする真風さんの役も純粋な役と同じくらい好きです。
わたし的に、真風さんのラストがこの役なのが遣る瀬無いというのが引っ掛かっているのかなぁ。
もしかしたら私が見たかった真風さんの片鱗を今回の鷹翔千空さんに見出しているから鷹翔さんに釘付けになってしまうのかもしれないなぁ。
(これを書きながら録画していた2016年の宙組「バレンシアの熱い花」を見ているこの瞬間も真風さんのラモンのカッコよさに見惚れていました)

「007」だと期待しなければ、宝塚らしい退団公演だと思えましたし愛のある脚本だなとも感じました。
引っ掛かるところはあるけれど、真風さんが晴れやかに卒業されたらそれがいちばんだし。
と自分を納得させて劇場を出てスマホを開いたら、千秋楽の全世界配信のニュースが。
喜ばしいはずなのに手放しに喜べない。
最後の最後にやってくれるなぁ涙。

続きを読む "幻のヌベラージュ。"

| | コメント (0)

2023/04/30

この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい。

4月9日と11日に福岡市民会館にて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。
9日ソワレはライブビューイングが実施された回、11日ソワレはツアーの大楽でした。
3月29日に梅田芸術劇場メインホールにて一度観劇しているのですが、期待以上のものが見られたので福岡での公演も楽しみにしていました。

梅芸観劇後の感想にも書いたのですが、「バレンシアの熱い花」は2007年版、2016年版を経ての今回の上演でようやく私は見方がわかった気がしています。
そしていままで何に戸惑っていたのかもわかったような気がしました。

物語の舞台やコスチュームは19世紀初頭のスペインに仮託しているけれども精神は極めて日本的な物語だということ。
身分社会に生きる人々の物語であって、それも西洋ではなくて日本のそれのほうが近いこと。
歴史物というよりは昭和の痛快時代劇に近く、そこからエログロを一切抜いて、物語の舞台をナポレオンがフランスに帝政を布いた時代のスペインとし恋愛模様を織り込んだコスチュームプレイとして宝塚作品らしく書かれたのがこの作品なのだと思います。

今回のキャスティングがピタリとはまっていたことと、専科の凪七瑠海さんと星組メンバーが丁寧に表現していたので、時代がかったセリフや歌詞を堪能することができました。

父親の復讐を心に誓いその時機が訪れるまでは『貴族のバカ息子』を装うフェルナンドは大石内蔵助か旗本退屈男を彷彿とさせます。
(これに倣って「旗本退屈男」をヨーロッパの架空の国設定で翻案するのもいいなぁと思いました)
彼が軍隊を辞めてのんびり過ごすことにしたとルカノールに告げる場面で使う「二年越しに肩を凝らせていますので」という言葉がなんとも言えず好きでした。見終わってから心の中で何度も反芻しましたが私には一生使う機会はなさそうです。

軍隊時代にレオン将軍に剣を習ったと言うラモンにフェルナンドが「同門だ」と言ったり、言葉そのものもですし、同門だと『貴族の旦那』も『下町でごろごろしているケチな野郎』も一瞬で距離が縮まる価値観も面白く見ることができました。
このように西洋が舞台なのに作中でちょいちょい出てくる時代劇さながらの表現が違和感ではなくむしろ面白かったのは、演者の呼吸や間合いが作品の世界観に合っていたからだろうと思います。

主演の凪七瑠海さんや組長の美稀千種さんの芝居の呼吸が芝居全体に良い影響を与えている印象でした。時代めいたペースの芝居をラストまで貫けたのが見ていて心地よかったです。
作品に合わせた「臭い芝居」ができる人が何人もいる星組はこのようなタイプの作品に合うのだなと思いました。

主役の呼吸が芝居全体にとって大事。この作品はとくにセリフの持つ尺を堪えきることが大事なんだなと思いました。
凪七瑠海さんのキャリアが十分に活かされていたと思いますし、それでいてすっとした青年らしい若様を演じて違和感のないその個性も役にぴったりだったなぁと思います。

瀬央ゆりあさんも、人情に厚く仲間から愛されている役がよく合っていました。
軽口のように愛を告げ、妹にも好きに憎まれ口を叩かせて。相手に負担をかけないよう気遣うことが習いになっているのかな。両親を早くに亡くすかで小さい頃から周囲に甘えられずさらに自分より幼い妹を庇って生きてきた人なのかなと想像しました。
その妹を守り切れなかった悔しさと憤り、イサベラが傷つきながらも愛する対象が自分ではないせつなさ。言葉ではないものがつたわるラモンでした。背中で泣く(背中でしか泣けない)「瞳の中の宝石」は見ていてせつなかったです。

それからロドリーゴの「この頭を岩壁にでもぶち当てて粉々にしてしまいたい」。
2007年の再演の時はその表現が衝撃的で絵面が脳裏に浮かび思わず我に返ってしまうセリフだったのですが、今回はすんなりと入ってきました。
芝居全体のペースにロドリーゴ役の極美慎さんも巧くはまった芝居をしているからだろうなと思いました。
ロドリーゴ役が極美さんと知った時からビジュアルは間違いなくはまるだろうと思いましたが、いかにも昭和のメロドラマパートでもある役なので危惧もしていたのですが、芝居が整うってこんな感じなんだなぁと思いました。
シルヴィア役の水乃ゆりさんとのペアは真しくタカラヅカらしい見栄えで夢中で追って見てしまいました。

この作品の見方がわかるようになったからこそ、深いところ細かいところも楽しむことができたのだなと思います。

そしていまさらながら16年前の再演ではじめてこの作品を見て戸惑ったことが思い起こされます。
再演を熱望されていた作品の30数年ぶりの上演ということで期待をもって観劇した時の。
ストーリーがわからないわけではない、登場人物の気持ちがわからないわけでもない。
でもどう受け取ればいいのかわからないそんな感じだったでしょうか。
(先ごろ半世紀ぶりに再演された「フィレンツェに燃える」を見た時に近い気がします)

今回で身分社会を背景にすることで成り立っている物語だということは飲み込めましたし、その社会を必死に生きている人々を描いた物語なのだとわかったのですが、それでも、というかそれゆえに、いまもなお考えさせられる作品でもあるなぁと思います。

フェルナンドとイサベラがどうして別れなくてはいけないのか、それはわかります。
フェルナンドが自分の社会的責任をまっとうしようとするならそれに相応しい伴侶が必要で、イサベラはそれに該当する身分ではないから。もっと言えば愛人として囲うことすらできないほど身分に隔たりがあるのだと。
むしろ商売女と割り切れば好きな時に好きなだけ逢うことが可能なのでしょうが、そういう相手にはしないことがフェルナンドにとっての誠意、「心から愛した」ということなのだろうと思います。独りよがりだとは思いますが。

別れなくてはいけないとわかっているのなら最初からつきあわなければいいのに、と思わなくもないですが、そうはいかないのが恋愛なのだという恋愛至上主義に基づいた作品なのでしょう。このへんの恋愛倫理観がおそらく書かれた時代と現代とは異なるのかなと思います。
女性にとって恋愛は文字通り「生と死」(生殖と身体的な死そして社会的な死)に直結するものだから、大事に守られている女性はそこへ近づけさせないのが身分社会においては当然で、自由で本能的な恋愛は女性の立場を危うくするものだという認識はフェルナンドにもあると思います。
逆に酒場で働いているイサベラはその囲いのうちには入らず、本能のままに近づいてもかまわない女性だという認識なのでしょう。

イサベラに激しい恋をもとめる歌を歌わせるのは、フェルナンドの免罪符になるようにという作者の意図が働いているためだと思います。
『息づまるような恋をして 死んでもいいわ恋のためなら』
『美味しい言葉なんてほしくないわ』
『黙って見つめて心を揺さぶる そんな激しい情熱がほしいわ』
こんな歌を好んで歌う女性だから、心の底に復讐の炎を燃やすフェルナンドの一時の相手に相応しいのだと。
傷ついても自分から望んだことだからフェルナンドを責められないよねと。

なぜフェルナンドはイサベラに愛を告げる時に許嫁がいることも同時に告げるのだろうというモヤモヤについても考えました。
けっきょくのところ、交際をはじめる前に「この関係は私の都合で一方的に解消するけど、それでいいね?」と言っているのですよね。そこでゴネるなら付き合わない。付き合うならそれでいいということだよねと。
それで双方がいいならこの件は締結なのに、キラキラした言葉で愛を告白しながら、でも自分には許嫁がいてその人は心優しい少女で自分は裏切れないのだ、と付け加えるのは、自分は悪者にはなりたくない、とことん良い人の立場でいたいということなんだなぁと。
ああこれはモラハラの手口だ。だから何年も何年もモヤモヤしていたのだなぁ。
うん、やっぱりフェルナンドは嫌いだ。
16年前はそんなフェルナンドを許容する理由を探して自己矛盾を起こしてしまっていたのだと思います。(だってめちゃくちゃ輝いて見えたから)

それから、心の奥でこの作品に息づく男社会礼賛に反発を感じていたのだということにも気づきました。
「女には口出しをさせない」のが男として恰好が良いという思想が貫かれていることに。
ルカノールの「男なら聞き捨てならない言葉だが昔一度は惚れたあなたのことだ聞かなかったことにしよう」、レオン将軍が孫娘の苦しみを知りながら「だからついでのことにもう少し辛抱させておくのだ」とか。
フェルナンドの「私のイサベラも死んだ」も。

言い淀むレオン将軍に「無理に聞くつもりはありません」と言うセレスティーナ、「じっと待ちます」のマルガリータ、面倒なことになる前に自分から別れを告げに来るイサベラ。
わきまえた女性ばかり。
お爺ちゃんたちの理想郷ですね。

それが初演当時1970年代の一般的な雰囲気だったと記憶しています。
同時に「ベルサイユのばら」等の少女漫画が少女たちの心に新しい自意識を灯した時代でもありました。彼女たちは女性であっても臆さずに真っ向から大貴族や将軍に意見するオスカルに憧れを抱いたのだと思います。
そんなオスカルを時に父ジャルジェ将軍は激しく叱咤しますが、どうしてダメなのか根拠は説明するんですよね。「男として育てる」というのはそういうことだと思います。(ほかの5人の娘たちにはこういう対応はしていないと思います)

宝塚の「ベルばら」はそんな女性たちの支持の理由に気づかず男性社会目線で作られている。初演当時でさえ原作よりも古臭い印象を与えていたのに、再演のたびに手を加えてもなおそのスタンスは変わっておらず、「女のくせに」「女だてらに」等オスカルが男性社会で生きることをなじるセリフや場面のバリエーションは豊富にもかかわらず、オスカルが人間としてもがいていることについては「女にも権利はある」と紋切型の主張で終わらせてしまう。
挙句の果てにオスカルに「あなたの妻と呼ばれたいのです」と言わせてしまう。
身分の上下なく1人の人間としての「アンドレ・グランディエ」の妻にと願ったことを、あたかも男性に従属したいと願っているかのように改悪されていることに憤りを覚えます。
いちばん変えてほしいのはそこなのに。オスカルが言っていることに、彼女が悩んでいることに、上からでも下からでもなく対等に耳を傾けてほしいと思います。
そんな「ベルサイユのばら」なら見たいです。
(話が逸れてしまいました)

「バレンシアの熱い花」は、柴田先生による初演当時の価値観による物語なので、そういうものとして見ることができますし、またそれを見ていろいろ考えたり、好きとも嫌いとも思うのは当然の観劇の感想かなと思います。
反発するところもありつつ、やはり人間観察に優れているし表現力語彙力に惚れ惚れもします。
心に悩ましい爪痕を残すやはり名作なのだろうなと思います。

今回やっと見方がわかり憑き物が落ちたような心地です。
このタイミングで近々、過去の一連の「バレンシアの熱い花」がスカイステージで放送されるとのことで、今の自分にどんなふうに見えるのか楽しみです。

| | コメント (0)

2023/04/15

二度と同じ夢は見れない。

4月6日と7日に宝塚大劇場にて宙組公演「カジノ・ロワイヤル ~我が名はボンド~」を見てきました。

正直唖然としました。
でもトップスターの退団公演ならこんなものなのかもしれません。
小池先生の作品だし世界の「007」ということで期待しすぎていたのかも。
でも甲斐先生&太田先生の音楽でこの盛り上がらなさはどういうこと?とは思います。
音楽だけはいつも裏切らなかったのになぁ。

トンチキなのはいいとしても設定があまりに稚拙だと物語に入り込めないなぁ。
ロマノフの継承に関する部分とマッドサイエンティストのところでうーんとなってしまいました。
(ロマノフ家の帝位継承が指名制??「大公女襲名」??大公女の戴冠式??「大公女陛下」??そもそもツァーリの娘か孫娘に生まれないと大公女にはなれないのじゃないの??と同日観劇した知人に疑問を投げかけたら「考えたら負け」との御達しが)
イルカの歌のロジックも謎でした。
歌唱指導にも使用するくらいなのでいちばん言いたいことなんですよね?
キキちゃん(芹香斗亜さん)どんな気持ちで歌っているのかなぁ。タカラジェンヌは偉大だなぁ。

岡田先生の場合は女豹だけど、小池先生の夢は女子大生なのかなぁ。
大学生、劇作家、社会活動家など知的でお堅い属性の女性を籠絡するの好きだなぁ。
などとストーリーとは関係のないことを考えながら見ていました。
脚本自体、設定を面白がって書いているというか、散りばめられた過去作の欠片に気づいてほしそうに書かれているようでした。
ロマノフとか、マリア皇太后とか、マッドサイエンティストとか、女子大生もそういう欠片の1つかな。
いっそホテルを建てたらよかったのになぁ。
というか007の設定、いる? とかいったら元も子もないか。

でも007、冷戦時代のスパイものの設定が活きている場面が見当たらなかったのも事実。
スパイものなのに全体にまったりしていてスリリングな場面もなかったし、せっかくパリに英米仏のエージェントが集まったのに、英国人らしさ米国人らしさフランス人らしさでクスリとさせるような場面もなくて。
ステレオタイプすぎるのは批判されるかもしれないけど、共通認知を有効に使って知的に表現するのも腕の見せ所なのになぁ。
そういうところがスパイものの面白さだし、そこに1960年代らしさも加わるととても素敵なのに。

スパイものらしい身のこなしが素敵だったのが、スメルシュ役の鷹翔千空さんでした。
ピストルを撃った時の反動がリアルで。良い筋肉の使い方だなぁと惚れ惚れしました。
ジェイムズ・ボンドのこともル・シッフルのことも容易に仕留めてしまえそうなのに、さぁというところ部下を助けに行っちゃうのがツボでした。(良い人♡)

緩急のある芝居で場面を面白くしていたのはミシェル役の桜木みなとさん。過激派の学生と言われるとそうなの?という設定だけど。
それからゲオルギー大公の妃役の花菱りずさん。彼女が大袈裟なくらいに芝居をしてくれたので飽きずに見られたかなと思います。
天彩峰里さんも歌、芝居の巧さが際立っていました。ル・シッフルの横暴さを堪える部下の顔と自分より下の者には鞭を揮って悪女ぶったりしたかと思うとコメディタッチで場面をすすめたり、いろんな顔を見せてさすがでした。

真風涼帆さんはいつもの真風涼帆さんとしてカッコよくて、潤花さんもいつもの潤花さんで華やかで、芹香斗亜さんはいつものチャーミングな悪役で。
役というよりキャリアを踏まえての男役、娘役としての魅力で見せる感じでした。
トップコンビのサヨナラ公演らしくてそれもいいか。それができるのがスターだもんね。(しかし新人公演の主演者にはハードル高そう)

「007」と思わなければ愉しくて、愛のある退団公演ともいえると思います。
舞台の上に出演者が大勢いる場面も多くて、2度目に2階から見た時は壮観で楽しかったです。パラシュートの場面も近く感じるし!
初見では舞台が近かったせいか楽しみ方がわからなかったのかもしれません。せっかく舞台上にいるのに「あなたナニ人?」な人も多くて、そういうところ1人1人が役のバックグラウンドを見せてくれたら退屈せず面白く見られそうです。

そしてなんだかんだと言いながら、真風さんと潤花さんがパラシュートで寄り添いながら歌う場面や、デュエットダンスには涙目になってしまいました。
この愛おしい時間にも限りがあるのだなぁと。
ムラではもう見れないので来月東京公演で1回のみ見納めしてきます。

続きを読む "二度と同じ夢は見れない。"

| | コメント (0)

2023/04/10

愛にすべてを。

3月29日にシアタードラマシティにて宝塚歌劇星組公演「Le Rouge et le Noir ~赤と黒~」をマチソワしてきました。
ドラマシティでの前楽と千穐楽でした。

前日に上階の梅田芸術劇場メインホールで宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を観劇してからのこのフレンチロックオペラ「赤と黒」の観劇は宝塚歌劇の懐の深さを再確認するこのうえない体験となりました。

柴田先生&寺田先生による歌劇と岡田先生&吉﨑先生によるロマンチックレヴューという20世紀の伝統芸能とも呼ぶべき宝塚と、21世紀のまさに今2020年代の進化する宝塚の両方の公演を同じ建物内の上と下で、同じ星組公演で見られたことに興奮しました。

およそ半年前に次の星組の別箱公演が礼真琴さん主演でフレンチロックミュージカルの初演目と知り、これは絶対に見に行きたいと思いました。
2019年のプレお披露目公演「ロックオペラ モーツァルト」、2020年の「ロミオとジュリエット」と礼さんにかかるとフレンチミュージカルのナンバーはとてつもなく輝くということを経験していましたから。
いつか礼さんロナンで「1789」を見てみたいとずっと思っていて、それも次回の大劇場公演で叶うことになったのですが、その前にシアター・ドラマシティで別のフレンチロックミュージカルが見られるなんてと期待が高まりました。

今回は実際の観劇に先立ちライブ配信を見る機会があったのですが、コスパ良くまとめられた脚本でストーリー展開自体ににドキドキ感があるタイプの作品ではなかったため集中して見ることができませんでした。
いちばんの敗因は家族に遠慮して音量を控えていたためだと思うのです。
これは劇場で生の音楽を浴びなくてはと意気込んで劇場に足を運んだのですが、想像を超えるものを体感できました。

ロックコンサートのような音響にぴたりとハマるヴォーカルと巧みな歌唱。このグルーヴ。
そうそうそう。これこれこれ。
これを聴きたかったんだと思いました。
レナーテ夫人とのデュエットの時のリズムの刻み方など最高でした。

レナーテ夫人役の有沙瞳さん、マチルド役の詩ちづるさんも素晴らしかったです。
小説「赤と黒」を読んだのはかなり若い頃だったので、レナーテ夫人に同情はしたけれどマチルドのわがまま娘ぶりには反感を持っていたのだったなぁ。
いまだったら絶対に好きになっていたなぁ。などと思い詩ちづるさんのマチルドから目が離せませんでした。

ストーリー的にはジュリアンの家族や神学校のくだりが割愛されているので、彼の孤独や心の屈折、社会への復讐にもちかい野望などは見えなくなっていて、私のイメージしていたジュリアンとは印象が違うかなと思いました。
この作品で礼さんが演じるジュリアンは内省的で純粋な面が強く出ていました。
赤と黒の意味も、よく言われる勇者(レポレオン)/名誉の赤、聖職者/野心の黒ではなく、彼の内面を象徴するもののようでした。

礼さんは柴田侑宏先生がスタンダールの「赤と黒」を翻案してつくられた「アルジェの男」という作品でも主人公のジュリアンという貧しく荒れた生き方からその才を有力者に引き立てられ野望を抱いて階級社会を駆け上がっていく青年を演じていましたが、この「アルジェの男」の主人公が野心のためには躊躇なく女性の心を利用していたのに対し、今回のジュリアンはレナーテ夫人やマチルドの本心を疑い懊悩するところが新鮮でした。
人を信じられず女性に惹かれるも彼女たちを征服する(愛情の上で優位に立つ)ことで安堵しているところは、孤独な生い立ちを反映しているなぁと思いました。

1曲1曲が長尺のフレンチロックのミュージカルナンバーをクールにエネルギッシュに聴かせるという大仕事をやりながら、ナンバーに尺を取られた分紙芝居のように次々に変わっていく場面と場面を表情や身体表現といった非言語で表現し繋いでいく礼さんの凄さ。
とくに「間」、絶妙な呼吸とセンス、それらを自在にコントロールできる身体能力の高さによって表現される歌、ダンス、芝居に浸る至福を味わいました。
この礼さんに食らいついている星組生も凄い。

物語の終わりにジェロニモがジュリアンの生き様をどう思うかと観客に問いますが、前日に「バレンシアの熱い花」を見ているだけに、それを階級社会と秩序に結び付けて考えずにいられませんでした。

「バレンシアの熱い花」の主人公フェルナンドが終始、階級社会に疑問を抱かず生きているのに対して、ジュリアンは階級社会に生きる人々の欺瞞と腐敗を嫌悪し軽蔑している。それは持たざる者として生まれて異分子として上流社会に生きているからこその視点だと思います。
上流社会の欺瞞と空虚さに辟易とし不満を言い募る令嬢マチルドと共鳴しながらも最終的に彼女ではなかったのは、決定的に相容れないなにかがあったからではと思います。彼を救うためとはいえ目的のためにはお金に糸目をつけない彼女のやり方に遣る瀬無さそうな目をしたジュリアンが印象に残ります。
彼女がジュリアンの無罪を勝ち取ろうとするのは彼女自身の名誉のためでもある。マチルド・ド・ラ・モールの名に懸けてと。それ自体は悪いことではないけれど、ジュリアンを満たすものではなかったということなんだろうなぁ。
すべてを持っていたゆえに欠け落ちたピースを埋めるために行動した者と、持たざるがゆえにすべてを求めた者。

なにも持たないからすべてを手に入れようとした。
地位もお金も名誉も持っていなかったものすべてがその手の中に入る直前に、自分が本当に望んでいたものはレナーテ夫人の愛だったと悟るジュリアン。
彼のために駆け落ちも厭わず彼の無罪を勝ち取るために奔走するマチルドの愛とそれはどうちがうのか、それがわかればジュリアンが欲していたものの正体がわかるのだろうなと思います。

「なんという目で僕を見るんだ」と懊悩するジュリアンが見ていたレナーテ夫人の瞳とはどんなものだったのだろう。そこに答えがある気がしてなりません。
小さきものを見る憐憫か慈愛か、ジュリアンのコンプレックスを大いに刺激しつつも悩ませた目。
彼が望んだ「すべて」とは。自分を愛する者の瞳に映る自分なのかなと。

続きを読む "愛にすべてを。"

| | コメント (0)

2023/04/02

この復讐を遂げるまでは私には安らぎはない。

3月28日に梅田芸術劇場メインホールにて宝塚歌劇星組全国ツアー公演「バレンシアの熱い花」と「パッション・ダムール・アゲイン!」を見てきました。

専科の凪七瑠海さんが主演、相手役に星組トップ娘役の舞空瞳さん、そして星組選抜メンバーという全国ツアー公演には稀な座組による公演でした。
主演が専科の方であるせいか、ベタベタしていない感じが私には好印象でした。
ロマンティックだけれどもノンセクシャルな雰囲気はオールド宝塚のイメージに通じて。

「バレンシアの熱い花」は2007年の大和悠河さんのトップお披露目公演の演目で、大劇場の初日からつづく全国ツアー公演の千秋楽まで約6か月繰り返し観劇した懐かしい作品です。
あのラストをどう受け取るのが正解なのか、6か月間考え続け、公演が終わっても折に触れ考えていたけれど正解をみつけられないまま、そもそもなぜトップお披露目公演であの演目だったのだろうという思案の迷宮にはまり、その思いを胸にずっと埋めていた作品でした。
 
今回凪七さん(宙組下級生時代の懐かしい呼び方をさせていただくと)かちゃ主演の「バレンシアの熱い花」を観劇して私の中のなにかが成仏した気がしました。

かつてあれほどひっかかっていた箇所が気にならずに見終えたことに自分でもびっくりでした。
観劇直後は黒岩涙香の翻案小説を読んだような感覚に近いかなぁと思いました。西洋の物語の体をしているけれど精神と教養は古の日本人だよねと。

恋しい人の瞳に宿るものを「さらさら落ちる月影に映えてあえかに光る紫のしずく」と表現したりだとか「後朝の薄あかりに甘やかな吐息をもらす恋の花」だとか。後朝なんて平安王朝文学くらいでしか出遭わない言葉にスペインで遭遇するとは。
いやいやスペインであってスペインじゃない。時代も国も架空の、古の日本の中のスペインなんだなぁと思いました。

仇討ちを心に誓い敵も味方も欺いてうつけ者を装い悪所通いをする主人公って大石内蔵助みたいだなぁとも。
男の本懐を理解して身を退く下層階級の女性、主人公を待ち続ける心優しく清らかな許嫁、二夫にまみえずの貞女、道理のわかった御寮人、時代劇なんだなぁこれは。

身分の違いを超えて結ばれることなどありえないし、愛しい人への操を守れなかった女性は生き恥を晒してはいけない、まして何もなかったように彼と添うことはできない、そんなことを微塵も疑わず信じている人びとの物語として今回は見ていました。

かちゃをはじめ星組の皆さんが時代がかった巧芝居を見せてくれていたので、そういう世界観なのだという前提で見ることができたのではと思います。
その世界観の中での登場人物それぞれの行動に整合性を感じましたし、そんなままならない状況で傷つき懸命に生きている彼らの気持ちに沿って見ることができたのではないかなと思います。

そしてあらためて考えてみてこの作品は貴族の若様の成長譚なんだなぁと思いました。
若様が「一人前の男」になるための試練を克服するお話。
試練の1つは父親の精神支配から脱すること、2つ目には色恋を経験すること。
2つのミッションをクリアして戻ってきた彼は「男」として認められ、彼を待ち続けた許嫁と祝福のもと結ばれて二度と降ろすことのできない責任を背負って人生の次のステージへと進む。
――という封建社会での成長譚なのだと思います。

封建社会の中で如何に誠実に生きるか。その中で如何にすれば幸せでいられるか。
柴田作品で描かれるのはつねに封建社会の人間ドラマなんだと思います。

封建社会を描いた物語を見ているのだという視点が欠落してしまうと柴田作品は首をかしげてしまうことになるのだろうと思います。
身分を超えること、男女の立場を踏み越えること、すなわち秩序を乱すことが封建社会においてなによりも罪だということ。そこにドラマが生まれているのだということ。
その前提を踏まえて見る必要があったのだと思いました。
そして半世紀前の初演当時よりもその前提を丁寧に表現しないと現代人の感覚では戸惑いの多い作品だと思います。

記憶にある限り柴田作品には根っからの悪女は登場しなくて、むしろ身分社会の中では悪女だと思われる女性の健気さが描かれることが多い気がします。
そこが柴田先生の優しさかなと思います。
けれどどんなにその女性が健気で心映えがよかろうと決して身分を超えて結ばれることはないのです。その先に幸せが見出せないのが柴田先生の思想なのかなとも思います。
唯一主人公とヒロインが身分を超えて結ばれたのは「黒い瞳」かなぁ。あれは女帝エカチェリーナ2世のお墨付きを得るという前代未聞の大技をヒロインがやってのけたからなぁ。
(男女の身分が逆で女性が身分を捨てて結ばれるパターンだと、主人公ではないけれど「悲しみのコルドバ」のメリッサとビセントの例があったのを思い出しました)

どうしても身分の差は越えられない社会に生きている人々なのだということは理解できるのですが、フェルナンドがイサベラに愛を告げる時に許嫁のことを打ち明けるのはどういう了見から来ているのでしょうか。
許嫁を悲しませることはできない(=目的を果たしたら許嫁と結婚する)が、君への思いに偽りはないと言うのは。
自分たちの階級の優位を示して彼女との身分を峻別しているように聞こえるけれど、そういうことなのでしょうか。
許嫁は清らかな心優しい少女だが、君はそうではない。許嫁を悲しませることはできないが、君のことはそう思わない。
君のことは一時の情婦にしかできないが、本気で愛していると。(イサベラの身分なら喜ばしいことのはずだと思っている若様の思考?)
どういう意図をもって言っているのと思ってしまうけれど、つまりそれが身分制度というものなのかと。

ロドリーゴの「私のシルヴィアが死んだ」をうけてのフェルナンドの「私のイサベラも死んだ」は、もうこれ以後は二度と彼女にまみえることはないということを自分に言い聞かせているように聞こえました。
ロドリーゴには聞こえていないのですよね。
フェルナンドとイサベラ、それぞれがそれぞれの居るべき世界に戻り、その2つの場所は此岸と彼岸くらいに隔たりがあるということなのかなと思うのですが、イサベラと同じ身分のラモンとはその後もなんらかのつきあいがありそうなのにと思うと(「また遊びに来てくれ、遠慮するな」とロドリーゴの言葉)釈然としない気持ちも残ります。
男同士の身分の差よりも、男と女の立場の隔たりの方が越えられない世界観なのだなとも思います。

領主に貴族にその部下や使用人、下町のバルに集う人々、軍人に義賊に泥棒さんまで様々な属性のキャラクターが登場し、貴族社会と下町を対比させ、貴族の邸宅やバルや市街のお祭りの場面を配して宝塚歌劇のリソースを最大限に活かす工夫が施された秀作だと思います。
けれど、また喜んで見たい演目ではないなと思います。

続きを読む "この復讐を遂げるまでは私には安らぎはない。"

| | コメント (0)

2023/03/07

ハプスブルクを頼む。

3月1日に東京宝塚劇場にて花組公演「うたかたの恋」と「ENCHANTEMENT-華麗なる香水(パルファン)」を見てきました。

「うたかたの恋」は小柳奈穂子先生による新演出がとても良いと聞いて楽しみにしていました。
書き加えられた部分によってそれまでふんわりしていた時代背景や状況が顕らかになり、私は夢物語を見る目線ではなく、史劇を見るようなシビアな目線で見ていたようです。
結果としてマイヤーリンク事件の後味の悪さを噛みしめることになりました。

現実との折り合いが悪い大人が、自分は世の中の誰ともちがうと夢想しがちな年ごろの年少者の夢を喰らって利用している様が浮き彫りになったように感じました。
ことに酒場で自暴自棄のルドルフが罪のないマリーを責める様子が、モラ男の典型を見るようで心理的アラートが誘発されたようです。
思い通りにいかないことに腹を立てている甘えたオトナと、見たことのない大人の弱さを直にぶつけられてそれを愛しいと感じ彼を支えられるのは自分しかいないと思い込んでしまった少女の図にぞっとしてしまったのです
(あなたしかいないのではなくて、みんなが手を退いてしまった男なのよ、その男は)

この甘えたでダメな感じが真実に近いルドルフなんだろうなとも思います。
それに対してマリーも現実的な人物に描かれていたなら別の受け取り方ができたのかもしれないのですが、旧時代の夢を一身に背負ったようなマリーだったので、ルドルフ役の柚香光さんが心の機微を繊細に演じるほど、マリー役の星風まどかさんが宝塚ファンが求めるマリー像に近づけるほどいたたまれなさを感じました
その立場、その美貌で夢見るマリーを有頂天にさせたあげくに死出の道連れにする正当性をどうやっても見出せなくて。

従来の「うたかたの恋」を見るとき、私は頭で主人公がおかれた状況や心情を補完しながら見ていたと思います。そうするのは、すでに初演の頃とは見ているこちら側の感覚や価値観が変わっていたからだと思います。
聡明で孤独な皇太子とけなげな少女の悲恋にロマンを感じ、頑迷な父帝や権力に固執する政敵を憎み、母后や伯爵夫人の機知に富んだ会話や人間味あふれる従僕たちのやりとりに人の世の機微を感じてひとときの夢を味わう作品だったのかな、もともとは。
でもいつしか見る側も努力をしないと楽しめなくなっていました。

時代が進み自分も年齢を重ねたことで、責任ある立場の大人がうら若い女性と情死を選ぶには納得がいく理由がないと受け容れ難くなり。
また同時代を描いた新しい作品での同名のキャラクターの描かれ方に触れることで、父帝がただの頑迷ではなかったのではと考えたり。
機知に富んで見える伯爵夫人のセリフも宮廷の薄暗いところで権力者を相手に女衒のようなことして生き抜く女性ゆえのわきまえた仕草なのだと知るようになると、あの狂言回しが「キッチュ!(まがいものだ!)」とせせら笑ったおとぎ話を無垢な気持ちで見ることは適わなくなってきたのだと思います。

そういうわけで、今回の新演出に期待を抱いて観劇したのですが、こもごも雑念が膨らみ純粋な目線で見ることができなかったのかなぁと思います。
柴田先生が脚本を書かれた時代の価値観や史観が支配する場面、新しく書かれた現在の価値観や史観による場面がパッチワークのように交錯し視点を定めることができないまま見終わってしまった感じです。
さらに同作映画にこんな場面があったなぁと思うとその映画の世界観に私の意識も一瞬飛んだりもして。
物語に浸るより、考察しながら見てしまいました。

「おとぎ話フィルター」が外れてしまったために、いままで気にしないようにしていた部分に気を取られたのもあります。
そもそもなぜジャンはヨハンじゃないのかなぁとか。
クロード・アネの原作がフランス語で書かれたもので名前もフランス式になっていたと思うので、柴田先生もそれに由ったのかなと思いプログラムを見ると、フランツ・フェルディナント大公も「フランソワ・フェルディナンド大公」になっていました。(だから恋人もゾフィーじゃなくてソフィーなのか)
名前の表記は原作にならってフランス名で統一しているのでしょうか。
それで今回の新キャラであるマリーの兄の名前もジョルジュなのかな。観劇時なぜゲオルクじゃないんだろうと疑問に思っていました。(母親がギリシャ系でマルセイユ生まれらしいけど←観劇後に調べてみました)

かと思うと、従来は「ヨゼフ皇帝」と表記されていたフランツ・ヨーゼフが新演出では「フランツ」(ファーストネームのみ)になっていて、これも不思議に思います。
舞台を見るのにどうでもいいことなのかもしれませんが、意味なくそうされている訳ではないと思うのです。その理由がわかれば喉の痞えも取れるのではないかといろいろ考えてしまいます。

こたびの新演出ではフェルディナント大公の恋人ゾフィー・ホテクも新キャラとして登場し、フェルディナント大公が彼女を「召使い」と紹介したのでそれにも、え?となりましたが(実際には彼女はフリードリヒ大公妃の女官をしていたボヘミアの伯爵令嬢だったのだけど)、これは貴賤婚をわかりやすくするために平民に改変したのかなと思いました。
この時代、ルドルフ皇太子を筆頭にハプスブルク家には大勢の大公殿下がいたそうですが、貴賤婚を選ぶ大公が次々増えていくのですよね。
彼らは家憲により王族以外との結婚が許されなかった(貴族もNG)けれど、それでは当時50名以上いたといわれるハプスブルク家の大公たちは結婚のチャンスを逃してしまうし、貴賤婚のたびに皇籍から除籍していては後継者の選定が難航していくのは顕らか。
フェルディナンド大公やジャン・サルヴァドル大公が自由恋愛で伴侶を選ぼうとしているのも時代の必然だなと思います。そんな彼らをルドルフが眩しく羨ましく思うのも肯けました。
これもまたハプスブルク帝国の崩壊を予感させるエピソードだなと思いました。

新演出でとくに好きだったところは、冒頭のプリンスたちのウィンナワルツです。
「うたかたの恋」というとプロローグでルドルフとマリーが歌う深紅の大階段、そしてそれに続く貴公子たちのウィンナワルツが最大の見どころですが、今回はそのウィンナワルツがさらに見応えのある見せ場になっていました。どのプリンスも麗しく、どのプリンスもダンスに長けていて、1人ひとりを眺めてうっとりしたいのに・・やがてこの場面が終わってしまうのを惜しまずにいられませんでした。

シュラット夫人がオフィーリアのアリアを歌う場面もよかったです。フランスオペラ「ハムレット」の音楽はこの作品の世界観にぴったりでした。(その衣装からして彼女は歌唱披露しただけでオフィーリアを演じたわけではないんですよね?)
バレエの場面も素敵でした。美しいものを見ることには価値があるのだとしみじみと感じました。
ザッシェル料理店にはこれまでもおなじみのロシアの歌手マリンカ、プラーター公園のタバーンには新キャラのミッツィと、歌姫に活躍の場があるのもいいなぁと思いました。
ミッツィってあのミッツィ?(ミッツィ・カスパル)と思うと、ルドルフの別の顔を思い起こしてしまい複雑な気持ちになってしまったのも否めませんが。

ルドルフを追い詰める包囲網がわかりやすく描かれたことで、柴田作品独特の「語らない中に語られているもの」が見えなくなってしまった気もします。
なにげないやりとりに込められた意味に気づいた時の面白さが柴田作品の真骨頂だったなぁと。
けれどいまの時代に「語らない中に語る」というようなことをすると、思いもよらない受け取り方をされたりもするので難しい。そういうことが通用しない時代になったんだなぁと思います。

それから柴田作品は、女性は分別をわきまえてどんなときでも微笑みを絶やさずけなげに振る舞いなさいのメッセージも強くて、いまこの時代にそのまま見せられると鼻白んでしまうのも確かです。当時はそのほうが幸せを掴めるという女性たちへの愛を込めたメッセージだったのかもしれませんが。(「バレンシアの熱い花」はどうなるのかいまから心配・・)

思えば、これほど宝塚の今と昔に思いを馳せられる作品もないなぁと思います。
そしてこれからの宝塚は、と思いを遣らずにいられません。


野口先生のショー「ENCHANTEMENT-華麗なる香水(パルファン)」は宝塚を見たぞという満足感に浸れる作品でした。
コスチュームが豪華な舞台は多々あれど、必然性などおかまいなしに次から次へと豪華なコスチュームを着替えて見せることができるのは宝塚しかないのではと思います。まさにそんなショーでした。

私がいちばん心に残ったのは、パリのベル・エポックの場面、盆の上を回る美男美女たちかなぁ。
聖乃あすかさんが凄まじいほどの美女でびっくりしました。
早くもここが私的クライマックス!と思ったところでしたが、次のNYの場面での柚香光さん登場で心が舞い踊りました。
やはり小粋に踊ってこそ花男。
中国の場面は艶やかで、ミュージカルナンバーの場面は洒脱で目にも麗しく軽快な黒燕尾も愉しくて、そしてデュエットダンスにうっとり。(影ソロもよかったです)
芳しいひとときはあっという間に終わってしまいました。

続きを読む "ハプスブルクを頼む。"

| | コメント (0)

2023/01/16

Song For You.

2022年は宝塚の脆弱な部分が可視化されてしまったなと感じた年でした。

未成年の少女たちを集めて独特の価値観の中で育成する危うさ。
そして脚本力の弱さ。
どちらも人材の育成に関わることかと思います。

人こそ宝。
タカラジェンヌをはじめそこに働く人々が時代に沿った素養を培い更新していける場所でありますように。

大勢の人が本気で一つのことに向き合っていれば、衝突することもあれば反りが合わないと感じることもあると思います。一所懸命であればこそ。
その中で最良の解を見つけながら歩んで行っているであろう人たちを信じています。

たとえば、厳しさは愛情ととらえてストイックに上を目指している人にとっては当たり前のことや逆に許せないことがあると思いますが、けれどそうとらえる人ばかりではないはずで、それぞれにとっての当たり前や許せないことがあるのだということ。
いろんな考え方や価値観が存在する上で、各々が相手を尊重し信じて、力を合わせて一つのものを作りあげ、バトンをつないで新しい時代の宝塚を作って見せくれることが宝塚ファンとして私の願いです。

それから、コミュニケーション力のある人、発信力のある人の言葉や言動から憶測されたことのみが真実のように語り継がれて、そうでなかった人がずっと悪い印象のままなのも悲しいです。

劇団には時代に即して団員1人ひとりを守ってほしいと思います。
夢が見られなくなったらもうそれは宝塚じゃなくなってしまうから。

持ち場を与えられた各々がつねに良いパフォーマンスができる場所でありますように。

| | コメント (0)

2022/12/14

夜明け色に咲いた愛の物語を。

12月12日と13日に宝塚大劇場にて星組公演「ディミトリ~曙光に散る、紫の花~」「JAGUAR BEAT-ジャガービート-」を見てきました。
13日は千秋楽でした。

「ディミトリ」は、この1か月のあいだに個々の役を演じる人たちがそれぞれの解を見つけ出しそれを目指して深めていったんだなぁと感動する出来栄えでした。
時に涙したり見蕩れたりもしましたが芝居が正解を導き出すほどに、どうしても興が醒めてしまう部分が残りもやもやしました。

終演後ファン友さんに思いをぶつけて気づかせてもらったのですが(・・恐縮)、どうやら私は一段と生田先生には厳しいみたいです。
どうしてかな?と考えたところ、目にとまった(耳にとまった)ディテールで期待を膨らませた結果、・・期待外れで勝手にプンスカしているみたいです。

意図したものの回収が拙いのか、そもそもどうする気もないものなのか、それすらもわからないものに期待しては裏切られているような。
そういうことが何作も続いているかんじです。
それに勝手に憤っているみたいです。
相対評価は高いのですが、ここに至るまでの私憤が混ざって絶対評価になると辛口になってしまうようです。

もっと高い所に行けそうなのにと思うと口惜しさに地団駄を踏みたくなるのです。
いつもは封をしているけど、そのもっと高い所の作品を心の底では求めているんだなぁと思います。

それを一瞬見せてくれそうな気がしてしまうんですよね。生田先生のもったいぶった言い回しや演出は。

だいぶ話が飛んでしまいますが、劇場も舞台装置もとても豪華でそれに携わる人々も演じるタカラジェンヌたちも並々ならぬ努力で舞台を作っているのだから、それに相応しく脚本も一級品であってほしいなというのが心の奥にあります。
繰り返し再演できるような、また見たくなるようなオリジナル作品を作り上げることが宝塚歌劇の未来には必要なのではないかなと思います。
そのためには、これはという作品はブラッシュアップして再演していくこともあってもいいのじゃないかなと思います。再度、時間とお金をかけて人的にも劇団の総力をあげて元の脚本を磨き上げていくことも。
「ディミトリ」をそのようにして何年か後にまた見せてもらえたらなぁと思います。

そしてまさに見てきたばかりの「ディミトリ」についてですが。
まず礼真琴さんが演じたディミトリはこんなに簡単に描いて終わる人物じゃないだろうになぁと思います。
この役を演じるのはとても難しかっただろうなぁと思いました。
彼という人物を主役として描くなら、もっと深いところ触れてもよさそうなのになと思います。

幼くして異教の国に人質に出された少年の寄る辺なき心。
人質にされた国の王女に救いを見出しのちに彼女の王配となるも、その出自によって宮廷中から疎まれる身で自分の居場所を定めるまで。
たった1人の味方であり彼の人生の意味そのものであった愛する妻=女王の許しがたい裏切り(不貞)からの幽閉の身となったこと。
そして王配としては憎むべき敵国の帝王に命を助けられ、彼の慈悲と寵愛を受けて生かされる立場となり愛する国が蹂躙されるさまをその傍らで見る思い。
その恩義ある帝王を、自分を裏切り苦境におとしめた女王への愛のために命を捨てても裏切る決意にいたること。
オーストリア皇后やフランス王妃に劣らないドラマティックな人生の物語が見れそうなんですが。

この不安定な立場の中で彼がアイデンティティをどう形成していったかを見たかったなぁと思います。
ヒロインにとって都合の良い夫、ヒロインに都合の良いおとぎ話で終わってしまったのがもったいないなぁと思います。

ルスダンは、それが夫の命を奪うことになっても、それが自分自身の心を抉ることになっても、女王としての決断を重んじた。ジョージアの女王であることが彼女にとって自分の生きる意味にまでなっていた。
ディミトリは、ルーム・セルジュークの王子でもディミトリでもなく、ジョージアの王配だという言葉に満足して息絶える。
これは対称なのか非対称か、微妙に思えます。そうともとれるし、ちがうともとれる。
そこももやもやが残るところだったなぁと思います。

ディミトリのおかげでルスダンは背負うものが軽くなったよ、よりは、ディミトリの死を背負ってルスダンはその後の人生を苦しみながらも果敢に生きて死の時を迎えた、のほうが私は好きです。
原作にあった「狐の手袋」のエピソードにいちばん心が震えたのもそれかなと思います。

うまく言えないのですが、「ディミトリ」と「曙光に散る、紫の花」の中間ぐらいの物語を見たいなと思います。

| | コメント (0)

2022/12/06

明日を待つこの思い。

12月3日と4日に福岡市民会館にて、宝塚歌劇月組公演「ブラック・ジャック 危険な賭け」「FULL SWING!」を見てきました。

「ブラック・ジャック 危険な賭け」は、マサツカ作品あるあるで、主題歌や挿入歌がとても良くて歌詞を噛みしめて聞きたいと思う作品でした。
主題歌は良いけれど主人公がなんか腹立つなぁと思うのもあるあるで、とはいうものの男役さんのカッコよさに誤魔化されてしまうのもまたあるあるなのですが、今回は誤魔化されたわ~♡とならずに終わってしまって、あら。でした。

話の筋は通っていて演出もうまいなぁと思うところもあるし月組生の芝居は流石だなぁと感心しましたが、純粋にこれ面白いかな?となりました。
クスリとさせる芝居も織り込まれていて、そういうところは笑いましたし、これは芝居の呼吸がよいからできるんだなぁとも思いましたけど。

ブラック・ジャックの思想も主張も嫌いじゃなかったのだけど、なんでこんなに偉そうなんだろうなぁと思いました。
漫画のブラック・ジャックってこんなだったかな。
どちらかというとマサツカ作品の嫌なところが表に出ていた気がします。
そしてそれをカバーする何かも足りなかったなと。
真面目すぎなのかな。愛せる隙がないというか。

私はマサツカ作品の頭ごなしに相手に「馬鹿かおまえは!」と怒鳴りつける主人公が好きになれないのです。
威張るなら大病院の院長とかマフィアのボスにでも怒鳴ればいいのに。
反権力の無頼漢を気取った男性の中のセクシズムが露骨だったのも嫌だなぁと思ってしまいました。
そういうところが信頼できるキャラに見えなくて詰みました。

言い返してくる女性には、その自尊心をへし折って悔い改めさせたらいい気持ちになるのかなぁ。「おれが最高のオペというものを見せてやる」は失笑。
「今夜のことは忘れないと思います」と平伏させるのは何が狙いなのかな。
逆に自己肯定感が低く自分を卑下する女性がお好きなんだろうなぁと思いました。そんな女性を気遣い励ます自分が好きなのかなと。
ブラック・ジャックではない別の誰かが透けて見えてしらけてしまいました。

そこまで偉そうにしておきながらピノコに自分をケアさせるのもなんだかなぁと思いました。
ピノコもまた「愛される幼妻」のロールモデルをなぞっているんですよね。訳あってそうやって自分の居場所をみつけているキャラクターなんだけど、それを舞台で生身の女性が幼児語で演じるといたたまれない気分になりました。

ラストに女王を登場させるのも権威にちゃっかり擦り寄っているように見えて、組織に長くいる人はさすがだなと思ってしまいました。
(007ならああいうのも気が利いていると思えるけれど)

そういう一つ一つが支障になってしまって、世界観に入りきれなかったのかなと思います。

人の世に対する諦観のようなものがあればこそ、生きること生かすことに必死で、不可能なことに抗い挑む人。それがブラック・ジャックだと思うのだけど。
生き方そのものが弱きものを痛めつける世の中へのレジスタンス。抵抗なんだと。
でもこの作品のブラック・ジャックはそうは見えませんでした。

芝居の技術は5組の中でも一番かなぁと思うのに、何か巻き込まれるものがなかったなぁと思います。
硬い印象を受けたというか人間的な魅力が見えたらなぁ。

と思ったら、カーテンコールのご当地出身者の紹介やトップスターの月城かなとさんの挨拶が面白くてチャーミングで、なんとしたこと!と。
福岡出身者は今回美海そらさんお1人ということもあり、しっかりネタを仕込んで笑わせにくるのが流石「芝居の月組生」でした。
3日の夜公演は、博多弁のピノコを披露。4日の夜公演はライブ配信の回だったのですが、可愛い博多弁でご挨拶中に突然ピノコ宛てに電話が鳴ってピノコの小芝居も入れたりとひとり芝居状態で楽しませてもらいました。なかなか度胸のあるチャレンジャーだし可愛いし、お名前しっかり覚えました。

月城さんは月城さんで、3日の夜は組長の光月るうさんから「月組のお天気お兄さん月城かなとが——」とふられると耳元のイヤホンを探る仕草から入って「こちら福岡市民会館、明日のお天気は—— 」とお天気中継をはじめて、翌日のお天気や気温を淀みなく話し出して(ちゃんと仕込んでいたのですよね)会場が一気に和みました。
これまでいくども全国ツアーでのトップさんのご挨拶を聞いてきましたが、こんなの初めてじゃないかな笑。客席は一気に月城さんを好きになったと思います。
お芝居自体も演じている人々を愛せる演目だったらなぁと思ったりも。


「FULL SWING!」は、大劇場公演は見ることができなくて配信を見たのですが、月組らしいジャズの演目で全国ツアー版を楽しみにしていました。
三木先生で月組といえば「ジャズマニア」が好きだったので、ちょっと懐かしくもあり今のタカラジェンヌさんたちのリズム感に感心したりしながら楽しみました。
夢奈瑠音さんの「ジャズマニア」からのラインダンスは爆上がりました。

ジャズのビートを楽しんでいるうちにあっという間に終わってしまったショーでしたが、なかでも風間柚乃さんの活躍が印象的でした。
去年のバウ公演でもジャズを歌ってらっしゃったのが素敵だったので、また風間さんが歌うジャズが聞きたいなぁと思っていたので望みが叶いました。

礼華はるくんが公演を通して3番手ポジションにいたのもびっくりでした。「親孝行そうないい息子さん」と言いたくなる下級生だったのに、いつのまにかスターさんなんだなぁと感慨深かったです。

それから月組といえば私のイチオシ結愛かれんちゃん♡ 今回も表情豊かで素敵でした。
そしてデリシューの初舞台ロケットで気になっていた一輝翔琉さんを発見。月組配属だったんですね。やはり私の目線泥棒でずっと追いかけて見てしまいました。

ここのところ大人っぽいといいますか渋めの演目が多い月組ですが、来年は下級生の1人ひとりまで目が留まるような派手な演目が来たらいいなぁと思います。
芝居の月組なのは承知なのだけど、明るいショー作品を期待します。

| | コメント (0)

2022/11/29

マジ!マジ!マジック!

11月17日と18日に宝塚大劇場にて星組公演「ディミトリ~曙光に散る、紫の花~」「JAGUAR BEAT-ジャガービート-」を見てきました。

「JAGUAR BEAT」は外連味たっぷり、齋藤吉正先生ワールドてんこ盛りのショーでした。
ゴージャスなコスチュームがスタイルの良い星組生にはまって眼福。
サウンドエフェクトが強めで目眩く色彩の洪水。情報量が多くて目がぐるぐるしました。

猫耳の可愛い娘役さんたちがいたんだけど、どの場面だったっけ?
お顔を確認しようと思ったのに、かっこいい人たちにも気を取られているあいだにうたかたのように消えてしまいました。

キラッキラにキュートな舞空瞳さんに目を奪われ、胡散臭く発光してる瀬央ゆりあさんに思わずのけ反りそうになったり、超絶スタイルの極美慎さんの笑顔にクラクラしたり、美人な女豹の天華えまさんに釘付けになったり、なんかいっぱいキラキラの組子出た~!あっあそこに朝水りょうさん♡などと目まぐるしく視線を動かしているといつの間にか礼真琴さんが登場してて、え?こんなことってある?
ふつうトップさんの登場には拍手があるんじゃなかったっけ??
みたいな場面もあったりして、なんというか見知らぬ街のイルミネーションの眩惑と喧騒のクリスマスマーケットで迷子になってしまったようなそんな感覚に陥りました。

2回観劇したのに記憶がぐちゃぐちゃで、どの記憶がどの場面だったかさっぱりわからない状態です。
具体的な記憶より印象が勝る感じといいますか、わたし的には舞空瞳さん、瀬央さん、極美さんが最高に素敵に見えたショーでした。
舞空さんメインにしたダンシングショーを見てみたいなぁなんて思ったり。

前回「グランカンタンテ」を見て宝塚らしいショーに感動したのですが、今回の「JAGUAR BEAT」も真反対だけどこれもまた宝塚らしいショーだったと思います。
ただ「グランカンタンテ」みたいなショーが見られると思って客席にいたので、初見はショーのスピードに脳みそがついていけてなかったです。
翌日2回目を見るときにはちゃんと覚えていようと思ったのに、やっぱり無理でした。

ちょっと残念に思ったのは、音をいじりすぎて礼真琴さんの伸びのある歌声を堪能できなかったこと。
ジャガーの咆哮をかぶせるよりも、礼さんの歌声そのものをもっと聞きたかったなぁと思うけれど、作品的に無理な発声をしそうなので(無理をするとどんなシャウトでも出せそうな礼さんなので)、歌いまくるであろう次回作の「赤と黒」や「1789」までその伸びやかな歌声は温存してもらったほうがいいかなと思いました。

さらに言うと「グランカンタンテ」に大満足だったものの、礼さん以外の星組生の活躍をもっと見たいなぁとも思っていた私には、この「JAGUAR BEAT」はそこの部分が満たされているのが嬉しく楽しかったです。
あっちが満たされればこっちが足りない・・といろいろわがままな要求ばかりですね。

この作品で星組大劇場のショーデビューとなる暁千星さんの印象は「真面目だなぁ」でした。
月組の時よりも高く飛び跳ね踊り動きまわっている印象もあり、たくさん活躍できそう。
新しい環境に慣れてさらにこのマーリンという役割の悪の余裕と色気が増すのを楽しみにしています。

どの場面だったか、暁さんの手下のような役をしていた水乃ゆりさんの柄タイツの脚に目が釘付けになり頭がバグを起こしそうになりました。
マレーネ・ディートリッヒみたいな水乃ゆりちゃんが見たいなぁ。そう思いませんか齋藤先生。
悪い暁さんの隣には大輪の牡丹のような娘役さんが合うなぁと絶賛"ありゆり”推しになりました。

クラブみたいな場面で、パニエたっぷりミニドレスの舞空瞳ちゃんにも頭が爆発しそうになりました。可愛さ∞。「満天星大夜總会」のHANACHANG(花總まりさん)を彷彿しました。
この場面の後方でボーイ役の極美慎さんと水乃ゆりちゃんからも目が離せなくなって、どこを見ていいか困ったのでした。舞空瞳ちゃんと瀬央さんの勝負の行方も気になるのに!
瀬央さん、暁さん、極美さん、綺城ひか理さん、天華えまさんの五色のスタイル戦隊みたいなコスチューム場面も爆上がりました。
ほかにも猫耳、車いす、迷彩のミリタリーコスチューム等々、齋藤先生の趣味嗜好がてんこ盛りだなぁと思いました。
終演幕に映し出される礼さんの「See you!」も笑。

なんだかんだ訳がわからなくなりながら夢中で見終わったショーでした。
さらに進化した舞台を、また見に行きたいです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

宝塚 凰稀かなめがいた宙組 宝塚 大和悠河がいた宙組 \ 宙 組 !!/ ♕ 花組 ♕ 月組 ♕ 雪組 ♕ 星組 ♖ 観劇 ♖ 宝塚 ♖ 宝塚OG ♖ コンサート ♖ ストプレ ♖ ディナーショー ♖ ミュージカル ♖ 劇団☆新感線 ♖ 宝塚大劇場 ♖ 東京宝塚劇場 ♖ 歌舞伎 ♖ 歌舞伎座 ♖ 狂言/能楽 ♖TBS赤坂ACTシアター ♖『1789』 ♖『エリザベート』 ♖『ベルサイユのばら』 ♖『ロミオとジュリエット』 ♖キャナルシティ劇場 ♖シアターBRAVA! ♖シアタークリエ ♖シアタードラマシティ ♖フェスティバルホール ♖三越劇場 ♖中日劇場 ♖久留米シティプラザ ザ・グランドホール ♖九州厚生年金会館 ♖佐賀市文化会館 ♖北九州ソレイユホール ♖北九州芸術劇場大ホール ♖博多座 ♖国際フォーラムCホール ♖大野城まどかぴあ大ホール ♖大阪城ホール ♖天王洲銀河劇場 ♖宝塚バウホール ♖宝塚観劇-全国ツアー ♖宝山ホール ♖帝国劇場 ♖広島文化学園HBGホール ♖御園座 ♖愛知県芸術劇場大ホール ♖新国立劇場中劇場 ♖日本青年館ホール ♖東急シアターオーブ ♖梅田芸術劇場メインホール ♖渋谷区文化総合センター大和田さくらホール ♖熊本城ホール ♖熊本市民会館 ♖福岡サンパレス ♖福岡市民会館大ホール ♖青山円形劇場 ♖青山劇場 ♗ 宙組 白夜の誓い/Phoenix宝塚 ♗ 宙組 ベルサイユのばら-オスカル編- ♗ 宙組 ロバート・キャパ/シトラスの風 ♗ 宙組 風と共に去りぬ ♗ 宙組 うたかたの恋/Amour de 99 ♗ 宙組 モンテクリスト伯/Amour de 99 ♗ 宙組 銀河英雄伝説@TAKARAZUKA ♗ 雪組 ベルサイユのばら-フェルゼン編-特出 ♗宝塚宝石箱 ♘ 京極夏彦の本 ♘ 波津彬子の本 ♘ TONOの本 ♘ 本の話 おでかけ。 凰稀かなめ - ouki kaname 大和悠河- yamato yuga 大和悠河-宝塚時代 宝塚観劇iii- 薔薇に降る雨 + review 宝塚観劇iii- 外伝ベルばら-アンドレ編- + show(中日劇場) 宝塚観劇iii- Paradise Prince + review 宝塚観劇iii- 雨に唄えば(宙組) 宝塚観劇iii- 黎明の風 + review 宝塚観劇iii- バレンシアの熱い花 + show 宝塚観劇iii-A/L 宝塚観劇ii- 不滅の恋人たちへ 宝塚観劇ii-THE LAST PARTY(宙組) 宝塚観劇i- 維新回天・竜馬伝!+ review 宝塚観劇i- コパカバーナ(博多座) 宝塚観劇i- NEVER SAY GOODBYE 宝塚観劇i- 炎にくちづけを+ show 宝塚観劇i-ホテル ステラマリス+review 映画・TVドラマ 音楽